「あまりに遅い復旧―救われた菅直人首相」

死者・行方不明者約2万5000人、避難民10数万人、そしてようやく作業員が内部に入れた東京電力福島第1原発。文字通り未曽有の「3・11」大災害から2か月が経過した。仮設住宅への入居がやっと始まり、放射能漏れの恐怖がようやく少し収まった。しかし東京電力が約束した6―9か月後の原子炉安定冷却までには、あと半年以上もある。
試されたのは、政府の最高責任者、菅直人首相の資質と能力であり、菅代表が率いる民主党政権の危機管理能力であった。この2か月間、直接の被災者をはじめとする国民が下した採点は「落第点」だったが、内閣総理大臣の地位にとどまることを至上目的とする菅直人氏は、未曽有の大災害発生によってその地位にとどまることがはからずも可能となった。半面、特に発生当初のあわてぶり、指示乱発によって菅首相の資質・能力の欠如が日々、表面化するという悲喜劇を同時並行的に体現した。
発生後2か月を目前に、かねて危険性を指摘され続けてきた静岡県・浜岡原発の、中部電力に対する全面停止要請の決断を自ら発表し、失われつつあった国民的支持の「一発回復」を狙っている。だが、翌日にはこの決断が浜岡を犠牲にして他の50基以上の原発を継続させるという、なんとも「奇術」めいた中身であることが判明し、今後のエネルギー政策の大転換ではないことが分かってきた。

▽献金特ダネの午後に発生
首相の地位に踏みとどまることを至上命題とする菅直人氏が「救われた」のは単なる偶然であった。3月11日の大手紙1面トップに「菅首相に在日外国人から計100万円強の献金が判明」との特ダネ記事が掲載された。書きぶりを見れば、在日韓国人からの献金であることは明白である。それより2週間まえ、菅首相を支えてきた前原誠司外相(当時)が数年間で計25万円の献金を、知人の在日韓国人女性から受け取った事実を認めて外相を辞任したばかりだ。
朝刊配達の当日午後2時46分、マグニチュード9・0の巨大地震が宮城県沖で発生、高さ14―15メートルの大津波が岩手、福島、宮城3県の沿岸一帯を襲った。2万数千人が飲み込まれ、住宅や農地、漁港は跡形もなくガレキの山となり、東電福島第1原発の自動冷却装置は破壊され、12、14日には水素爆発が発生し高濃度の放射能が雨と風に乗って東北―関東一帯を汚染した。
この大災害、事故が起きなければ、ただでさえ支持率が20%ラインを割り込もうとしていた菅内閣は、恐らく持ちこたえることはできなかったであろう。ところが大災害は菅首相への献金問題を吹き飛ばした。マスコミの報道は大災害一色に塗りつぶされた。

▽水素爆発とイラ菅暴発
自身の献金問題が吹き飛んでも、菅首相には前代未聞の巨大地震、大津波、原発放射能漏れという、ケタ違いの危機が襲いかかった。そして、危機に強い指導者を演じようとした菅首相は、かねて野党時代からレッテルを貼られていた「イラ菅」ぶりを爆発させた。
普段から公用車の運転手さんに「遅い。もっと速く」と怒鳴りつけるので、野党当時から政界に「すぐイライラする男」としてたびたび話題になった。秘書とか運転手ら弱い立場の人間にイライラをぶつけるという、政治指導者としては最悪のパーソナリティーである。
そのくせ、権力欲だけは人一倍旺盛である。社会党委員長だった村山富市氏をトップに担ぎ上げ、自民、社会、さきがけ3党が連立して非自民細川・羽田内閣から政権を奪い返した際、初めて自民党長老として菅直人厚相を観察した故後藤田正晴氏が驚きをもって筆者に語った人物評がこれである。カミソリ後藤田もびっくりするほど、菅直人厚相には特定の、明確な政策は見当たらず、ひたすら権力―それも最高政治指導者に「なりたい」という野望が強烈だというのだ。

▽まず消費税で慌てる
その後、「自社さ」政権は橋本竜太郎首相の就任で事実上、純粋の自民党政権に逆戻りし、菅氏の特性への関心は薄れたが、2009年8月30日の政権交代をきっかけにイラ菅が蘇えった。民主党政権初代の首相、鳩山由紀夫氏が小沢一郎幹事長と相討ちして翌2010年6月2日に退陣を表明。財務相として「にわか財政再建策」を財務官僚から吸収中だった菅氏は、電光石火、代表選に出馬―勝利し、憶えたばかりの消費税引き上げによる財政再建を、新首相として打ち出した。
同年7月11日に設定された参院選に、目玉政策として消費税を掲げ、イラ菅ぶりがはっきり露出した。味方は財務官僚の大群と、当時、自民党の財政通として目立ち始めた与謝野馨・現経済財政担当相らである。有権者からみれば鳩山前首相が「次の4年後の衆院選までは消費税引き上げに手をつけない」と再三再四、公約していたのに、代表―首相が代わったとたんに180度の政策転換ではないか、という一種の裏切りに映った。

