ひところ、若者が「人殺しをしたらなぜいけないのか?」という質問をして、年長者が驚き呆れていたと報じられた。かつてなら、ありえない質問だ、というのである。しかし、英国の政治哲学者トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes 1588-1679)は人殺しをしても不正ではない、と記している。その本は1651年にロンドンで出版された「リヴァイアサン」(Leviathan)と題する本である。
人殺しは何故に不正ではないのか?では人殺しをしてもよいのだろうか?それに対して、ホッブズはこう記している。
「人びとは、すべての人を威圧しておく共通の力をもたずに生活しているあいだは、かれらは戦争と呼ばれる状態にあるのであり、そして、かかる戦争は、各人の各人に対する戦争なのである。」
ホッブズによれば自然の状態においては人はみな自然権を持っている。自然権は生存するために必要な物を自己の欲望に沿って手に入れる権利であり、当然ながらそこで食料や異性あるいは住み家を巡って争いや殺し合いが起きうる。さらに自分が強い人間であることを周囲の人間に誇りたい場合もある。優越感を充たしたいという欲望もまた人間には存在する。こうした場合もまた人殺しや闘いの原因となる。
ホッブズは各人は欲望のままに生きる権利を持っており、自然状態においては泥棒や強姦、放火あるいは殺し合いもやむなし、とするのである。だから、ホッブズの理論では人殺しも原理的には不正ではないのである。隣人のスポーツカーが欲しければ隣人を殺して奪えばよいのである。欲望を感じたらレイプしても不正ではなかったのである。実際、今日でも大災害や戦場で権力が空白になって狂気が支配したら、このようなことがしばしば起きている。これらはホッブズの説く各人が所有する自然権に基づけば不正ではない。
しかし、それではいつ他人から殺されるかわからない。妻や娘がいつ他人によってレイプされるかもわからない。「このような状態においては勤労の余地はない。なぜなら、その成果が不確かだからである。」各人の各人に対する戦争状態が続いている間は相互不信と不安で落ち着くことはない。
「そしてもっと悪いことには、継続的な恐怖と暴力による死の危険とが存在し、人間の生活は孤独で、貧しく、険悪で、残忍でしかも短いことである。」
こうした悲惨な状態を抜け出すためには自然権とともに「自然法」が導き出される。自然法は各人が平和に生きるための理性の戒律である。そこでは各人の各人に対する戦争状態を避けるために努力するべきである。しかし、いくら自身が平和に向けて努力しようと、相手が努力しなければ平和は獲得できない。だから、その時は自己防衛の戦争もやむなし、とする。つまり、自然法だけでは必ずしも平和は守れない。自然法には強制力がないのである。やはり野放しの自然権がそこにはあるというのである。
そこでさらに「すべての人を威圧しておく共通の力」を人工的に設定する必要があるとホッブスは考えた。それがCommonwealth(コモンウェルス=国家)である。それをホッブズは旧約聖書に登場する巨大な幻獣、リヴァイアサンに例えた。
各人が自己の自然権を少しずつ削って、それだけの巨大な権力を集中させたのである。ここには自然法を実現するための、警察力も軍事力もある。その時各人が結ぶ契約は「信約」と訳されているが、この信約によって初めて「不正義」が定義される。不正義とは「信約」の不履行に他ならない。これはコモンウェルス(国家)を作り出す以前には存在しないものだった。正義とは不正義ではない一切のものであり、不正義とは信約の不履行である。
「正義と所有権はコモンウェルスの設立とともにはじまる・・・所有権が存在しないところには不正義は存在しないし、また強制力が樹立されていないところ、すなわちコモンウェルスが存在しないところでは、すべての人びとは、すべてのものにたいして権利を有するのだから所有権も存在しないところは、なにごとも不正ではない。」
だから、ホッブズは日本の若者に対して、このように答えている。信約によって構築された国家がないところでは人殺しをするのも自由なのだと。人殺しも、レイプも、泥棒も国家がないところでは所有権も正義もないから、すなわち不正義ではない。あるのは野放しの自然権だけだ。そのような場所では各人の各人に対する戦争が毎日行われている。
