「ビルマ 危機の本質」を読んで、考える(タンミンウー著、河出書房新社/2021.10)

 2020年11月の総選挙でNLDが2015年に続いて大勝利し、第二期スーチー政権のもとで「改革開放」の歩みが本格化していくのだとだれもが思っていた矢先、2021年2月1日に国軍クーデタが起こり、民主化・自由化・近代化の事業は頓挫。この13か月間で約1,600人もの血の犠牲を払うことになる。しかし民主派勢力は影の政府(国民統一政府)の擁立と武装抵抗という新しい形態で軍事政権と互角に対峙して民主化闘争を継続、今日にいたっている。
※国名表記は、タンミンウ―に合わせてすべて「ビルマ」とした。太字もすべて筆者による。
 著者のタンミンウ―は、1960年代に国連事務総長を務めたウタント(ビルマ音ウータン)の孫である。アメリカで生まれ、アメリカで教育を受けた歴史家であるが、1988年のビルマ動乱以後、祖国と積極的にかかわり、著作活動だけでなくテインセイン大統領のもとでアドバイザーを務めたり、「ヤンゴン・ヘリテージ財団」を立ち上げ、英国時代の歴史的建造物群の保存に尽力してきた実績を持つ。
 2010年前後の開放と民政化の動きから始まり、2021年2月1日の国軍クーデタで幕を閉じるミャンマー「体制移行期」としての現代史――この流れの本質を知るための最高の手引書が、本書であるといってよかろう。もっとも本書は、国軍クーデタ以前に書かれたものであり、クーデタ問題を直接扱っているわけではない。しかし2010年前後の開放と民政化に向けた動きから、2021年2月1日の国軍クーデタ直近までのミャンマー政治の流れを扱う本書を通して、読者はクーデタの背景事情を深く知ることができるであろう。それだけではない、筆者タンミンウ―は必要に応じて、とりわけ人種・宗教・民族にかかわる問題では、王朝時代やイギリスの植民地時代の過去に遡及することによって、現在の政治危機の背景にある歴史的経緯と矛盾をあぶり出す。
 総じてビルマは近現代史において複雑な―モザイク的と称すべき―国家形成を強いられてきた。著者によれば、第一に18世紀、コンバウン王朝によるアラカン王国併合(インドと国境を接する現ラカイン州)、第二に、19世紀第1~3次英緬戦争による全国土の植民地化、英国による三つの異なる統治法(イラワジ平原とラカイン、シャン高原、辺境地帯)と分断政策(少数民族優遇)、英国統治下での数百万人ものインド人大量流入、アジア太平洋戦争における仏教徒(日本軍)とムスリム(連合軍)両陣営への分裂、などの歴史的経緯が、戦後の統一国家の形成に極めて大きな困難性をもたらしたという。要するに、住民間にある人種・民族(エス二シティ)・宗教の複雑な差異を、宗主国イギリスは分断線として固定化し、相互に反目させて支配した。その負の遺産が、2011年のラカイン州におけるコミュナル紛争(地域的宗教・民族・人種紛争)を発火点として再浮上し、民主化過程に重石となって困難をもたらしたのである。この点については後で再び立ち返って論じよう。
 著者は歴史家として現代の課題の理解のために必要な歴史に立ち返りつつ、ミャンマーの現代政治にかかわって見るべきものをしっかりと見ている。歴史家としてfact-findingを何より重視し、精力的に様々な地域を訪れ様々な人々の話を聴取している。しかもそれだけではない、凖文民政府であったテインセイン政権の政治顧問として、政治ドラマの一部をアクターとして自ら演じつつ―2007年「サフラン革命」の後から政治過程に積極的に参画―、かつその大きな流れの現場証人として出来事を記録し分析するのである。
 タンミンウ―は、難民救援活動など国連で活動した経験を持つ。その経歴を生かし、ビルマ問題では、国際社会の視点と、ビルマ人としての国内的視点を兼ね備えたコーディネーターとして、国際社会と軍事政権とをつなぐ役割を果たそうとする。転機となったのは、2008年5月にイラワジ・デルタを襲い、14万人もの死者行方不明者を出したサイクロン「ナルギス」と、その国際的な救援活動をめぐる攻防であった。軍事政権は、災害救援を口実に西側諸国がビルマに介入することを極度に怖れ、固く扉を閉ざしたままであった。※しかしことは一刻を争う。緊急に災害救援の手を差し伸べなければ、何万何十万かの犠牲者が追加される怖れがあった。そこで国連や国際社会はブッシュ大統領を制裁解除に動くよう説得、他方では独裁者タンシュエに対して国際救援部隊を受け入れるよう働きかけた。ようやくそれが奏功して陸続と国際救援部隊がビルマに入り、国軍とともに救援活動にあたることになる。

※私の知人の某国連機関のシニア・ディレクターの証言によれば、アメリカの第七艦隊がアンダマン海に入域したというニュースに、職場のミャンマー人たちは歓声と拍手で沸き立ったという。アメリカが軍事介入して、軍事政権を打倒してくれることを期待したのであろう。このエピソードは、ビルマ人知識層のある種のマインドセットを表していた。

