「コモンの自治」の一事例~大原幽学の先祖株組合~

 矢沢様、斎藤幸平氏がその著書で「コモンの自治」の拡大(社会的インフラの共有)を提唱している、とのコメントを拝見しました。「コモンの自治」の拡大により、資本の論理に支配された現代社会の課題(格差、分断、自然破壊等)を民主的手段により解決できる可能性を見出そうとしていることに私も同感です。私は、僭越ながら江戸時代末期に農村に住み着いて「先祖株組合」という協同組合を組織し、村の再建を図った大原幽学(註:1)の活動概要(「法政大学経済学部創立100周年記念誌:経済学部同窓会編」に掲載)を参考までにメモ的に紹介させていただきたいと思います。私はこの事例は、「コモンの自治」の先例ではないかと考えています。
(註:1)大原幽学の出生は不明である。門人の間では、1797年に尾張徳川氏重臣大道寺家次男として生まれたと伝えられている。18歳の時、誤って藩の剣道指南役を殺害したため勘当され、高野山に籠ったり、禅寺で修行したりしながら各地を放浪し、放浪中に観相,歌道、易学、神学、農業技術、医学、建築学等を学んだ。天保13年、46歳の時に現在千葉県旭市長部(幕府旗本の清水家直轄領地)に教場を開き定住した。62歳の時に切腹自殺をした。幽学関係の資料と遺跡は、平成3年に国の文化財に指定され「大原幽学記念館」に保存・公開されている。

1, 先祖株組合誕生の背景
 江戸時代末期の農村は貧困を極めていた。自然災害(天保飢饉)と借金に耐えかねて、離農者が増加し治安も乱れていた。江戸幕府の直轄地であった旧千葉県香取郡中和村長部では、約半分近くの農家が離村の憂き目にあっていた。この地域にはヤクザが横行し治安は乱れていた(小説、天保水滸伝の世界)。そこに住み着いた幽学は、儒学を中心とした独自の哲学(性学)を教える教場を開いた。そこで村人に対話を中心にして「自然の理と人道の一致」を説いた。そして人の生き方、先祖代々から続く家を護ることの大切さを説いた。家を護るためには、老若男女を問わず家族の協力がなければならない。村人への教育は、老若男女を問わず行われた。城郭の跡地に立派な教場が門下生の協力の下に建てられた。村人との絆は強くなっていった。そして、1838年に荒廃した村を再興するため性学の門人たちにより「先祖株組合」が設立された。「先祖株組合」は同じような趣旨の下に近隣の六つの村で設立された。北総地域一帯で門人の数は千人を超えていた。

2, 先祖株組合の活動内容概要
 先祖株組合は、30戸前後の村単位で設立された。組合加入者は年々増加し、村ぐるみの組織となった。組合は自主的に規定(註:2)を作り、運営は民主的に行われた。
(註:2)加入者は、所有地の内5両に相当する耕地を出資し、その耕地(共有地)から生まれる利益を無期限に積み立てる。運営は随時成員間の相談で決める。出資者の内破産するものが出た場合でも、原則として持ち分は返却しない。性学の規定に背いて破門された場合でも出資分は返却されない。(規定の明細:博打、不義密通、女郎買い、手踊り、浄瑠璃、長唄、三味線のようなみだりに心の浮かれるような遊び事、強欲,謀計、大酒等不相応な奢りがましいことや危険な行為、これらの悪行のあるものに対しては、同門が強く注意すること、もしこれに服従しない場合は破門とする)。

 組合員は規定に基づき5両に相当する農地を組合に拠出した。拠出された農地は、組合の共有地として、組合員に貸し出された。借り受けた組合員は借地料を支払った。借地料は組合に積み立てられ、困った組合員に貸し出された。又、借金の担保になっていた農地の請け戻し等に使われた。請け戻された農地は元の農家に渡され、離散していた農家は村に戻ってきた。そして村は復興した。この活動は領主の承認の下に行われた。
 先祖株組合は、コメの収穫量を上げるため、幽学の指導の下に耕地整理を行った。交換分合を行い一区画を300坪程度に広げた。楊排水路を整備した。田植えは、現代風の間隔植えに修正した(従来は、ばらまき)。更に散在していた住宅を田んぼの直前に移住した。農作業の能率は上がった。移住は2戸単位とし、隣り合わせにして2戸の協力を条件とした。田んぼを耕す鍬も土壌に合わせ改良した。肥料は自家製堆肥とし、油粕等購入金肥は奨励しなかった。耕作規模は1町歩(3000坪)程度を限度とし、自家労働力の範囲とした。家族で相談して年間の作業計画をつくることとした。耕地整理等の事業に必要な資金は積立金の外に組合員有志(地域の有力な商人等)から借り入れた。
 又、先祖株組合は地域の不耕作地を地主から借り入れ組合員の協同の力(丹精という)で開墾し、新しい集落を作った(当時の幕府は開墾を奨励していた)。その外先祖株組合は、組合員の生活物資の共同購入をしていた。この活動は、現在の生活協同組合の原型とも考えられる。いろいろな活動の中で幽学の最も力を入れたのは教育だった。特に子供に儒教を教え親孝行を説いた。家の存続には親孝行は不可欠だった。又婦人を組合員として迎え、家族の中での主婦の役割(生活と営農)を説いた。

3, 幕府の弾圧による先祖株組合の解散
 当初、先祖株組合を認めていた幕府は、後になって弾圧に踏み切った。それは、幽学の農民指導に危険を感じ始めたためだった。幕末には、諸外国からの外圧が強まっていた。天保飢饉があった。大塩平八郎の乱も起きていた。幽学への警戒心(幽学の農民の動員力を怖れていた)を持ち始めていた幕府は、教場への暴徒乱入事件をきっかけに幽学と先祖株組合の幹部を逮捕した。7年に及ぶ裁判の結果、幽学に対する100日間の閉じ込めと先祖株組合の解散を命じた。幽学は千両を超える裁判費用を負担した弟子たちへのお詫びと緩み始めた弟子たちの生活への戒めを兼ねて介錯なしの切腹自殺を遂げた。私は、幕末に崩壊に瀕した農村を先祖株組合の力で再興した幽学の業績は、「コモンの自治」の原型ではないか、と思う。  以上

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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