フランス語の普通名詞banlieu(バンリュー)を仏和辞典で引けば「郊外」と書いてある。何の変哲もない単語だが、現代のフランスでは「貧しいイスラム系移民の住むきたならしい郊外の街」というニュアンスを含む。昨年11月13日夜のパリ同時多発テロ事件の容疑者たちのアジトがあったパリ北郊の街サンドニがその典型である。
フランス治安当局は11月18日早朝、重装備の特殊部隊70人を動員して、同時多発テロの首謀者アブデルハミル・アバウード容疑者(28)が潜伏していたサンドニのアパートを急襲、3時間余にわたる銃撃戦の末に自爆死した同容疑者の他に男性3人女性1人の遺体を収容し、6人を拘束した。シリア領ラッカを“首都”とする「イスラム国」(IS)は世界中のムスリム居住地を自国領だと豪語しているが、このアパートもその一部だったと言いつのるかもしれない。
フランスは19世紀末から第2次世界大戦までアフリカに広大な植民地を保持していた。第2次大戦後世界中で植民地解放の機運が高まる中、1956年に北アフリカのチュニジアとモロッコの独立を認め、「アフリカの年」と呼ばれた1960年にはサハラ以南のモーリタニア、マリ、ニジェール、セネガル、オートボルタ(後にブルキナファソと改名)、チャド、コートジボワール、マダガスカルが一斉に独立した。
このほか第1次世界大戦までオスマン帝国の領土だった、中東の「肥沃な三日月地帯」を大戦中の英仏間の密約(サイクス・ピコ条約)で分割支配した際、フランスはシリアとレバノンを国際連盟の委任統治領として、事実上の植民地に組み入れた。しかしその後、第2次世界大戦でフランス本国がナチスに敗れたこともあって、レバノンは1943年、シリアは1946年に独立した。
残ったアルジェリアにはコロン(フランス人入植者)が多かったためにフランスは独立を認めず、1954年に始まったアルジェリア民族解放戦線(FNL)の独立闘争に対して「醜い戦争」(la guerre laide)を続けた。しかし結局は第2次大戦「救国の英雄」のドゴール大統領が1962年に8年間にわたる「醜い戦争」を終わらせることを決断、アルジェリアは1962年晴れて独立した。
第2次大戦で破壊され尽したヨーロッパの再建には、アメリカのマーシャル・プランによる巨額のドル援助と、旧植民地からの出稼ぎ労働者を必要とした。1950年代以降、旧宗主国だったフランスには、北アフリカ・中東から多くのイスラム教徒が移民労働者として渡り、経済成長を支えた。フランスは「醜い戦争」で仏軍兵士に徴用されて祖国で敵視されるアルジェリア人を率先して受け入れた。
こうしてフランスは欧州随一のイスラム教徒(ムスリム)を抱えることになった。フランスの人口6,400万人中イスラム教徒は約580万人(2014年推定)、比率にすると9%ほどである。今から9年前、アフリカからの移民2世の女性2人がサルコジ政権の閣僚に登用されて新聞ダネになったことがあった。インドシナ、中東、アフリカからの移民2世でフランス社会のエリートになった人たちがいることはいるが、それは希少価値。大多数の移民2世、3世は「バンリュー」に住み、カツカツの暮らしを送っている。
移民1世はフランスに定住するだけで精一杯だったが、本国で食い詰めるよりましな生活を送るだけの賃金は保証され、数年後には家族を呼び寄せることができた。移民当初はモスク(イスラム教の礼拝所)もなかったが、移民が増えるにつれムスリム大衆の募金によってモスクも作られ、金曜日の礼拝をすることで心の平安を得るようになった。キリスト教徒が圧倒的なフランス市民の間にムスリムに対する差別感情がなかったとは言えないが、ムスリムとキリスト教徒間のトラブルが話題に上ることはなかった。
1990年代に入って様相は一変する。第2次大戦後に開発されたパリ郊外の新開地に続々建設された高層アパートも古くなり、比較的安い家賃に移民たちが引き寄せられて住むようになっていた。このころになると移民2世・3世たちが学業を終えて就職戦線に登場する。彼らは学校で正しいフランス語教育を受け、フランス共和国の基本理念「自由、平等、博愛」を教え込まれて卒業している。
ところが就職戦線に臨んだ彼らの大多数は、フランスの現実が自由でも平等でも博愛でもないことを知る。まず彼らの履歴書に書いてあるイスラム系の名前がハンデになる。フランス共和国の建前は「平等」でも、ほとんどがキリスト教徒のリクルーターはまずムスリムよりキリスト教徒系を優先採用する。その結果1995年フランスの失業率は10%ほどだったが、20代の失業率は約20%、それがムスリム青年の場合40%を超えていた。
「自由、平等、博愛」の3原則は18世紀末のフランス革命に淵源があり、19世紀末の第3共和政時代に法制化された。3番目の「博愛」は fraterunite(フラテルニテ)という言葉を明治初期に和訳したものだが、実際には誤訳に近い。本来は「同胞愛」と訳すべき言葉だ。つまり人類すべてを愛するという博愛より、フランス革命を共に闘ってフランス共和国をつくりあげた同胞間の友情を意味するのだ。18世紀、19世紀にフランスにはムスリムはほとんど居なかったのだから、今日のフランス市民が無意識のうちにムスリムを仲間内と考えなくても不思議はないのだ。
こういう現実の中で過ごしている2世・3世の若者たちが不良化するのは不思議ではない。2005年10月、「バンリュー」で警官に追われた移民系の少年たちが変電所に逃げ込んで感電死した事件があった。これをきっかけに2・3世の若者たちの不満が爆発して全国各地に暴動が拡大、政府は「非常事態宣言」を出すほどの騒ぎになった。時のニコラ・サルコジ首相は暴動を起こした若者たちを「社会のクズ」と呼び、怒った若者たちが暴動をさらに拡大させた。
1990年代と言えば、在仏ムスリム多数派の母国であるアルジェリアでイスラム過激派の武装闘争が大荒れした時期だ。アフガン戦争から凱旋帰国したムジャヒディーン(イスラム聖戦士)を軸に結成された原理主義のイスラム救国戦線(FIS)が、1990年の統一選挙で大勝したのを軍部が実力排除した。非合法化された原理主義者たちは「武装イスラム団」(GIA)を結成して全土で武力テロを展開、1999年までに全土で15万人以上が犠牲になった。
GIAの残党がつてをたどってフランスに移民したことで、移民2・3世とイスラム過激派の接触が始まり、過激派のイデオロギーが伝えられるようになった。すねに傷持つ両者がたまたまフランスの刑務所で一緒に過ごす場合もままあったようだ。だから刑務所こそ「最良のホーム・グロウン(自国育ち)・テロリスト養成学校」と言われる所以だ。
さらに現代の若者はインターネットやSNS(会員制ネット)の使い方に熟達しており、世界中どこにいてもISが拡散するネット情報をキャッチできる。パソコンやスマートフォンさえあればISからの宣伝も指令も受け取れるわけだ。昨年11月段階でのフランス内務省の資料によると、フランスから戦闘員としてISに渡った者571人、テロリスト予備軍としてフランス国内に潜伏している者246人という数字が挙げられている。シリア、イラクへの空爆だけではとてもISを退治することはできない。何より若いイスラム教徒との真剣な対話が必要だろう。
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