(2021年8月17日)
一昨日(8月15日)には、政府主催の式典だけでなく、東京都と都遺族連合会共催の戦没者追悼式が都庁で開かれている。知事や遺族ら90人が参列した。
遺族を代表して追悼の言葉を述べたのは、遺族会女性部幹事の木村百合子さん。木村さんの父は、1944年の終わりに出征。当時、妻のおなかにいた木村さんの顔を見ることなく、45年4月にフィリピン・ルソン島で戦死したという。
木村さんは「どんなに待っても、何年待っても、父は帰ってこない。毎日父を思っています。この心境は遺族でなければ分からない。戦争に行った兵隊さんだけでなく、留守を預かった母たちも大変だったことを伝えたい」と報道陣に語っている。誰もが、共感せざるを得ない。
その木村さんは、式では献花台の前で「安らかにお眠りください」と追悼の言葉を述べ、最後に「お父さん、教えてください。なぜ戦争に行ったのですか」と問いかけた。これは悲痛な言葉だ。この問は、次のように続けることができよう。
お父さん、なぜ母や私を残して戦争に行ったのですか。お父さんが戦争に行くことさえなければ、母にも私にも、もっと幸せな別の人生があったはず。どうして見たこともない遠い外国にまで戦争に行ったのですか。どうして戦争に行くことを拒否しなかったのですか。どうして戦争が起きたのですか。誰が、なぜ、戦争を起こしたのですか。どうして、皆で戦争を止められなかったのですか。
その問いは、今なお生々しく、新鮮である。
明治政府は国民の抵抗を排しつつ国民皆兵の制度を確立していった。1873年に陸軍省から発布された徴兵令を嚆矢として累次の法整備を重ね、1927年4月1日に徴兵令全文改正の形式で兵役法の制定に至っている。
その第1条は、「帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス」と、男子の国民皆兵制度を定めていたが、当時は例外の範囲が広かった。しかし、アジア太平洋戦争の進展とともに、徴兵免除の範囲は狭められ、兵役の年齢幅は拡げられていった。徴兵の忌避には次のとおり、同法での罰則が科せられていた。
第74条 兵役ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ三年以下ノ懲役ニ処ス
第75条 現役兵トシテ入営スベキ者正当ノ事由ナク入営ノ期日ニ後レ十日ヲ過ギタルトキハ六月以下ノ禁錮ニ処シ戦時ニ在リテ五日ヲ過ギタルトキハ一年以下ノ禁錮ニ処ス
徴兵逃れの涙ぐましい工夫や、信仰上の信念からの徴兵忌避の事例はけっして少なくはない。しかし、多くの国民にとっては、徴兵は「しかたのないこと」「とうてい抗うことのできない宿命」として受けとめられた。「世間」は、徴兵による出征を「御国のための名誉」として送り出し、戦死さえも「名誉の戦死」と褒め称えた。その同調圧力には抗すべくもなく、徴兵逃れは法的に処罰の対象とされただけでなく、社会的に「非国民」の所業と指弾されたのだ。
維新政府は、そのような軍事国家体制を作りあげた。天皇を利用し、教育とマスコミを統制することによって。
「しかたなかったと言うてはいかんのです」は至言である。「しかたなかった」と言わざるを得なくなる前に、国民に不幸を強いる国家を拒否しよう。再び、不幸な子が、亡き父に「お父さん、教えてください。なぜ戦争に行ったのですか」と問いかけることのないように。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.8.17より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=17397
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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