数年前、中国の民主化運動への加担をめぐって研究会の仲間とかなり激しい議論のやりとりをしたことがある。それは〈文革〉の体験者を称する中国人が日本でとる政治姿勢を私が批判したことに始まる口論であった。〈文革〉を知りもしないお前が、その体験者が日本でとる政治姿勢をとやかく批判することができるかと彼はいった。たしかに私は1960年から70年代にかけての世界史の日本における共時的な体験者として中国の〈文革〉を知っても、それ以上に深く〈文革〉を知るものではない。その私が〈文革〉を知ったと思ったのは、中国のノーベル賞作家である高行健の小説『ある男の聖書』を読んでからである。私は〈文革〉というものの恐ろしさを、 「ある男」の魂の根底からのうめきとともに知った。私は口論の相手に向かって、「ぼくは高行健の小説で〈文革〉を知った」と答えた。相手は即座に「フィクションなどによって何が分かるか」といった。喧嘩はお互いに怒鳴り合って終わった、それから彼とは口もきかない関係になった。
私は高行健の小説は〈文革〉の実体験者のだれよりも〈文革〉の真実を伝えるものだと思っている。ほんとうの文学はいかなる〈真相報告〉も伝えない〈事の真実〉を伝えるのである。いま〈文革〉50年がいわれている。権力が歴史から消す〈文革〉を、世界の人民の側で想起することは大事なことだ。だがいい加減な形で〈文革〉を想起するな。〈文革〉というものの本当の恐ろしさをまず知ることから始めよう。そのために高行健の小説『ある男の聖書』をまず読むことを私はお薦めしたい。
『ある男の聖書』の一節をここに引いておこう。
「おまえが口を開いて叫べば、それは男の思うツボだった。おまえがさがし求めていた正義は、その男自身なのだ。おまえはその男のために殺し合い、その男のスローガンを叫ぶことを余儀なくされた。自分のことばを失い、オウムが人真似をするように受け売りの話をした。おまえは改造され、記憶を拭い去り、頭脳を喪失して、その男の信徒となった。信じられないことを信じ、男の手先、男の走狗となった。その男のために犠牲になり、用済みとなれば男の祭壇に置かれ、男の副葬品として焼かれてしまう。その男の輝かしい形象の引き立て役なのだった。おまえは灰となってからも、男の風にしたがって漂った。」
高行健『ある男の聖書』集英社、2001年。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2016.9.01より許可を得て転載
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