「トークライブハウス」というものに行ってきました

一、

昨日、「阿佐ヶ谷ロフト」と云う「トークライブハウス」に行って参りました。若い人が集まり、放談話を聞きながら、飲食と質疑を楽しむと謂う、近頃流行の風俗を覘きに行ったわけです。

 およそ50人ほどの30歳代を中心とした、客が熱心に聴いていました。テーマは「革命論」。語り手は、アナーキストと言って多分間違いのない千坂恭二さんと日向派活動家歴とオウム体験者である早見慶子さん。残念ながら、「革命論」に過剰に期待してきたのであろう20歳代の青年の素朴すぎる質問と、それを許容しない多くの客の対立で、雰囲気はあまり良くなかったので途中で帰ってきましたが、そうした対立も、時代の雰囲気なのでしょう。

 早見さんは、ご苦労が熟成されるまでには少し時間が掛かると謂う印象ですが、頭の良い、これからの苦労が必ず実に為ると謂うタイプの方でした。千坂さんは誠実を絵に描いたような人格の方で、真面目すぎて生きる事そのものが軋轢を産むと謂う、一種の天才型の思索者のようでした。しかし、判りやすく熟成された話をされていて、話が難しいと謂うことではありません。

 これから、一体、どんな「革命論」が出てくるのか、本当は少し期待したいところです。

 二、

話の中では、労働者が革命の主体だなどと謂うのは、「党革命家の策略だ」と謂う趣旨の言葉や、「革命は電撃のように遣ってくる」はずだ、と謂う事と、明治維新で「北朝政権なのに、何故、南朝正統論が採用されたのか」、「それはすなわち、明治国家が革命国家だからだ」などと謂う事が、強調され、客が戸惑いの中にも「話に酔いたがっている」事が良く判りました。スガ秀実さんからは、このごろでは「あいつはアナルコ・ファシストだ」と言われている、と謂う諧謔も皆さんの高踏趣味をくすぐっていた印象でした。

 ごろつきの思想であることを隠さない「革命思想家」にして、高等遊民の上品さから離れられず「真摯に革命を求めてマルクス(レーニン)党を否定」する、しかし、革命主体と己を措定する事が出来ず「易姓革命を言明出来ない」方だとお見受けしました。

 ちきゅう座の会員となって、少し、甘えた左翼文化人に「喝」を入れて欲しいくらいだと、思いました。

 三、

つまり、ちきゅう座の言論の甘さ、危うさに「一会員として危機感を持っている」と云う事ですが、それは、今年のちきゅう座の「特集」の設計にも現れています。今年は確かに、「60年安保50周年」の年です。それを特集するのは、その事に問題意識を持った会員が多ければ、当然です。違和感は(本心を別とすれば)、ありません。

 しかし、60年安保50周年は何の為に、「再考察されなければ為らないのか」。安保条約が違憲だからか(伊達判決)、核密約があったからか、革命のチャンスをものに出来なかったからか(蔵田総括)、色々あるだろうし、それらは皆正当な理由に決まっている。しかし、50年目に真面目に、本当に振返られ無ければならないものか。

 今、アラウンド還暦を迎えている人間にとっては、「70年7・7自己批判40周年」の問題の方がはるかに大きいのではないか。スガ秀実さんは「68年革命は勝利した」派だ。68年革命の課題は、「反革命的にほとんど実現されていると謂う。68年革命派は負けて勝った、と謂うわけだ。

 「女性解放は格段に進んだ」、「マイノリティーは無視できない者として認知された」、「大学は大衆化して、知的権威ではなくなった」、「国民統合力は解体し、多文化主義はサブカルチャーとして浮上した」などと謂うことだ。事実だろう。反革命的に実現しているのだ。

 「7・7自己批判」こそ、革命的左翼を反革命に屈服させる契機になった事件ではないか。日本新左翼は、「反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略」を掲げていた白ヘルメットと、「反スターリン主義などと謂うことは常識(第二次ブンド再建の立役者・千葉正健証言)で、反帝国主義を掲げた」赤ヘルメットと、もう一つ不思議な青ヘルメットの集団が全体を牽引していた。その諸君が、全国全共闘の集会で、既に解体していたと考えられる、「華僑青年闘争委員会」を名乗る若手活動家の糾弾を受けて、全面的に屈服し自己批判したのだ。

 これはその後路線化されて、「非抑圧民族へ侵略国人民として、血債猛省を懸けて自己批判していく」各党派の運動になっていく。つまり、「反帝・反スタ」は「中国・朝鮮・アセアン諸国には適用されない」路線に変質したわけだ。「岩田危機論によって空気を入れられた10・8世代」以降の世代は、「世界革命の主体として全世界を獲得する事を禁じられたのだ」。

 この日本発の世界革命の禁止こそ、決定的な、階級内部からの背教であっただろう。「全共闘世代と言っても上級生と下級生は違う。上級生はベトナム反戦であっただろうが、下級生は世界革命戦争参戦であったんですよ」と謂う、千坂さんの説明は実感と重なる。赤軍派は団塊の世代の下級生の気分から生まれたのであって、赤軍派が戦争派を生み出したわけではない。

 「70年7・7自己批判」の謎は深い。得をしたのは、明らかに中共党とアメリカ帝国主義で、日本帝国主義は明らかにこの時蚊帳の外に置かれていた。ソ連共産党は脱走米兵事件の報復をされ、71年の米中和解声明によって、中国をアメリカに獲られる事になる。日本新左翼は、東京における「中央政治闘争を回避」し、三里塚「ラバウル」闘争路線を敷いていく事になる。奪権闘争はしない路線になったのだ。

 四、

「7・7、40周年企画」も立てられないくらい、「ちきゅう座」は年寄りのものだ、と謂うことだが、現実は現実として、これでは駄目だ、とは云わざるを得ない。新しい人士を会員として、早く、多く、しかし、安直にではなく、迎えよう。

  〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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