敗戦前後の疎開時は別にして、社会人になってから10年ほどで生家を出たのが初めての引っ越しで、それから4回目の当地である。それにもめげず持ち歩いていたことになる品々、資料である。今回、あらためて読み直してみたりすると、小学校時代の家族との関係や遊び友だちを思い起こし、同時に教育環境、時代背景も見えてきて、興味深いものがあった。
1)小学校3年の夏休みの絵日記~畑と豊島園
7月21日から8月16日まで、8日間の日記が、半切の幅の巻物状に書かれているが、紙質が悪く保存もよくなかったのだろう、あちこち破れそうなので、障子紙で台紙を付けた。何年かの記述は見当たらないが、月日と曜日から1948年、三年の夏休みと分かった。我が家の隣の病院の焼け跡がまだ空き地で、その一部を我が家の畑にしていた頃である。戦前は、キリスト系の病院があった土地で、戦後は小さな教会が建つまでのわずかな間あき地であった。私の記憶では、家に近いところでは、キュウリやナス、小松菜のような葉物、トマト、エンドウなどを育てていたし、ダリヤや松葉ボタンも咲いていた。そして、空き地の少し広いやわらかい土の畑では、サツマイモやジャガイモも掘った記憶がある。その土地は、教会も移転し、再び空き地になって、しばらく町内会の盆踊りや野外映画会の会場になったこともあったが、今は小さなビルが建て込んでいる。
うちのはたけからナスをとってマッチのぼうをさしてみたらぶたとぞうのようなものが(で)きました。これはおもしろいと思って写生をしました。」後半には、きのうのかみなりが、「ピカピカ、ゴロゴロものすごい光と音でみみをふさいだりうつぶせになったり、どうしていいのかわからくなりました。」との文がある。( )脱字か。
「7月29日木 はれ
きょうはおにいさんとはたけをしました。にいさんがくさをはこんでおくれといいました。すこしやってからあついのでかほをあらいにいきました。おにいさんが手ぬぐいをもってきてたけのさきにかけて、そこへわたくしのぼうしをかけてみるとちょうどかかしのようになりました。」
14歳違いの長兄を、普段は「にいちゃん」と呼んでいたが、この日記では、少しよそいきに「おにいさん」「にいさん」と書いている。絵を見ると、トウモロコシのようにも見えるものも植えられているが、何だったのだろう。草取りには苦労していたようだ。(太字ママ)
「八月九日月 はれ
きょうはおにいさんとじろうちゃんとおべんとうをもってとしまえんへいきました。いったらよしえちゃんといきやいました。ぶらんこをのってからプールにはいりました。おにいさんにもってもらっておよぎました。おにいさんはふかいほうにいきました。こんどじろうちゃんにもってもらっておよぎました。じろうちゃんにもぐ(ら)されてしまいました。」とある。「じろうちゃん」とは、7歳違いの次兄で、中学生だったのではないか。後半では、二人の兄が深い方で泳ぎの「きょうそうをしたらどちらもおなじでした」とあり、三人の兄妹の仲良しぶりがうかがえる。というより、池袋で育った私たちには、豊島園といえば、いまでいうデイズニーランドのような場所であって、私の面倒を見ながら、兄たちも結構楽しんだのではなかったかと思う。両親は、家業の薬屋で、休業日などない、一年中働きづめの時代で、長男を付き添いに、夏休みに一回くらいと、送り出してくれたのだと思う。この絵日記の八日分の中の三日分が、「おままごと」「人形遊び」であり、一日が「かいせん(海戦?)」遊びで、「すいらいかんちょう(水雷艦長)」なら覚えがあるのだが、はっきりしない。どうも四人が二手に分かれての鬼ごっこのようでもあり、1回目は負けたが、2回目は、「ふたりともわたしがとりこにしました」と自慢げに書いている。(太字ママ、脱字)
2)小学校5年生の理科ノート
・ビタミンを含むたべものー不足するとかかる病気/食べ物の消化時間の線グラフ
・動物のマラソンきょうそう(1時間)、生物はどのように生きているか(かえるめだかの実験、暖流と寒流に住む魚、葉のはたらき、根のはたらき・・・)
・風はどのように吹くか・音はどのように伝わるか・光はどのように進むか
・機械や道具を使うとどんなに便利か(てこ、かっ車、ポンプ、電池、電話、じしゃく)
最後の方に「なぜ直列の方が光が強いのか」の題の、次のような頁があった。どの頁にも、様々な実験の様子を一生懸命描いているのが伺われるが、その実験の思い出はほとんどない。かえるやめだかを空気と水の量をかえていれたビンで、どちらが先に弱るかなども書かれているが、そんことをした覚えがない。教科書や先生の黒板の絵を写しでもしたのだろうか。小学校のクラス会は、高齢化のため沙汰ヤミになっているが、友達や先生にお聞きしてみたい。
3)小学校6年生の国語ノート
6年3組とある国語のノート、多くは漢字書き取りで頁はうずまっているが、1頁目が「赤十字の旗」とある。どういうわけか、日本国憲法の前文の書き写しがなされているところがある。国語の教科書にあったのか、先生の指導か、自習だったのか、不明である。裏表紙に、当時の時間割があった。二コマが単位で、国語・算数・社会が三回、理科・体育が2回、音楽・家庭科1回となっている。いまの感覚でいうと、理科が2回、少なくなかったのかな。ローマ字が短時間ながら2回、習字が1回となっている。ローマ字というのは4年生からあった。アルファベットに慣れるという意味はあったと思うが、比重が高すぎたように思う。当時は、GHQの意向でもあったのだが、ローマ字論者は明治時代からいたということは後から知って驚いたりもした。現在は、小学校から英語の学習があるが、逆に、国語の学習時間が押されてはいないか不安ではある。なお、私たちの世代には、「道徳」という科目がなかったことだけはありがたいことだったと思っている。
なお、国語のノートの最終ページに、妙な問答が書かれていた。
・講和会議のてい結に対する感想
日本もこの間の講和会議によって世界のな(か)まいりなった。私も平和をまもらなければならない。そして、四Hクラブのようなもので世界平和の第一歩をふみださなければならないと思います。
・なぜこの学校を選んだか
まず近くにいい先生、いい生徒がいて、それで女の学校ですからえらびました。
これはどうも、中学校”お受験”の面接対応だったようなのだ。たしかに、私は、池袋に近い私立の女子大学の付属中学校を受験して、不合格になっている。両親の面接で、「お子さんが腕時計を欲しいといったら、どうなさいますか」と尋ねられたらしい。父親が「友達が持っているようだったら買い与えるつもりだ」と答えたのが、不合格の要因ではないかと、母親は私を慰めてくれたのを思い出す。その後、受験した国立大学付属中学校の試験には合格、それが定員の2倍だったらしく、後は抽選で、運よく入学できたのだが、そこは、男女共学だった。もう一つの選択肢として公立中学への進学があったのだが、他の二つの道を進んでいたら、どんな中学生にになっていたか、などと想像してみた。”お受験”と今でこそいうが、当時、もちろん塾もなかった。なかには家庭教師をつけて、私学に進んだりする小学生もいたようだ。我が家ではそんな余裕はなかった。ただ、大正時代、小学校の教師だった母親の方が、熱心だったかもしれない。最後の頁の想定問答らしきものは、当時の教育現場や世論での「講和条約」への対応がわかるような気がした。女の学校だから選んだというのも、いまでは笑ってしまうところである。
初出:「内野光子のブログ」2021.4.24より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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