前回(本年1月8日)この「ちきゅう座」(時代を見る)に掲載の「パパ活」論(そのⅠ)では、サブタイトルを―「性の商品化」批判では届かない世界―としている。しかし、このサブタイトルについての説明はほとんど展開できないままだった。そのためだったのだろう、親しい友人に、「パパ活も明らかな〝性の商品化”ではないの?」と首を傾げられた。また、別の友人は、「なぜ〝性の商品化”はアウトなの?」「性(セックス)の商品化は資本主義社会ではなくなりはしないのでは?」と、私のやや性急な非難めいた文章に疑問を呈された。
ところで上野千鶴子氏は、鈴木涼美氏との往復書簡『限界から始まる』(幻冬舎)の中で、「ありとあらゆるものを商品として飲み尽くしていくのが資本主義だろう?というニヒリズムにわたしは与しません。・・・つまり資本主義の交換可能なものには限界があり、あらゆるものが商品になるわけではないのです」(p.137)と述べている。
確かに、「人身売買」や「臓器売買」など、明らかに「人権」無視や「生命」を危険に晒すような場合は言うまでもなくアウトであろう。しかし、性(性行為・セックス)の売買(商品化)は、なぜ「表向き」禁止され(「売春防止法」)、実際には、さまざまな形での売買春が行われているのだろうか。まさに「性の商品化」の世界である。この点について、残念ながら先の上野氏の指摘は、内部にまで入り込んではくれない。
また、1956年制定の「売春防止法」では、「売春」はあくまでも女性の側からだけの定義で、「対償を受け・・・不特定の相手方と性交すること」という規定の元でその「防止」を謳っているのである。しかし、「売春」をあからさまに斡旋する業者は処罰されるものの、「売春」する(させられる?)女性は(貧しく哀れな)「福祉」の対象であり、一方の、それを「買う」男性は、まったく処罰の対象とはなっていない。そもそも、相手となる男性の「買う性(買春)」への問題意識・批判意識は、戦後の日本社会では、皆無に近い事は度々指摘してきたことではある。
今回参照した坂爪真吾『パパ活の社会学』(光文社新書)の中で、インタビューを受けるMTさん(32歳・山梨県出身)は、モデルとして活動しながらパパ活をしているという女性である。「170センチを超える高身長と抜群のスタイル」「知性と礼儀正しさ」「才色兼備」「細やかな気遣い」・・・と非の打ちどころのない(と言われる)女性であるが、彼女の「パパ活」観は次の通りである。
― パパ活が流行っている理由は、需要と供給の一致です。女性は身体と時間を提供する。その見返りとして、男性はお金を提供する。もうバッチリじゃないですか」(p.76)。
「需要と供給の一致」!・・・資本主義の原点?!
当の女性がこのように述べている世界を、「性の商品化」という言葉だけで、はたしてどこまで問題提起できるのか、何が批判されるべきことなのか・・・『「性の商品化」批判では届かない世界』という、私の戸惑いの一端である。
「パパ活」までの歴史―「風俗・フーゾク」の「進化」?