それなら、若者はこう質問するかもしれない。「俺は信約なんか結んでねえよ」と。しかし、それは仮想なのである。社会契約説は国家を構築する論理なのである。実際に署名しなくとも、日本と言う国家で国民に登録されている以上、日本国の法体系を承認する信約を結んでいる、ということになるのだ。そこには殺人罪が刑法で規定されているのである。
ホッブズの「リヴァイアサン」はロックやルソーの記した社会契約論の先取りである。ホッブズはロックより半世紀ほど生まれが早い。ホッブズはロックが提唱した「抵抗権」については触れていない。そればかりか、ホッブズは国家を体現する主権者(国王・貴族あるいは集団)に対して、それ以外の全員である臣民は絶対的に服従すべきであるとした。なぜなら、信約によって主権者を設定したのは各人の合意によるにほかならず、臣民と主権者の利害が一致しないと理論上考えなかったのである。このことはロックを知った後の今日から見ると、随分遅れた思想にも見える。しかし、ホッブズの時代は未だに王権は神から授けられたものとする王権神授説の時代であり、各人の社会契約(信約)によって国家が作られたという考え方自体が革命的だったのだ。
ホッブズの時代、英国ではクロムウェルが国王チャールズ1世を処刑する政治革命(1649)が進行しており、それに遡って「権利の請願」(1628)が貴族によって構成されていたイングランド議会から王に提出されるなど、絶対王政が大きく揺らぎ始めていた。王の権力を制限し、臣民の自由を増やす方向で、英国は世界に先駆けて、政治のパラダイムを大きく変えようとしていたのだ。ホッブズが「リヴァイアサン」を執筆したのはこのような激動の時代である。だからというべきだろう、「リヴァイアサン」には古色蒼然とした中世的なムードも濃厚に残っている。特に後半部分である。
「リヴァイアサン」は1巻から4巻まである大著だが、政治学で必読とされる箇所は人間の条件を論じた1巻の後半と、国家の理論を論じた2巻である。3巻はキリスト教の国家理論、4巻に到ってはキリスト教の暗黒王国の国家理論である。だから、3巻と4巻をすっとばす人も多い。実際、後半の記載の大半は聖書的な講釈が長々と続くのである。
翻訳者の一人、水田洋によると「リヴァイアサン」は日本にきわめて不幸な形で入ってきた。明治16年に文部省から翻訳出版されたものが日本初の「リヴァイアサン」の翻訳書だったらしいのだが、これは全4巻の中で、2巻の抜粋に過ぎなかったのだ。先述したような主権者に対して、臣民は抵抗権を持たず絶対服従であるという思想がメインにされたようである。ルソーの社会契約論(民約論)などの民主主義的な思想を封じるエースとして、導入されたのだった。そこでは最初に触れられた仮説が抜け落ちていたのである。
ホッブズは臣民は主権者に服従しなくてはならないとしているが、もしそれが気に食わなければ信約を破棄して、リヴァイアサンから離脱する自由も認めているのである。もちろん、離脱してしまえばまた「各人の各人に対する戦争状態」に舞い戻るばかりか、今度は巨大なパワーを持つリヴァイアサンを単独で相手にしなくてはならない。しかし、人には移動する自由もあり、自分に合った国を選ぶこともまた信約によって可能なのである。長い人類の歴史の中でこのような人工国家の思想は新しかった。それまでは支配者と支配される民がいるだけで、そこには王権があった。王権は神から授けられていた。そうした武力と権力で築かれた国家観を、個人の合意に基づく契約による国家観に「リヴァイアサン」は書き換えたのである。これは天才による思想である。だからこそ、今日でもニューヨークタイムズの論説・政治コラムのページでホッブズは名前や文章の一説、あるいはそのキーワードが頻出する政治哲学者なのである。
■ホッブズ著「リヴァイアサン(国家論)」
(河出書房 世界の大思想13 水田洋・田中浩訳)を参照した。水田洋氏の訳で、岩波文庫から4分冊で出ている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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