▽脱小沢人事が武器
かくして民主党は参院選で惨敗を喫した。半数改選だが与党民主党の44議席に対して自民党51議席。参院での与野党議席は再逆転し、今度は民主党政権が国会対策で苦吟するねじれ状態が現出した。
それでも、菅代表は選挙敗北の責任を無視した。菅首相が武器にしたのは「脱小沢一郎色人事」だ。民主党内のルールで実施された昨年9月の代表選で小沢氏に勝利すると、閣内から党執行部に至るまで小沢批判派で占める人事を断行。菅首相の武器は政策ではなく「脱小沢色人事」一本槍となった。
その勢いで2011年はじめ、自民党を離党していた与謝野馨氏を一本釣りし、閣内に取り込んで再び消費税引き上げと年金、社会保障の一本化を持ち出し、消費税論者が多数を占める自民党との大連立を基本路線にした。参院選で国民から「ノー」を突き付けられた消費税路線をわずか半年後に再び掲げたのである。

▽いきなり現地へ
そこに外国人献金が暴露され、同じ日の午後、歴史的規模の大災害に襲われた。翌日の3月12日未明、菅首相はにわかに決断し、ヘリコプターで福島に飛んだ。首相が現地視察に飛べば、出迎える自治体や警察の警備は多数の人員、経費を費やす。菅首相の「イライラ決断」によって、中央の首相官邸での指揮官は一時不在となり、発する指令はその分、遅れた。
同日午後には、原子炉の1号炉が水素爆発を起こし、多くの国民がテレビの中継で肝を冷やす間に、官邸への緊急連絡が遅れるという失態が起きた。イラ菅は爆発し、自ら東電本社に乗り込み、社長らを怒鳴りつけた。原子炉内部の水素を外部に出す「ベント」の緊急実施を迫ったらしいが、このあたりの菅首相は文字通り「半狂乱」だった。未曽有の大災害・事故に対処する最高指導者が狂乱状態に陥ったのでは、国民の生命と安全が危うい。

▽押せ押せで遅れ
この間、遺体の捜索と収容、ガレキの撤去作業、仮設住宅の用地探しと建設、風評被害への対応など、山のように累積した危機管理措置はお互いに足を引っ張り合うかのように遅れに遅れて、押せ押せで2か月が経過した。市町村の首長らは不眠不休の努力を続けているが、首相官邸のトップリーダーが慌てるばかりで、統一的で冷静な指示能力を喪失していた。
最も強力な味方は米国。1979年のスリーマイルアイランド原発事故で炉心溶融の経験を持ち、その後もテロリストへの核拡散に備えてロボットなど特殊兵器を保有する米軍と、総電力の80%を原発に依存するフランスのサルコジ大統領、原発関連大企業の来日と協力である。

▽大丈夫と大変に2分
枝野幸男官房長官は野菜や水道用水、イカナゴなど海産物への放射能汚染をめぐって「いまただちに人体への危険はない」を繰り返し、東電の記者会見、政府の原子力安全院の記者会見はそれぞれ微妙に食い違う内容を発信し続けた。
いまただちに危険であれば記者会見の余裕もない。いずれもパニックを防ぐ目的から出たとの解釈もあるが、政府と独占大企業の自己防衛が目立った。
この食い違いが2か月間、人心を混乱させた。テレビ各局に引っ張り出された専門家や局専属のコメンテーターらは、思いつきの見通し乱発で混乱を煽りに煽った。煽る方向は二分され「大丈夫」を繰り返すグループと「大変だ。深刻だ」を強調するグループに分かれ、特に3月14日に3号炉が大規模な水素爆発を起こすと、進行する事実は「大変」の方に引きずられ、「大丈夫」派は劣勢に立った。

▽政治家の不在
結局、日本政府が原発推進の原動力とした「安全神話」が事実によって裏切られたのである。裏切られてもなお、「浜岡原発以外は安全」という、第二の神話に収斂しようとしている。
マグニチュード9・0の地震が現実に起き、高さ10数メートルの津波が軽く堤防を乗り越えた事実。その事実が起き、2万5000人が犠牲になっても、なお原発推進に拘泥する指導者は「政治家」では、少なくともない。国民の生命と安全を最優先で護るのが、政治家たることの最高の任務である。
2万人が犠牲になり、10数万人が住むところを失ってもなお、国会で議席を維持したいと考える人間は政治家ではなく権力と富をひたすら追求する「亡者」である。(了)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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