《民主党応援団による失敗の総括》
民主党応援団を自認する政治学者山口二郎による「政権交代」とその「失敗」の物語である。著者は1993年以来、中道左派政党による政権交代の実現を望みながら研究を続け、実践にもコミットしてきた。本書は実現した政権交代への大きな失望と残された小さな希望を語っている。
外からはグローバリゼーション、内ではバブル崩壊による高度成長の終焉という情勢の激変が起こった。政官スクラムで成長の利益を分配してきた自民党政治は1990年代に転換を必要としていた。著者は、「ウェストミンスターモデル」なる英国式統治モデル(本書67頁)の分析者であった。この構図は「鳩山政権における統治システム像」(79頁)として実現されるかに見えた。しかし鳩山、菅、野田と続く政権の迷走によって実現されることはなかった。
「政権交代」は何ゆえに無残な失敗に終わったのか。それを描くのが著者の意図であるから全貌を知るには本書を繙くしかない。しかし、いつものように「御用とお急ぎの」読者のために、山口の総括を私流に翻訳して紹介する。
失敗の理由は次の三つである。
《失敗の理由は三つある》
第一 「基本理念」がナマクラであった。
第二 政権交代に必須な「政治主導」体制づくりに失敗した。
第三 「敵」の反撃力を過小評価していた。
「基本理念」は次の三つであった。
一つは外交における自主性の回復である。具体的には沖縄普天間基地の移転、東アジア共同体構想の具体化、日米安保の見直しである。二つは成長の限界を踏まえた持続可能な経済システムへの転換である。外需依存で「会社が儲かれば給料も上がる」幻想との訣別であり、所得再配分機能の強化である。
三つは官僚権威主義の打破である。自民党と官僚支配は権威主義と結び、主権者であり受益者たる国民が彼らに恩恵を求めるシステムになっていた。その解体である。
《官僚の目はどっちを向いているか》
しかしこの三つの理念は崩壊し政策実現は失敗した。
沖縄問題は鳩山自身の腰砕けが最大の理由であるが、「日米同盟」深化を至上命題とする外務官僚の行動も殆ど「国を売る」ものであった。斎木昭隆アジア太平洋局長は、来日した米キャンベル国務次官補に対して「民主党は官僚を抑え、米国に挑戦する大胆な外交のイメージを打ち出す必要を感じたようだ」とし、これを「愚か」「やがて彼らも学ぶだろう」と批判したと著者は書いている。「子ども手当」や「高校授業料無償化」などの再配分政策は、野党の「バラマキ4K」の批判に的確に反論することができなかった。
官僚支配は解体どころか「社会保障と財政の一体改革」なる庶民増税として強化されている。これらの基本理念がナマクラだったのは、民主党が「政権交代が政権交代の目的」という自己矛盾する目標を掲げる「方便政党」に過ぎなかったことが根本の原因である。
本気で政権を奪取しニューディールを行う理念も覚悟も不十分だったのである。
《政権交代への準備不足に愕然》
英国の政治主導システムに学んだ「政治主導」がどう失敗したかが緻密、詳細に描かれている。それを読んでいくと、政権党の準備不足、稚拙な実行、成果の乏しさに愕然とする。とりわけ看板であった国家戦略局は、その気になれば設置と関連法規の整備を政権発足後の国会で実現できたのにやらなかった。著者はこう書いている。
▼しかし、法改正は翌年の通常国会に先送りされ、鳩山政権の混迷の中で結局実現しないまま参議院選挙を迎えた。制度フェティシズムを持った民主党が、なぜこの制度の実現は怠ったのか、理解に苦しむところである。
「ルーズベルトの100日」のようなスピード感溢れる徹底改革とはほど遠い「政権交代」の姿であった。「敵」の反撃力 というのは私の造語である。ワシントンDC、自民党、財界、メディア。そして3.11によって明らかになった「無責任の体系」(丸山真男)。「敵」はどこにでもいた。
《愚かだったと済ませるわけにはいかない》
著者は政権交代が失敗したと考えるが、「民主党の政治家は愚かだったと済ませるわけにはいかない」という。諦めてはいけないというのである。そして評論家内田樹の言葉を引いて次のように述べる。
▼「マルクス主義者が政治思想としてのマルクス主義を生き延びさせたいとほんとうに思っていたなら、マルクス主義の名においてそれまでになされた、これからなされるかべての蛮行や愚行について、「それもまた私の責任として引き受けざるを得ないでしょう」と言うべきだった。」(内田樹『呪いの時代』、新潮社、2011年)
私(山口)が十数年主張してきたことは思想などという高尚なものではないが、内田氏の文章のマルクス主義の代わりに、「政権交代」や「民主党」という言葉を代入すれば、本書を書いた私の意図になる。私にとっての責任の引き受け方は、政治の前向きの変化を的確に評価すると共に、政権交代以来の失敗を厳しく分析し、今後の政治のための素材を提供することである。
《心情への共感と論理への反発》
新書版とはいえ内容の濃い本書の読後感はアンビバレントなもの、すなわち著者の「心情への共感と論理への反発」の混在である。