戦後、「売春防止法」がなかなか制定されるに至らない間に、性に関わる「風俗営業等」の「規制」や「業務の適正化」に関わる法律が、1948(昭和23)年、早々と制定されている。それ以来今日まで、日本社会ではさまざまな性関連産業が「フーゾク」という名で工夫をこらされ、生成され、社会の下部で、あるいは大っぴらに広く流通されてきた。また、映像・ポケベル・携帯電話・インターネット・スマホ等々の開発・導入によっても、その都度、それらの形態・あり様は、大きく変化してきた。その変容の姿はまさに「フーゾクの進化?」とも呼べるようである。
「トルコ風呂」(後にソープランド)から始まって、「個室喫茶」「ノーパン喫茶」、1980年代前半からは「アルバイシュン」(女子学生によるアルバイト感覚での売春)、テレフォンホンクラブ(テレクラ)、「愛人バンク」、「ダイヤルQ₂」、1990年代に入っての「派遣型リフレ」(若い女性との会話や添い寝のサービス)、「デリバリーヘルス」(デリヘル)、後半では女子高校生(JK)相手の「ブルセラショップ(JKビジネス)」「援助交際」等々。その後、「出会い系サイト」や「交際クラブ」が2000年代に入ってから顕著になってきたのだろう。
これらの流れの中で、「パパ活」もまた登場した。NHK福岡で「広がるパパ活 なぜ女性たちは」の特集が組まれたのは2017年4月21日だったという。インターネット上での「パパ活」の検索数が、2016年から2017年にかけて10倍以上増加していることも、そこで報道されたことである。
また、野島伸司脚本のドラマ「パパ活」がフジテレビで放映されたのも同じく2017年。もっとも、この「パパ活」という「キャッチーな言葉」は、アフィリエイト(成果報酬型広告)に携わるアフィリエーターたちの苦肉の策だったとも言われる(前掲『パパ活の社会学』p.181)。「出会い」というワードでは、もう誰も喰いつかなくなっていたのだと言う。
前回、私は、中村淳彦氏の『パパ活女子』(幻冬舎新書、2021.11)を参考にしながら、マッチングサイトでの人気「パパ活サイト:Sugar Daddy」での「パパ活女子」のインタビューをいくつか拾ってみた。そこでは、事前の写真掲載、サイト側のマッチングを踏まえるとはいえ、やはり見知らぬ男と女の「二人だけの出会い」である。しかも「セックス」に「進む」となれば「ホテル内での二人きり」。さまざまな行き違い、トラブル、事件などの危険性も大きい。
という訳で、やはり「交際クラブ」としてしっかりした組織を維持している大手の方が安心感があるのかもしれない。今回は、最大手「ユニバース倶楽部」(本社東京)の事例を参考にしよう。
ユニバースグループは、100人を超える社員を抱え、東京・大阪・名古屋・福岡など全国に13の支店をもっている。2018年7月現在、女性会員数は約7600人、男性会員は約2500人という(坂爪真吾著前掲書、p.177)。
「パパ活」に参入する女の本音、男の本音
― 「パパ活」と「結婚」って似た者同士?
「パパ活」とは、1993年からスポットが当てられるようになる「援助交際」のある意味での「生まれ変わり」なのかもしれない。つまりは、お金を持っている「中年男性」と、お金が欲しい「若い女性」の組み合わせという意味において、である。
もっとも、「援助交際」が、「女子高校生」を露骨に性的対象にしたために、「未成年者」相手の売買春として摘発された。その教訓を守って、「パパ活」は、「18歳以上の女性」という条件は厳守である(上限は、おおよそ30歳前後?)。
その上で、業者の「マッチング」作業が介在しているとしても、最終的には、女性も男性も「自己選択」に任せられている。「好きか嫌いか」「OKかNOか」をそれぞれ自分で判断できるというのは、確かに「強制的な」かつての「売春」とは明らかに異なる。
しかし、「パパ活」を「稼ぎ」の手段としている女性にとって、相手の男性は「客」であり、「会話」も「セックス」も、相手に合わせなければならない。かつてのキャバレー・バー・クラブ・アルサロ等で働く女性たちが習得した「会話術」「処世術」である。
その上で、「セックス」はギラギラと表に出て来る男の欲望ではない(控えめに押さえられている)としても、確実に「込み」になっている。「共に食事をし、会話を交わし、最後はセックスをする」。「食事」だけでもお金は入って来るが、セックスを避けていては関係が続かないし、満足なお金は入って来ない。
― 独身の未婚者やバツイチの男性は、相手がこっちに恋愛感情を抱くようになると面倒くさい。なので、既婚男性の方がこっちも嬉しいです。変に深入りされないし、一番安全(p.21)。
― 「家族の仲は良いけれど、妻とはもう長年性生活がない」という男性の方がお付き合いしていて楽ですね(p.75)。
