脱原発をめざすのか、それとも原発再稼働なのか、その二者択一が問題なのではない。原発再稼働は時代錯誤もはなはだしい所業で、脱原発はもはや自明の理である。日本が今考え、めざすべきことは脱原発後の新しい国造りにどういうイメージを描くかである。
それは太陽エネルギーを活用する「ソーラー地球経済」の一翼を率先して担っていくことであるだろう。石油など化石燃料はやがて枯渇することを視野に収めれば、不滅の太陽エネルギーの活用以外に選択肢はあり得ない。目先の小利を棄てて、長期的な大局観に立つ大利こそ今求められる。(2012年6月15日掲載)
ヘルマン・シェーア著/今泉みね子訳『ソーラー地球経済』(2001年12月・岩波書店刊)を読み直す機会があった。10年も前の著作の大意を紹介しながら、将来のソーラー地球経済の歴史的意義を考えたい。
(注)ヘルマン・シェーア氏(1944~2010)はベルリン自由大学で博士号(経済学と社会学)を取得。ドイツ連邦議会議員、ヨーロッパ議会議員、ユーロソーラー(ヨーロッパ太陽エネルギー協会)会長などを歴任。2010年10月14日に原子力関連についてテレビ出演直後、心臓発作で急死と伝えられる。著書は『ソーラー地球経済』のほか『太陽戦略』など多数。
訳者の今泉さん(1948~)は環境問題ジャーナリスト、翻訳家。講演会「福島がドイツをかえた・・・急転換したドイツの原発のエネルギー政策」(2011年10月)などで活躍。
▽ 日本こそソーラー経済のモデル国に
まず今泉さんの著者評、書評を「訳者あとがき」から紹介する。
*推理小説を読むように謎がとけてくる
本書は、環境問題にたずさわっている者(訳者)にとっても、「目からうろこがおちる」思いをさせてくれる。なぜ経済のグローバル化が進むのか、企業はどんどん合併するのか、失業が増えるのか、都市がすさび離農が増えるのかといった問題の本質はエネルギー源にあること、そしてこのまま進んだらどうなるのか、それを変えるにはどうしたらよいのかを、筋道をたてて解説してくれるからだ。世界で行われているエネルギー産業の内幕も見えてくる。一見かたい内容なのに、推理小説を読むように次々と謎がとけてくるのだ。
*人類はソーラー資源の利用を急ぐとき
講演であふれるほどのエネルギーをみなぎらせた彼(シェーア氏)は「化石資源は50年後にしろ、100年後にしろなくなるのはたしかだから、人類はソーラー資源を利用するしか道はない。戦争や暴力や大きな環境災害を防ぐには、ソーラー資源の利用を急がなければならない。それをどれだけ速く実現させるかに人類の未来はかかっている」と声を張りあげていた。
*日本はソーラー経済にぴったりの国
日本は化石資源に乏しいけれど、太陽、風力、地熱、波力に恵まれ、モンスーン気候のおかげで植物はどんどん育つ、ソーラー経済にぴったりの国である。それだけに本書は政治家、自治体関係者、企業、環境関係者、いやすべての人にとって必読の書だと信じている。日本が世界に率先してソーラー経済を実現させれば、資源を他国に頼らないですむようになるかもしれないのだから。
<安原の短評> 求められる発想の大転換
念のため再説すれば、ここでの「ソーラー」とは、太陽光・熱だけでなく、風力、地熱、水力、波力などの再生可能エネルギー、さらに光合成で育つ植物資源などを指している。幸い日本はこれらのソーラー資源には恵まれており、上述のように「日本こそソーラー経済にぴったりの国」という表現も決して誇大ではない。ソーラー経済のモデル国をめざすべく、発想の大転換を図るときである。
▽ 「目に見える太陽の手」で実現を
ではソーラー地球経済とはどういうイメージなのか。本書は以下の七つのテーゼにまとめている。その大要を紹介する。
(1)生存の危機から脱却できる唯一の道
世界文明が生存の危機から脱却できる唯一の道は、再生可能資源への転換をすみやかに導入し、経済活動すべてを化石資源に依存せずに行えるようにすることである。
(2)転換の効果は産業革命に匹敵
ソーラーエネルギー・原料への転換は、世界社会の未来を保証するために、画期的な価値をもつだろう。その深くて幅広い効果は、産業革命のそれに匹敵する。
(3)人間に合った発展が可能に
