何年か前に、宮崎勇『証言 戦後日本経済』を読んだことがある。戦後の経済計画立案の現場に立会い、「官庁エコノミスト」のトップの一人だった人物に対するオーラル・ヒストリーである。本当なら面白くないわけがない。書評での評判もよかった。だから期待して読み始めた。しかし、実につまらなかった。
なんでこんなにつまらないのか。思いつくままにその理由を考えてみた。「苦労話」がまるで出てこない。「悪党」もでてこない。「失敗談」もほとんどない。結果だけが淡々と語られる。まるで、自分はすべてを粛々と処理してきたといわんばかりだ。これでは面白いわけがない。オーラル・ヒストリーとは、紙では残せなかった、ある種の「裏話」や、それに近いことを、現場の経験に沿って話すものだ。しかし、そういうものがここにはまったくと言って程書かれていない。そういうことが実際何もなかったとは思えない。「悪党」連中とのせめぎあいや、意にそわないままに筆を曲げてしまったことがあったはずである。私のそう多くはない経験からもそう言える。だが宮崎の話では、そんなことはまるでなかったかのようである。
経済政策は、国民生活に直接に係わるものであると同時に、錯綜する利害の調整(そのなかには、権力の維持という大きな制約も含まれる)というドロドロした側面を持つ。宮崎はその現場に立ち会ったはずなのだ。それにもかかわらず、宮崎から語られるのは「上澄み」のようなものばかりである。「上澄み」だけはオーラル・ヒストリーの意味はない。
本書は宮崎の「回顧録」であるが、この回顧録においてさえ、宮崎は(成功した高級)「官僚」的発言に終始している。僅かにそれを超えているのは、自らを「反右翼」として、「平和(軍縮)のためのエコノミスト会議」に参画したことに触れた部分だが、これは経済政策の現場にかかる話ではない。その意味では、この部分は「証言」ではない。
なぜ、こんなつまらない話を宮崎はしたのだろうか。やはり宮崎が「エリート」だったからであろうか。宮崎は、(高度な「政治」判断を含む)様々なことを時の権力者から指示され、それを概ね権力者の意向にそって処理することをもって、自分の「仕事」と考え、かつそれをほぼ実現した。だからこそ官僚としての最高位である事務次官にまでなった。いわば「成功した高級官僚」である。だから関係者のうちに、「悪党」という印象を持つということもなく、筆を曲げるなどという感覚もなかったのかもしれない。それとも宮崎にはまだ語ることの出来ないものがあるのであろうか。宮崎と一緒に仕事をした官僚たちの何人かは、この本が刊行された時点で、まだ現役だったのかもしれない。そうだとしたら、語ることのできないものがあったとしてもおかしくはない。担当者の誰かが現役であるうちは、事件はまだ「歴史」になっていないのであり、「歴史」になっていないものは、簡単には語ることができないからだ。しかし、それならばそれで、いくらでも語り方はあったはずだし、それでも語ることができないのならば、宮崎はこのオーラル・ヒストリーに応じるべきではなかった。またそんな話を本にするという出版社の姿勢も疑われる。
一体この本がどうして高い評価を得たのか、理解に苦しむ。本書から学んだことは、長い官僚生活は、普通の感覚を捻じ曲げてしまう可能性があるということと(宮崎にしてそうなのだから、最近の財務省や経済産業省の高級官僚の言動は当然なのかもしれない)、そういう人間が語る場合もあるのだから、オーラル・ヒストリーならすべて面白いわけではないということだけである。
宮崎勇『証言 戦後日本経済』(岩波書店、2005)
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