「コメ クエ コメ クエ」の稲文字を偲ぶ~減反政策に一貫して反対し続けた人

   私たち家族が千葉県佐倉市のニュータウンの一角に転居してきたのは、1988年秋であった。家が建つまで、田んぼをまたぐ橋の上から見えた稲文字「コメ クエ コメ クエ」がめずらしく、見おろしながら渡っていた。「田んぼアート」などが流行る前のことだ。そして、翌年には、「コメハ ニホンノココロ」に変わった。そして、毎年、変わる稲文字を見るのが楽しみになった。いったいどんな人が、こんな手の込んだ方法で、政府の減反政策反対の意思表示をしているのかと思っていたが、10年ほどの後、その作成者に会うことができた。1998年末、地域の主婦たち4人で始めたミニコミ誌『すてきなあなたへ』の取材でお話を聞くことになったのである。四半世紀前のことにもなる。

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 こんなことを思い出したのも、きのう8月5日、石破総理、小泉農水相は、半世紀以上も続けてきた「減反政策」を見直し、コメの増産に踏みるとの発言があったからである。見直しの対策として、耕作放棄地の活用、農業経営の大規模化、農地の集約・大区画化などと一口に言っても、農業人口が激減している中、容易なことではない。農業従事者の高齢化、兼業農家対策として、すでに法人化などが進められているようだが、課題は多い。
 減反政策は、1960年代、コメの生産過剰を抑制、コメの価格調整のために、1970年から2018年まで続いた。現在も農水省が生産量目安を発表したり、主食用米からの転作費補助金を出したりして、実施的な減反政策がとられていたところに、今回のコメ不足、価格の高騰という「米騒動」に至ったわけである。

  稲文字の作成者石川昭次さんは、周辺の宅地造成が進み、残された50軒ほどの集落の中にある代々続く農家だった。集落の中には、開発業者に田畑を売って立派な家を建てたり、コメを作らなくなったり、農業をやめたりした人もいるそうだ。このあたりの田んぼは大雨のたびに水没していたが、印旛沼の開拓をした吉植庄亮が利根川と印旛沼の間の安食(印旛郡栄町)に関門を作ったことで水害はなくなったという。歌人吉植庄亮の名前が飛び出し、この地にも関係があることを知った。そして、「農家というのは田や畑があってのことなので、時代に流されず、目前のことに惑わされず地道に続けるのが一番」と語っていた。1993年の「米騒動」については、決して単純なコメ不足ではなく、農家がため込んでいたわけではない」とも語り、1994年からは稲文字をやめて、普通の田んぼに戻したという。

 この稲文字は、週刊誌やテレビにも登場していたそうだ。稲作のほか無農薬野菜にも挑戦、研究を続け、居間の本棚には、農業関係の本だけではなく、『世界』や『中央公論』が並んでいて、インタービューの後も『朝日新聞』の「声」欄にときどき登場するのを見かけたことがある、筆も立つ人である。
 その数年後、石川さんから電話をいただき、びっくりしたことがある。「オレのことが農業新聞に載っている」というのだ。はじめは何のことか分らなかったが、『日本農業新聞』の草野比佐男さんのコラムに、石川さんの稲文字を詠んだ拙作が載っていたのである。草野さんとは何のご縁で知り合ったのか、いまは思い出せないのだが、私の30数年ぶりの第二歌集『野の記憶』(2004年6月)をお送りしていたことはたしかであった。

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 石川さんには、いつもミニコミ誌を真っ先にお届けしていたが、農作業でお留守の時も多かった。お会いできたときは、長話になったり、お土産に野菜をいただいたりしたのも懐かしい思い出である。私たちのミニコミ誌も終刊し、石川さんの訃報は、しばらくたってから、お聞ききした。

石川さん!、減反政策はようやく見直されますよ!?

初出:「内野光子のブログ」2025.8.6より許可を得て転載
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