化石の本流に打ち勝つことのできる、新たなソーラーの本流によってはじめて、経済のグローバル化はエコロジー面でも持続可能になる。ソーラーが本流となってはじめて、化石経済の破壊的な推進力、経済構造と社会文化の画一化を阻止できて、持続的で、多様性に富み、人間に合った発展が可能になる。
(4)経済発展をエコロジーの循環とともに
人類が安全に、社会的に生きていけるようにするためには、経済発展をエコロジーの循環、地域の経済構造、文化、公共機関に再び連結させるフィードバックは欠くことができない。このようなフィードバックはソーラーエネルギー・原料を基礎としてのみ、再び可能である。
(5)ソーラー資源は利用者にやさしい
化石エネルギーが経済性にすぐれているとされているが、そのエネルギー連鎖全体をみると、経済効率の優越性は神話でしかない。再生可能エネルギーは、その利用の連鎖がはるかに短いために経済効率において有利ですらある。ただし、そのためには在来型のエネルギー産業が公共から受ける無数の優遇措置を廃止しなければならない。ソーラー資源は在来型のエネルギーよりも潜在的には効率がよく、利用者にやさしくなれるし、そのお陰でより経済的に使うことができる。
(6)ソーラー資源の利用・市場化を優先する
経済秩序においては、変えることのできない自然の法則を、変えることのできる市場法則よりも優先させなければならない。たとえば食物も含む地域のソーラー資源の利用・市場化を、これら以外の等価値の商品よりも市場で優先すべきである。
(7)「目に見える太陽の手」によって実現
ソーラー地球経済においてのみ、すべての人間の物質的要求を満たし、それによって、真に等しい普遍の人権という理念を未来につたえ、多様な文化をもつ世界社会を取り戻すことができる。「市場の見えざる手」をもってしては不可能なことが、「目に見える太陽の手」によって実現する。
▽ <安原の感想> 「太陽の手」と「いのち尊重」の両立をめざして
ソーラー地球経済を支えるキーワードは「目に見える太陽の手」である。言い換えれば「太陽の手」によって価格や資源配分が決まっていく。これは卓抜な提案というべきである。
一方、現存の自由市場経済は「見えざる手」によって価格や資源配分が左右される。しかも現実には市場の寡占化によって大企業の支配力が強まる。その行き着く先が貪欲な新自由主義(市場原理主義)路線であり、それを担う「1%の超リッチ」と呼ばれる富裕層が地球規模で「99%の大衆反乱」(「ウオール街を占拠せよ」から始まった)による批判を浴びたのは昨年のことである。
米国に代表される貪欲な新自由主義者たちは対外侵略戦争を行使して恥じないだけではない。弱肉強食、不平等、格差拡大、貧困層増大 ― という巨大な不公正を広げながら私利をほしいままにしてきた。このような新自由主義路線はしぶとく生き残りを策しているが、もはや寿命は尽きようとしている。それでは目を転じて、新自由主義に代わる人間中心主義であれば、充分であり、肯定できるのだろうか。
上述の<(7)「目に見える太陽の手」・・・>に「すべての人間の物質的要求を満たし、・・・普遍の人権という理念を未来につたえ、・・・」とある。これは人間中心主義であり、人間賛歌でもある。当然の認識、主張のようにみえるが、欲をいえば、そこに不満、疑問が残る。なぜ「いのち」、つまり人間に限らず、地球上の動植物も含む「生きとし生けるもののいのち」ではないのか。
私の唱える仏教経済学は、人間尊重に限らず、太陽からの恵みはもちろんのこと、広く「いのち」を尊重し、感謝する。なぜならこの地球上で人間が独力で生きることはできない。動植物のいのちをいただきながら、それとの相互依存関係の下でのみ生存できるからである。
石油など化石資源からソーラー資源への全面的転換がやがて不可避だとすれば、いずれ「太陽の手」を活用する以外の妙手はあり得ない。肝心なことは、一方に「太陽の手」、他方に人間中心主義を超える「いのちの尊重」、この両者をいかに両立させていくかである。難問ではあるが、これ以外に人類が生き残る道はないことを「ソーラー地球経済」は示唆している。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(12年6月15日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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