ネグリ〈帝国〉(2003)帝国から柄谷行人『帝国の構造』(2014)まで
資本主義の帝国主義的段階については、先進国、そして、ちきゅう的規模でのインテリゲンチャーの中では周知のものとなっており、前提として自由言論は、開始されて久しいようです。
しかし、まだまだヘーゲル歴史哲学の改編解釈段階にとどまっているのであって、唯物論的展開には到達していないのではないのか、その遅れとしての危惧が広がっているように痛感されているのではないでしょうか?
語られるべきは、具体的な米帝国主義論とその歴史であり、日本帝国主義論とその歴史であり、そのものと市民の戦いであろうからです。
しかし、日本の社会主義、または、マルクス主義運動のかつての主流?となっている黒田寛一氏の運動などに代表される組織などなど謎のベールに包まれているものも多く、非公式の部分、かつてのロシア、ボルシビキ、メンシビキの対立のように、表に現れずらくなっているものも多い以上に、これまた周知のごとく内ゲバイメージもあり、民主主義内市民運動と合流するにも、連帯するにも難があり、また、マルクス主義運動については、その内ゲバ印象が大きい故に、怖れられ近寄りがたいものを作っている中での一致団結して〈帝国〉と対峙するのでもなく、小組織化、分断されている。
かつてからマルクスが述べているように、資本家の連帯は、慣習化されているにもかかわらず労働者階級は、その慣習を持たず、孤立させられている故に、対抗出来ない状況が続いていると言わざるおえない状況が、21世紀の今日まで続いている危惧であり、痛感だろうと言う事です。
どこの市民学習会も非営利であり、情熱を持つ個人、私人の尽力によって支えられているようですが、少ない私財を投げ打っても限界があり、〈帝国〉へと対抗するには、まさに、白鯨と老人の戦いをみる無謀さもあるようです。
良心的な学者の方々が、助言されて何とか繋いできている印象もあるのですが、実は、学業だけで生涯の大半を過ごされてきた純粋さ、非営利的良心では、企業化され、組織化されたる〈帝国〉の敵ではなく、まだまだ、カント的私人主観的自律論の段階であった反省が、かなり前の廣松渉共同主観論としての乗り越えが提唱されてからは、前提となっていると僕のような素人でも考えていたのですが、そうではない、日本の社会主義運動は、おろか、学界の現状でも市民運動の哲学的基礎付けとして未熟なまま放置された状況に現在に至るまであるようです。
何もかも整備されていない中で、再び、安倍晋三総理は、年内解散により、〈帝国〉を政治的に強固に推し進めるべく画策しているにもかかわらず、なすすべなく、まさに、民主主義未満状況、前近代状況の中に置かれている日本の市民運動は、孤立状況を余儀なくされたままである危惧、痛感を早急になんとかしなくてはならないはずなのに諦めが支配的であるのか、若者の政治的無関心、無党派層として〈帝国〉と長期独裁政権である自民党政治的オブラートから脱することが出来ない、それを手をこまねいて待つしかない現状では誰もが、この日本社会に絶望するだけでしかなく、より誠実で、良心的な市民の方が、大きな絶望を持つ事態が、今の21世紀の日本の政治であり、経済的不平等の助長であり、無教育的学界の停滞!
低迷状況、これでは、市民運動は、常に、漂流して、孤立を余儀なくされているのは、当然のであると言えば当然であるだろうと言わざるおえないのです。
故に、ちきゅう座や市民運動学習会への期待が、大きく、ここが、最後の砦となっていると考えている人々が、投稿しているのだと考えているのですが、更に、整備して、広報拡大に努めるべく、知恵をだしあわなくてはならないとされているのではないでしょうか?
第一部
日本帝国主義論粗描から
〈帝国〉非正規労働者世界、消費だけが許されている奴隷社会 日本
日本革命は既に始まっている
帝国と階級を拒絶して生きよ
山本太郎氏が繰り返し、大企業、大資本に独占されている民主主義投票行動への抵抗をツイキャスにて若者へ訴えている様に、そして、福島瑞穂さんが、社民党の中で固持している土井たか子精神の中に、更に、日本共産党の中で、マルクスマニュフェスト宣言を保守的に維持しているギリギリの戦いをそれぞれに後押ししながら世界的ちきゅう的規模での〈帝国〉との戦いを結びつけていく独立して対抗したる哲学から経済学論的基盤が、学習会的に話し合われなくてはならない。
そして、それを広報するインターネット上の拠点を整備していく足元から、開始しなくてはならない。
〈帝国〉とは、真の意味でのバカの壁であり、人を人材を殺す壁であるのであるが、それ以上に、各労働者、市民は、自分の壁を打ち破り、連帯する独自の哲学、そして、経済学論は、なにであり、何であったのか?
それを、再び、問い直すことから始めなくてならない。
僕は、資本主義の最高段階にして、最後の段階としての帝国主義に対抗するものは、あらゆる意味で全ての人の可能性を引き出す社会としての社会主義運動にしかそれは、見出せず、先人であるマルクスの21世紀的乗り越えとして、その為の真の意味での継承とは、批判的継承とは、何であるのかを市民学習会の主題として、改めて、繰り返し、戻りながら、誠実に問い直すことからしか始まらないのではないかと思っているのです。
抗日戦線70周年である2015年を目の前にして、アジア的にもそして、日帝として日本国民、憲法精神さえ踏みにじり続けている長期独裁安倍晋三に対して、顔を合わせない習近平氏。日本帝国主義への怒りと厚顔無恥への憎しみは深い。
中国人民と同じく、その社会の奴隷とされている非正規労働者、更には、過剰労働、過労死的状況に置かれている正規労働者の日帝被害市民の時の権力者への怒りと憎しみは、深く絶望的な段階に来ている。
プチブル的状況に甘んじることなく、市民学習会を広げていくのでなくてはならないのが、現在であり、報道もメディアも真の姿を映し出してはいない。
取り急ぎの一文。また、時間がある時に続きを書きます。