《マルクスの亡霊再び…生誕前夜祭》ちきゅう座総会Q&A、マルクスと貧困、意識と無意識について

【大未来史、「東京演義」共同共闘革命の開陳】

私信の様な「交流広場」いつも掲載ありがとうございます。

読んで頂けているのか?そして、何か受け取って頂けているのか?書くことによって前進しているのか?

個人的には、そこには、迷いはありません。武田明のタグと市民権を頂き、嬉しく活用させていただいております。

今回、引用させて頂いている「ブルマンだよね!」さんのタグ、尊敬する中野@貴州さんのタグがないのはどうしてでしょうか?そんな世俗を超越した存在であるとするならこの件、陛下に触れませんが…。(冗談はこの位にして)

いよいよ2年後。

全身全霊で、有機的なる生命としてのマルクスを問いたい!

その200年の歴史的推移、現在までの意識と無意識を炙り出したい。

これは、どの範囲に留まっているのだろうか?

僕以上に渇望している人はいないのでしょうか!?

本来は、「貧困」の側にアピールする、労働者にアピールする生きる知恵としてもあったのであるが、

理論は、独立し、アカデミズムの中で、庶民は、そこまでたどり着けないピケティの述べる「教育格差」の中で、

榊原氏の言う「幼稚さ」の中にとじ込められている。

それは、真の人としての対話にも、真実にも辿り着けない、生きている喜びにもたどり着けない

「徒然草(52段) 仁和寺にある法師」にあり続ける悲劇、断片化されたる不幸であるように感じている。

マルクスはもう終わったと言いたい人、更に、赤狩り(ヘイト)傾向の人もあるだろう。

岩上氏のツイキャスにゲスト出演した吉良よしこ氏後日談にて、「マルクスを読んだことがない」と述べていたと告げた。

日本共産党の視点であっても「生活者」「貧困」の側の現在進行形にあり、必ずしもマルクス自身を必要はしていない。

しかし、その両極である事の不満が歪めない。

映画『1900年』よろしく、全体主義については、左右両極があり、ヒトラーとスターリンの両翼に代表されているが、それを「マルクスへ帰れ」

「…に帰れ」の本来の根源であるマルクス個人主義、自由主義的戦い、ヘーゲル全体主義、キリスト教全体主義に対する位置づけからも問われる逆転の逆転があちらこちらにあり、整理されていない状態が続いてきているが、ヘーゲル全てが悪いわけでも、キリスト教すべてが悪いわけでもないが、全肯定でもない「弁証法的統一性」としての「人格」のその後の展開をどうするのか?

どの様に継承されて来たのか?

その問いに決着する事、それを、「歴史的知性」「歴史的良心」が要求するままに語りつくし、そして、多くの民衆、労働者同胞に、伝えていく礎をここに再び、作りたいただそれだけに他ならない

勿論、アカデミズム的隠し味として位置付けられているマルクスについて、再び、「公然」と問う基盤を、この2ヵ年によって、準備を怠らない事に他ならず、聴衆を持たない、映画であるなら『1900年』評に対して監督自ら語った様に、「映画は、観客に観て貰った段階で完成する」その精神である。

真日本革命、「東京演義」であるなら尚更でもあるだろう。

「現代史研究会」も「ちきゅう座総会」も「東京演義」の幅に留まっている不満がいつもないわけではない。

巨大メディアを資本主義的コマーシャリズムに席巻されている「一強多弱」の中に、アカデミズムも論理学理性も置き去りにされており、庶民、労働者、貧困貧窮する側は、更に、辿り着けない在り方をどうするのか?

これを、問い、更に、「東京演義」の神話を、テキスト的に、延長し、日本列島隅々にまで届ける「共同著作」「テキスト読本」としての展開、連携の問題が常に付きまとっているのであり、それを、具体的に、唯物論的実践として射程に含めながら、

一瞬一瞬を「刻印」しながら、2018年5月の目標として、意識を高めなくてはならないと言う事に他ならないわけである。

①ちきゅう座国会Q&A

さて、「前置き」が長くなったが、

TPPを人質とした熊本地震国会と言うお粗末さを相変わらず税金と時間と金の無駄、空虚なる「建前」ばかりに終始している

「時間稼ぎ」国会欺瞞を感じ、ムヒカ前大統領の爪の垢にも届かない虚しさばかりの二日間であったが、その「心なき」諦念に支配されない「ちきゅう座」国会たる明快なるQ&Aを誠実に求めていこう。

定理Q1「インターネット活用としてのちきゅう座はこのままで良いのか?」

定理Q2「大いなる戸口、広報であるインターネットであるのであるなら本殿である研究会、更に、出版物との連携をどの様に考えているのか?」

定理Q3「本当は、怖いiPadと言う庶民の貧困に対して、技術論的情報論的サポートとしての広がり、ちきゅう座自身の情報の整理と処理の在り方はこれで良いのか?」

定理Q4「資本主義、巨大メディア、戦争法、TPP、パナマ文書、その根底としての〔ピケティからマルクスへ〕その生誕祭的梁山泊、三国志を戦い抜く2ヵ年計画としての知性と意思を自問共闘しているのか?具体的に現していけるのか?唯物論、実践的射程にあると言えるのか?」

まずは、良心、誠実さ、ソクラテス弁論法、この問いである。

②マルクスと貧困の問いの現状(理論と現実)

『1分間ピケティ』(2015年4月初版)

「ピケティは逆に、放置すれば富の格差はますます拡大すると言っています。

理由は、資本主義と民主主義がまったく同じではないからです。

多くの経済学者は、資本主義イコール民主主義だという前提で、富の格差に着目してきませんでした。」(p1)

(これは、明快な説明であるのだが、単純すぎるのか大部分の民衆は、アメリカイコール民主主義のままの幻想を打ち破れずにいる事をどうするのか?)