― 男性から頂くお金は「ガマン料」だと考えています(p.90)。
以上のように、「キャバクラや風俗で働いていたこと」はすべて伏して、「複数のパパ」が居ることも明かさずに、「可憐な素人女」のように演技して「パパ活」をこなしている女性(Rさん)だが、彼女もまた当たり前に「結婚願望」を秘めている。彼女にとって、「パパ活」も「結婚」もまさしく地続きのことなのだ。
― 私が自由に過ごせるくらい、お金を持っている人と結婚したいです。子どもに好きなことをさせるためにはお金が大切。私も稼ぐけど、それ以上に結婚相手には稼いでもらいたい」(p.21)。
戦後の日本の結婚は、1960年代半ばに、「見合い結婚」から「恋愛結婚」の割合が逆転した、と言われる(落合恵美子『21世紀家族へ』ゆうひかく選書)。しかし、一般的には、女性にとって「結婚」とは男性の経済力が大前提とされた。その上での、「カッコつき恋愛」だったことが、現在の「パパ活女子」にも正直に受け継がれている。経済力の無い男性の「結婚難」は現在なお続いているが、先のRさんは、望むような男性と出会えるのか、さらにどのような「結婚生活」を送ることになるのだろうか。
「性別役割分業」を生真面目に担いながら「結婚生活」を送って来た日本の戦後の家族。そこでの「分業」は「協業のない別々の生活」。少しばかり地位のある男性は、職場の若い女性との「婚外恋愛」を楽しむことも少なくなかったし、仕事の後の同僚や、お酒の絡む女性たちとの付き合いも普通に経験したかもしれない。一方の女性は、「母」として、子育てを担い、その後は子どもの教育や進学に胸を痛め、ある者は「家計の補助」(住宅ローンや子どもの教育費)のために、「パート」や「アルバイト」などの職にも就いた。「性生活」以前に、夫と妻は、互いの感情の交流すら持てないまま時を過ごした例も少なくないであろう。
この時代にかなりの経済力を保持した(30代から)40代、50代の男性が、「パパ活」に参入する。中には56歳のMさん。彼は次のように述べている。
― 女とちゃんと付き合うのはもう嫌なんですよ。結婚で懲り懲りしました。恋愛関係までいくと、こっちも面倒くさい。パパ活の疑似恋愛くらいがちょうどいい(中村敦彦『パパ活女子』)。
一方で、「素人めいた若い女子」との「心ときめく恋愛ごっこ」を、「かなり本気で求めて」参入する「パパ」も少なくないようではあるが、外資系で働いていたIさん(38歳)は次のように語っている。
― 高いホテルを使うのも、戦略の一つです。貧乏臭かったら女性のテンションが上がらない。・・・すごく景色の良いところで、すごく美味しいものを食べて、綺麗な夜景を見れば、それだけでテンションが上がる。美味しいものは人を笑顔にする、というのは本当です。/多くの人は、お互いの関係性が本物であることにこだわりますが、本物と偽物という線引き自体が曖昧だし、当人同士がそれでいいと思っているのであれば、どちらでもいいんじゃないかと思います。外部の人間がどうこう言う必要はないと思います(坂爪真吾著、p.148、154)。
考えて見れば、かつての「お見合い結婚」は、家と家との条件を突き合わせてのこと、「恋愛結婚」もまた、相手に要求する条件を満たす枠内での、「選択と決断」の結果だったかもしれない。「結婚とは、片目をつぶってこなすもの」と誰が言ったものか、「夫と妻」という役割をこなしながら、本音は黙して、「付き合い」と「少々の噓と我慢」と、セックス場面では「演技」もしながら維持されてきた結婚も少なくないのであろう。
だとすれば、「パパ活」と現実の「結婚」とは、ほとんど「紙一重」、差異がなくなる。年月を経た「マンネリ化」した結婚生活の「息抜き」?・・・自らをリフレッシュするための「疑似恋愛」つきの「セックス」・・・それのどこが悪い!となるのであろう。
現在、自民党を中心にして、「売春防止法」に代わる女性新法が構想されているという。「女性支援新法制定を促進する会」(代表:上川陽子元法相)が中心になって2月末までに議員立法を取りまとめる予定だそうだ(朝日新聞、2022.1.13)。
ただ、「売春防止法」の改訂・廃止問題は、女性の雇用の保障や賃金の平等化を進めるだけでなく、この世に広まっている「売春」、とりわけ男たちの「買春」の意識や実態をともに考え直すことが求められているはずである。しかし、野党もまた、その覚悟も用意もなさそうだし、私自身も、「性の商品化」批判を超える「性の思想」にはまだまだである。「人と人との関わりとは?」・・・これからも課題である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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