道徳教育が教科となり、検定教科書による授業が粛々と実施されているようです。しかし、授業の在り方の是非よりも、道徳が学校教育の中枢に据えられて、学校教育そのものが道徳主義化していくことに、重大な危惧を禁じ得ない状況だと考えます。
道徳の教科化を「特別の教科 道徳」として認めた中央教育審議会の答申(2014・10・21)は、「道徳教育は、本来、学校教育の中核として位置付けられるべきもの」としていました。だとすれば、特別の教科の「特別」には、「他の一般教科とは別格の、上に立つ、筆頭の」という意味が込められている、と理解すべきものです。
答申では、いろいろと修飾(言い訳)の説明が施されてはいますが、戦前の修身科が位置付けられていた筆頭教科と同じ扱い、と言わざるを得ません。と云うことはつまり、学校(教育)を国民の養成を担う国家の統治機能の一端とする、ということに他ならないと危惧すべきです。
❖06改訂教基法第2条(目標)は、第1条(目的)の“捻じ曲げ解釈”的な条文だ
学校教育全体を浸食する道徳教育の大きな根拠は何かと考えると、2006年に改訂(改悪)された現行の教育基本法(教基法)に新設された第2条(教育の目標)に思い当たります。第1条の「教育の目的」があるのに、5項目にわたり具体的な「精神」と「態度」を「目標」として列挙しています。「目的」の理念の「捻じ曲げ解釈」的な条文だ、と言いたいと考えます。
第2条の条文は、次の通りです。
第2条(教育の目標) 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。 1.幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。 2.個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自立の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。 3.正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。 4.生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。 5.伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
なお、第1条の教育の目的は、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」です。改訂前の1947年制定の教基法の条文から「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた」が削られています。
また、改訂前の第2条は「教育の方針」で、「教育は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」でした。実務的な「目標」に比べ、高い理念が感じられます。
❖第2条は“改悪”そのもの、教育勅語とも重なる問題の諸点
「教育の目標」では、道徳心や公共の精神、国と郷土を愛することなどの「精神・心」と「態度を養う」ことを定めています。この法文の構造は、戦前の「教育勅語」と同型と考えてよいと思います。伝統的な美風としての道徳は教育の淵源であるとして、人が生きていく上で心がけるべき徳目を掲げているのです。そして、この第2条の精神と態度は、特別の教科・道徳の示す事実上の徳目(内容項目)に反映されています。
要するに、第2条を挟んで教育勅語と特別の教科・道徳(の徳目)はつながっている、とも考え得るわけです。国家が(国の法律によって)国民に対して、特定の「精神」や「態度」を身に付けるように「教育する」というのです。その「特定」の精神や態度が具体的に定められているのが、教基法第2条の「教育の目標」なのです、
これは明らかに、個人の尊厳、基本的人権(思想信条の自由、学問の自由、表現の自由など)、国民の教育権(学ぶ権利)を侵害するものとして、憲法に違反すると考えるべきです。また、現行法の第1条(教育の目的)の規定に照らしても、適正と言えるとは思えません。法解釈として、第1条の規定(理念)が優先するはずです。1947年教基法の第1条の条文からは、前述のよう2006年の改訂で、「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた」が削除されていますが、それでもなおです。
このほか2006改訂では、▽前文で、「(憲法の)理想の実現は根本において教育の力に待つべきもの」が削除され、「真理と平和を希求」が「真理と正義を希求」に変えられ、「公共の精神を尊び」が加えられた、▽教育行政の規定では、「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」が削られ、「この法律及び他の法律の定めるところにより……国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下」と改められ、教育自治(教育委員会制度)の原則を崩し、国家(文部行政)や政治の介入・干渉を許すものになった、▽社会教育の条文から、生涯学習と家庭教育が分離され、社会教育が弱体化された(これによって、教育行政の部課名から「社会教育」が消えました。生涯学習には幼・小・中・高校・大学の学校教育も含まれますし、家庭教育はPTA活動も含め社会教育の領域というべきなのですが)、などの改悪があります。
2006年の教基法改悪は、改憲=壊憲の一里塚であるとともに、戦後教育の理念を壊し戦前型に引き戻す動きの始まりでした。
❖気がかりな戦前回帰の状況~教育・学校をめぐる戦後理念の解体の動き
今、“改革”されつつある学校の状況は、“「国民が統治する国家」から「国民を統治する国家」に相応しい「国民」を育成する学校(教育)の回復(戦前回帰)”だと言いたいと思います。つまり、戦後理念⇒民主主義「国民ぜんたいの意見で国を治めてゆく」(文部省著作『あたらしい憲法のはなし』)。⇒民主主義の根本精神は「人間を個人として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心」(文部省著作教科書『民主主義』)が、崩され、戦前の“国民教育”が回復されていく、ということです。「普通の国家」を取り戻したいという動きの現れであり、国民を統治・支配できなければ戦争などできないのです。その筋道づくりが、学校・教育改革です
学校・教育における戦後の理念は、“教育される国民”から自ら学ぶ個人へで、国家の教育権(国家が教育を施す)から⇒国民の教育権へ=教育を受け取る権利ではなく自ら学ぶ権利です。その機会と支援を差別なく提供(保障)する公的な責任(義務)が国にあるのです。それが「教育責任」ですが、しかし最近感じるのは、国や自治体(行政)は「教育責任」を「教育する責任」と思い込んでいるようだ、ということです。防災、健康、長寿、選挙・・・などなども、です。
教基法改悪の後に、教育・学校への国家の介入・統制の強化、教育内容への介入・干渉を強めた学習指導要領の改定、道徳の教科化、教員への管理強化などが進むとともに、機密法、共謀罪、戦争法等々。国家権力の拡充強化が進んできました。それには、国家による教育・学校の支配が欠かせないのです。
近頃、「今は『昭和3年』(1928)と酷似」(内田博文・九大名誉教授)、「昭和10年代と感じてしまう」(藤井博久氏)、官邸の主要ポストを警察官僚が占め、警察国家・監視社会化(『世界』11月号)などの警告が相次いでいます。1928年に治安維持法が改定・強化され、41年に「普通の人」にも拡大。1938年に国家総動員法発令。天皇の「即位正殿の儀」が行われ祝日とされた10・22を休日・休校にしなかった会社・大学をSNSで「非国民」として非難・・・「似ている」というより、戦前回帰が進んでいると言ったほうがいいかもしれません。
文科省(国立教育政策研究所)は、「自尊感情=自己肯定感」(Self Esteem)を「自己有用感」と言い換えるよう推奨しています。文部行政は、規範意識の育成の重要性からも適当とするのです。人の役に立った、喜ばれたなどの他者からの評判を受けての自己評価ですが、この他者に「世間の目」「総理」「国家」「官邸」などが入ったら怖い。ポピュリズムを支える大衆育て、国家の意思を忖度できる国民づくりがネライか? その根源にも「第2条」があります。
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〔eye4692:200311〕