「世界には、多くのタックスヘブン(租税回避地)がある。法人所得税をゼロにするなどの優遇税制によって海外企業を誘致しようとする国や地域だ。ケイマン諸島、ハバマなどが有名である。」(p60)

(既に、ピケティの中で、指摘されているものの後追いの様に降って沸いたパナマ文書問題であるが、大部分の人、または、政治家も学者もポカーンと見守っている段階となっている、法律的問題であっても、法を作るのが一強多弱の国会であり、強者の論理に対して民主主義的対抗が出来ていない問題点をどうするのか?この理論武装が欠如している、それでも良いと言う理性、良心とは果たしてあるのだろうか?)

『ハイエク 知識社会の自由主義』(池田信夫著)(2008年9月初版)

思ったほど酷い本ではなかった。

ポパー、ハイエク、フリードマン、新自由主義に対して、明確な反駁をテキスト化していく時である。

ガルブレイスVSフリードマンであるなら、ガルブレイス派である我らの前形の展開としての植草一秀ブログの展開。

『ヘーゲルからニーチェへ』

この本の副題は、本来、「十九世紀思想における革命的断絶 マルクスとキルケゴール」であったようだ。

序章 ゲーテとヘーゲル

その交流から書き下ろして居るところが新鮮で面白い。

第二章 老年ヘーゲル派、青年ヘーゲル派、新ヘーゲル派

この切り口もなかなかである。

『宇野理論の現在と論点』(2010年7月初版)

https://chikyuza.net/archives/61789

http://homepage3.nifty.com/associe-for-change/study2016/splec01.html

先日9日の「ルネサンス研究会」の飲み会の席で、中野@貴州氏に次いで、花崎 皋平氏を直接知られている方と会話。

武藤一羊氏、小倉利丸氏、たんぽぽ舎、ちきゅう座広報連携がピープルズ・プラン研究所との共闘を感じる今日この頃の中で、

廣松渉氏と双璧をなす、『ドイツ・イデオロギー』の根本的問いから生誕祭的総合、人生の総合としての会合が出来るならと思わざる負えない。

しかし、理論であるマルクスは、日本共産党も吉良よしこさんも必要としていない様に、

原発問題や民衆問題から遠い位置づけとして、沈黙の中にあるのか?

その昭和史と平成史の断絶こそ、敢えて問い仕上げていきたい要求が含まれている様に思う。

世間、庶民、大衆、若者たちは、その重奏なる歴史、アカデミズムに到達されない「時代の奴隷」である鎖を持つ。

花崎 皋平氏こそ担ぎ出したい様に希望せざる負えない。これが、華ではないだろうか?

今こそ、中国、朝鮮戦争、21世紀の「代理戦争」悲劇とされてしまっているマルクスの亡霊を真正面から問いただしてきたい。

そして、キューバ革命、ムヒカ前大統領来日革命、「ピケティからマルクスへ」理論革命へわかり易い『1900年』的「東京演義」の実践的体系的年輪、5月の桃源の誓いを確認しながら、再び合間見えていく対話、弁証法の復権へ。

これ以外に、人生として体現したいものはないのである。

③意識と無意識とは

柄谷行人氏の述べる「1条と9条」の問題にもあったものであり、

それ以上に、医学における人生論的生涯調和としての「認知症」問題に辿り着く問題意識である。

是非、これを明らかにしながら、同立して進めたい。

精神医学、心理学、哲学として、人は、親から子、そして、孫へと展開している。

しかし、資本主義、若者文化としての商品性、断片化、断絶化、人工知能空虚化によって、老人的総合的知恵の加算をさせない、「浪費」「奴隷的労働」「情報弱者」による人間廃棄状況を公然と当然のものとして、「悲劇の死」「死に至る病」として、「人生を空費」させられてしまっている。

それは、意識されるものと気付かれづにあるもの(潜在的、無意識)の中で、更に、悲劇を助長している様に感じている。

医学的知識が、大衆に解放されているなら、認知症は、防げるが防がない社会的病理こそが、21世紀資本主義の本質である。

ここに到達するのが目的に含まれているわけである。

カミュ

「ドストエフスキーは、人生を問う続ける故に、滑稽である事を恐れない」

(2016年5月は、地方巡業彷徨があるので総会出席できないのが残念。しかし、1年、2年是非、みなで、加算して行きましょう!)

付録画集

http://revolutio.exblog.jp/23080321/