「イスラム国」(IS)のルーツを探る

イスラム断章(2)

オレンジ色の囚人服を着せた外国人人質を斬首・処刑する動画映像や、古代オリエントの貴重な文化遺跡を爆破する映像をインターネットで公開した「イスラム国」(IS)の所業は、世界に衝撃を与え続けている。彼らを動かしている動機は何か。7世紀にアラビア半島に端を発したイスラム教が数世紀をかけて、中東・アジア・フリカの広大なスペースを支配するに至った時代への復古運動であろう。

メッカの商人ムハンマドが、唯一絶対の神アッラーの啓示を受けて預言者となり、イスラム教を興した7世紀初めと言えば、ヨーロッパではローマ・カトリック教会が成立、アジア大陸では大唐帝国が成立、日本では聖徳太子が「大化の改新」を準備していた時期である。つまり洋の東西で豪族たちが武威を競い合った古代から中世に移行し、人間社会に文化・文明が定着し、宗教が人間と社会を律する方向が固まり始めた時代である。

今からざっと4000年ほど前、気候、風土に恵まれない中東砂漠の一隅に住んでいたユダヤ民族は、唯一絶対神ヤハウェ(Jahwe)が天地を創造したという神話を生み出した。彼らはヤハウェのみを信仰すると約束することで、ヤハウェにユダヤ人の安寧を守ってもらう契約を結んだ。造物主ヤハウェがアダムとイブを造ったのが人間社会の始まりと教えた旧約聖書の物語は、ユダヤ教からキリスト教にそのまま引き継がれ、イスラム教にも伝えられた。イスラム教では、神はヘブライ語のヤハウェでなくアラビア語のアッラー(Allah)となるが、本体は同じ唯一絶対・天地創造の神である。

キリスト教では、モ-セやイエスといった預言者が教えを伝え、広めた重要な存在として語られるが、イスラム教でもイエスはアラビア語で「イーサー」モーセは「ムーサー」として登場する。イスラム教では、ムハンマドは神が遣わした「最後の預言者」と規定されており、神がムハンマドに伝えた言葉は神が人類に与えた最後の言葉と考えられる。つまり後世に登場する別の預言者が、時代に合わせて教えを修正するということはできないのである。

文字を書けなかったというムハンマドが、口承で伝えた神の言葉は当時のアラビア語で記された。これがコーランである。直近の弟子たちが伝えたイエスの言行をまとめたキリスト教の新約聖書と違って、コーランに記されたのはアッラーの言葉であり、勝手に解釈することは許されない。これと別に、ムハンマドが人びとに教えを伝え、信徒を率いて彼らの敵である多神教徒と戦った、彼の後半生の言行を記したアラビア語の文書がある。これがコーランと並んでイスラム教の経典となっているハディスである。

イスラム教にはキリスト教や仏教のように、聖職者とか僧侶という者が存在しない。信徒と神や仏をつなぐ人がいないのである。その代わりに「ウラマー」(イスラム法学者)と呼ばれる学者がいる。コーランやハディスから解釈される正しい道、すなわちイスラム法(シャリーア)に従えば、ムスリム(イスラム教徒)として採るべき道はこれであるという宣託(ファトワ)を下すことのできるのは、ウラマーの中でも特に学識の深いムフティと呼ばれる人々である。

7世紀の初めアラビア半島の一角から興ったイスラム教は以後1400年の間に、中東全域、アフリカ中北部、中央アジア、南アジアから東南アジアにまで広がった。キリスト教の本拠地ヨーロッパのイベリア半島でさえ、8世紀初めから15世紀末までイスラムの王朝が支配した。「神の前に人はすべて平等」という教えと、キリスト教徒に「右手に剣、左手にコーラン」となじられた聖戦(ジハード)を通じて、イスラム世界は広範な地域に怒涛のように拡張を続けていた。

一方ヨーロッパは、ローマ・カトリック教会の支配に服従して「中世の暗黒時代」に沈んでいた。それに引き換え、バグダードで花開いたイスラム教徒のアッバース朝の治世下では、古代ギリシャの文化、学問、芸術が片っ端からアラビア語に翻訳されて研究され、評価されていた。オックスフォード、ソルボンヌ、ウプサラなど、中世に開学したヨーロッパ最古の大学で学生が学ぶ第1外国語はカトリック教会の共通語であるラテン語、第2外国語はアラビア語だった。それは十字軍が戦う相手の言葉であると同時にギリシャ文化を伝える言語であったからだ。

優秀な学生はさらに、当時アラブ・イスラム圏だったスペインのグラナダに留学した。こうしてアラビア語を通じてギリシャの文化、学問、芸術を学んだヨーロッパは、やがてルネッサンス(文芸復興)を迎え、中世の暗黒時代から抜け出す。このころ地動説を唱えたガリレオ・ガリレイが、旧来の天動説に立つローマ法王庁から異端の説を唱える罪人として火あぶりの刑に処せられそうになったため、とりあえず表向きは地動説に転向したが「それでも地球は動いている」とつぶやいたというエピソードは有名だ。

ルネッサンスを経て合理主義に目覚めたヨーロッパはその後、パスカル、ニュートン、コペルニクスといった近代科学を導く自然科学者を生んだ。万物を創造したヤハベやゴッドやアッラーの物語は神話であって、地球上に現れる事象はすべて自然科学によって解析できるはずだ、という合理主義の主張である。ヨーロッパはこうして近代を生み出し、ポルトガル、スペインが幕開けした大航海時代から、イギリスが先駆けた産業革命を経て帝国主義・植民地主義の時代を開く。

東洋と西洋の間の中洋は「アラビアン・ナイト」(千一夜物語)で知られるように、中世では最も先進的なサラセン文化が花開いた。さらにイスラムを奉じるオスマン・トルコがバルカン半島を経由してオーストリア・ハプスブルグ帝国を脅かすほどの勢いを示した。しかし市民革命を経て近代化を遂げたヨーロッパ諸国は、産業革命を経て世界の最先進国となった。こうしてイギリスを先頭に、ヨーロッパ諸国が、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ(AALA)を支配する植民地体制が築き上げられた。

第2次世界大戦の終結から既に70年、AALAの旧植民地は全部独立した。独立した諸国の中で、イスラム諸国だけは旧支配者の欧米に対する特別のコンプレックスを抱いている。中世では自分たちが欧州より進んでいたのに、近代になってから自分たちは欧州に支配されるようになった。「これは許せない」という心理である。これがIS(イスラム国)やその他のイスラム過激派を、テロリズムにかき立てている心理状態であろう。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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