共感とは何か。著者が、2011年6月の沖縄慰霊の日の首相挨拶文案に関して鳩山由紀夫から修正、加筆の依頼があったときのエピソードが語られている。このような、著者と権力中枢とのコンタクトを示唆する叙述がいくつかある。現実政治に直面した政治学者は、ワシントン、財界、多様な圧力団体、強力な官僚機構、つまり「権力」の凄まじさを実感したに違いない。並みのインテリならここまでコミットしないだろう。あるいは一回の失敗で「シニシズム」に陥るであろう。しかし彼は諦めないのである。私はコタツでテレビを見ながら物言いをすれば足りる。学者としての探求心と諦めない山口の情熱に私は敬意を表したい。それが「心情への共感」である。
一方では、本書に提示された方法論―すなわち戦後政治の四段階論による現状認識(36~41頁)、「ウエストミンスターモデル」に代表される政治主導の「理想型」―は図式的に過ぎて現実離れしていると感ずる。
「政権交代」は「権力の奪取」であり「革命」である。階級の交代というシンプルな革命理論は廃れたのか。本当に有効性を失ったのか。そんなことはないだろう。多様な権力の基盤、多様な団体の利害、客観性を装う官僚制、そういうアクターの利害関係のなかに、核心をなすもの、副次的なもの、流動的なものといった性格差が存在する。それらのアクター間の激烈な戦いの結果として権力関係の均衡点は決まるのである。その昔、有力な言説はそれを「階級闘争」と呼んだ。いま「階級闘争」の一語で政治を論ずるのは粗すぎるかも知れぬ。同時に「政治主導VS官僚政治」という図式もまた粗すぎる。これが「論理への反発」である。
《著者が一番よく知ったであろう》
しかし著者こそがそのことを痛感しただろうと思う。「切れば血が出る」現実政治のなかで、政治学者の感覚は研ぎ澄まされてきたと信じたい。
たとえば3.11は、「敵」の正体を発見する新たな転機となった。
著者はアイゼンハワー米大統領が1960年におこなった退任演説を丁寧に紹介する。そして東日本大震災で明らかになった事態を次のように認識する。
▼もともと原子力発電は冷戦時代に拡大した核兵器の開発と密接に関係した技術であったので、原発をめぐる政官業の結合に軍産複合体のモデルを当てはめることは的はずれではない。アイゼンハワーの予言は、原発事故によって明らかにされた経産省、電力業界、原子力工学の世界、そしてメディアの密接な関係を言い当てている。まさに、この分野の鉄の三角形―原子力ムラとも言われる―は、民主政治に対する脅威である。
政治学の効用を論じて「民主主義の欠乏」(democratic deficit)をいう場面がそうである。シェルドン・ウォーリンという学者の「裏返しの全体主義」(inverted totalitarianism)を論ずる著者の問題意識も同様である。すなわち「政権交代」の最重要の課題は、民主主義の在りよう、民主主義の実現だということである。
「裏返しの全体主義」とは次のことである。
▼アメリカにおける金権支配、大銀行の放縦、先制自衛戦争という名の侵略など、経済界、政界のエリートの暴走、および批判者を根こそぎにする意味での全体主義は、自由で民主主義的な政治制度の下で成立するというのが、ウォーリンの言う「裏返し(inverted)」の意味である。
《野田体制下でも「まだ絶望を語る時ではない」》
私のみるところ、「政権交代」は官僚以上に官僚的な野田佳彦の時期に入りベクトルは逆進している。政治の風景は最悪となった。外交、経済、統治の三つは次の状態にある。
緊縮財政下の米軍再編と日本へのコスト押しつけ、TPP交渉における対米従属の深化、「一体改革」なる大衆増税、大震災における情報隠蔽と対策のサボタージュ、原子力ムラ維持への策謀、秘密保全法制定への陰湿な動き。いずれもが「政権交代」の理念に正反対の現実として立ち現れている。
人々は閉塞感の打開を橋下徹式ポピュリズムに求めている。80年前のワイマール共和国からヒトラー独裁へ、「バスに乗り遅れるな」から日独伊三国同盟へ。あっという間であった。21世紀の今、1930年代を繰り返すことはあるまいというのが常識であろう。しかし当時の常識は、その後の惨劇を予想できなかった。現在の常識はそれほど健康であろうか。
しかし著者は絶望しない。「まえがき」と「あとがき」からその言葉を引用する。
▼絶望を語ることは容易である。しかし、まだ絶望を語る時ではない。「新政権」を厳しく検証することと、希望を放棄することは同じではない。/十数年を振り返ると徒労感に陥ることもあるし、革命家にとって革命の成就を見届けることは幸福ではないとうそぶくこともあった。しかし、政治学者にとって、楽観的であることは美徳だと考えたい。
本書は研究者かつ実践者だけに書けた現代日本政治論の力作である。
■山口二郎著『政権交代とは何だったのか』、2012年1月刊、岩波書店、800円+税
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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