「アメリカ敗北」という物語 覇権衰退論と戦争勝敗論の混同をめぐって

 はじめに断定だけが先行する違和感

エマニュエル・トッドは近年、ウクライナ戦争をめぐって「アメリカはロシアに敗北している」と繰り返し述べてきた。文芸春秋2026年1月号における佐藤優との対談においても、この認識はほぼ前提として共有され、異論は提示されていない。しかし、その対談を含め、トッドの発言において決定的に欠けているのは、「敗北」とは何かという定義、そしてその定義をウクライナ戦争という具体的事例にどのように適用したのかという論理的過程である。

本稿は、トッドや佐藤の立場を単純に否定することを目的とするものではない。むしろ、彼らの議論がどの段階で理論的な混同を起こしているのかを明らかにし、覇権衰退論と戦争勝敗論を切り分けることで、より精密な議論の可能性を示すことを目的とする。

 1.分析単位の混同覇権論と戦争論は同一ではない

トッドの本来の強みは、人口動態、家族構造、教育水準といった長期的・構造的要因から世界史を読む点にある。彼が扱っているのは、数十年から百年単位で進行する「覇権構造の変動」であり、個別戦争の勝敗を直接判定する理論ではない。

ところがウクライナ戦争を論じる場面で、トッドは次のような短絡を行っている。

* アメリカ覇権は構造的に衰退している

* ウクライナ戦争はその衰退を可視化した

* ゆえにアメリカはこの戦争で敗北している

しかし、この推論は論理的に成立しない。覇権国は戦争に敗北しなくても衰退するし、逆に戦争に勝利しても覇権を維持できない場合がある。第二次世界大戦に勝利しながら覇権を失ったイギリスは、その典型例である。

覇権衰退論と戦争勝敗論は、分析単位も時間軸も異なる理論であり、両者を直接接続することはできない。

 2.戦争の勝敗とは何か対称的な基準の必要性

戦争の勝敗を論じるには、最低限、次の三点が必要である。

1. 各当事者が設定した政治・軍事目標

2. それらがどの程度達成されたか

3. 達成度と支払ったコストとの比較

この基準をウクライナ戦争に適用すると、次のような整理が可能である。

【 アメリカおよびNATO】

アメリカとNATOの主要な目標は、ウクライナ国家の存続、ロシアによる短期的・全面的勝利の阻止、そして同盟の維持であった。少なくとも現時点において、これらは達成されている。ウクライナは国家として存続し、ロシアは当初想定されたような決定的勝利を収めていない。

同時に、この結果は長期的な軍事・財政負担を伴っており、「完全な成功」と呼べるものでもない。評価すべきは「限定的成功と持続的コストの併存」である。

【 ロシア】

一方、ロシアが掲げた目標政権転換、「非ナチ化」「非軍事化」、ウクライナの従属化はいずれも達成されていない。むしろウクライナ社会の反露化は決定的に進み、NATOは拡大した。

限定的な領土支配は得ているものの、戦略目標という観点から見れば、ロシアもまた成功とは言い難い。

このように、同一の基準を適用すれば、導かれる結論は「アメリカの敗北」でも「ロシアの勝利」でもなく、「未決着の消耗戦」である。

 3.佐藤優にみられる思考様式インテリジェンス的合理性の限界

トッドの議論が日本で説得力を持つ際、しばしば媒介となっているのが佐藤優の語りである。佐藤は一貫して、国家を理念や建前ではなく、「存続の合理性」によって行動する主体として捉える。その視点は冷静であり、情報分析として一定の有効性を持つ。

しかしこの思考様式は、戦争の勝敗評価において特有の歪みを生む。すなわち、

* ロシア国家が崩壊していない以上、ロシアは敗北していない

* アメリカが秩序を回復できていない以上、アメリカは敗北している

という非対称な判断基準である。

ここでは、ロシアの掲げた政治目標の未達や、戦争がロシア自身の長期的国力を毀損している点は、「国家存続」という最低基準の背後に退けられる。一方で、覇権国であるアメリカには、秩序管理という過剰に高い成功基準が課される。

これはインテリジェンス的現実主義の利点であると同時に、その限界でもある。国家の「生存」だけを基準にすれば、多くの戦争は敗北ではなくなってしまう。

 4.日本におけるトッド=佐藤言説受容の構造

トッドと佐藤の言説が日本で強く受容される背景には、日本固有の知的条件がある。

第一に、戦後日本に根強い反覇権的感性である。アメリカ覇権の相対化は、しばしば批判というより心理的解放として受け取られる。

第二に、政策論や軍事技術論よりも、文明論的・大局史観を好む知的傾向である。「世界史を語る」言説は、それだけで強い説得力を帯びやすい。

第三に、マルクス主義以後の理論的空白である。かつて世界史的必然を語っていた枠組みが後退した後、その位置を、人口学的文明論とインテリジェンス的リアリズムが部分的に埋めている。

この文脈において、「アメリカ敗北」という断定は、検証される命題というより、時代感覚を代弁する物語として消費されやすくなる。

 結論「敗北」という語を手放すために

ウクライナ戦争が示しているのは、アメリカの即応的な覇権管理能力の摩耗であって、戦争における敗北ではない。同様に、ロシアもまた戦略目標を達成していない。

より正確に言うならば、次のように表現すべきだろう。

 ウクライナ戦争は、アメリカ主導の国際秩序がもはや限定的介入によって迅速に安定を回復できない段階に入ったことを示している。しかしそれは、当該戦争におけるアメリカの敗北を意味するものではない。

トッドと佐藤の問題は、問いそのものではなく、答えに用いられる語彙の粗さにある。「敗北」という物語から距離を取り、覇権衰退論と戦争勝敗論を切断することそれが、分析を思想や心情から切り離すための最低条件である。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
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