 タンミンウ―によれば、ナルギスの救援活動に従事した市民団体は、今までの孤立化政策とは異なるアプローチを模索し始めたという。いわば軍政に対する制裁オンリーの北風政策から、宥和的アプローチの南風政策、いわゆる「関与政策」へと転換し始めたのである。2008年10月には「ナルギス復興会議」が設立され、軍事政権は国際社会への常設の窓口を設けた。過去半世紀もの間西側社会に扉を閉ざしてきた軍部独裁政権が、おずおずと扉を開け始めたのである。タンミンウ―もかつては制裁強硬論者であったが、ビルマの現実と関わるようになって、軍部に対する制裁と孤立化政策はなんの成果をあげておらず、ひたすら貧困層の苦境を深めるばかりであることに気付いたという。
 こうした災害をきっかけにした潮目の変化は、独裁者タンシュエの平和的な引退(権力移譲)とそれ以降の体制保障のための「民主主義への七つのロード・マップ」の最終仕上げの段階と重なった。タンミンウ―によれば、「タンシュエの望みは、引退の後の身分・家族の安全保障と、より分散され、より一般受けする権力構造への移管」だった。かくして「ナルギス」から一週間後、傷跡もまだ生々しいなかで国民投票は強行され、90%以上の「賛成」多数(!)で新憲法は承認された。
 新政府閣僚に登用された将軍たちは、「新憲法の守護者」となるよう独裁者タンシュエに言い含められたという。新憲法下、民選によってテインセイン政府が成立し、アウンサンスーチーは2011年8月にテインセイン首相と会談、新憲法を受け入れ、合法化されたNLDは本格的な政治活動を開始した。テインセイン政府のもとで、元軍人の改革派官僚が軍強硬派を押しのけて抬頭し、政策顧問団やシンクタンクが大統領を補佐すべく立ち上げられた。テインセイン首相のもと、改革派官僚たちは旧態依然たる官僚組織を飛び越えて進言し、新政策を実行しようとしたという。
 様々な政策転換がなされたが、最も印象的だったのは、中国との共同プロジェクトである「ミッソンダム」の事実上の凍結だった。イラワジ河源流に位置する、中国主導の巨大ダム計画は、何よりもミャンマー国民の精神的拠りどころである母なる大河に不可逆的なダメージをあたえる怖れがあった。国民のプライドが傷つけられれば、巨大な反対運動が巻き起こる可能性があった。産み出される電力の大半は中国に輸出されるものとされ、地元を裨益するようには思えなかった。独裁者タンシュエが決定した事業を「保留」というかたちで、テインセイン大統領は決定者が傷つかないやり方でパスしたのである。続いて一連の改革が矢継ぎ早になされた。インターネット解禁、労働組合合法化、政党登録法改正、政党活動自由化、検閲制度の撤廃等々。

サルウィン川の水力発電ダム建設計画に反対するキャンペーンに参加するタイ・ビルマ国境沿いのカレンニ族の子どもたち。  / Pianporn Deetes / インターナショナル・リバーズ

 そしてこの時期最も重要な政治課題となったのは、内戦終結へ向けての和平交渉の開始であった。2008年8月に、テインセイン大統領は和平交渉の場に反政府勢力のリーダーたちを正式招待した。戦後60年以上もの間続いてきた少数民族諸勢力との武力紛争の解決なしには、経済開発も民生向上も絵空事でしかなかった。和平交渉をバックアップする凖政府機関として「ミャンマー和平センター」(MPC)などが立ち上げられ、タンミンウ―も特別顧問として活躍することになる。
 テインセイン政権下での和平プロセスも、政府軍と少数民族武装組織(EAOs)とのたびたびの武力抗争もあり一進一退であったが、タンミンウ―によれば、「全国規模の停戦合意」というアイデアが生まれ、そのため17の少数民族武装組織のリーダーが一堂に会する機会が持てたという点で大きな成果があったという。そしてフェデラル連邦制(Union)や将来的な連邦軍の創設などの原則合意がなされたという。
しかしテインセイン改革の目玉である内戦終結への取り組みは、一見順調に運んでいるかに見えたが、ビルマ共産党の流れをくむ「ワ州連合軍」など中国系少数民族やカチン独立軍が和平交渉には参加せず、国軍と中国系民兵組織との武力衝突も発生、10万人もの住民が難民化した。そして改革開放の動きに逆行する重大事件が、2012年5月ラカイン州マウンド―郡区で起きた。仏教徒の女性の暴行死を発端として仏教徒とムスリム住民が衝突、100人の死者と10万人の難民をうみだした。いわゆるロヒンギャ危機の発端であり、以後全国各地に同種の衝突が広がっていく。
 折しも新自由主義的なグロバリゼーションの流れ広がる一方、それに反発するナショナリズムの抬頭が世界各地で見られた時期であった。巨大な市場経済化の波に呑み込まれて、自分たちの生活基盤や精神的な拠りどころが失われていくのではないかという不安や恐怖が広がったのである。ミャンマーでも軍部独裁の重圧が緩和されることとあいまって、人種・民族・宗教にかかわるアイデンティティ意識の先鋭化がみられた。そのなかで多数派である仏教徒ビルマ族は、世界的なイスラム教の抬頭に危機意識を深め、2014年、仏教系ナショナリスト集団である「マバタ(民族宗教保護協会)」が立ち上げられた。一連の反ムスリム暴動にはこの団体や治安当局が裏で糸を引いていることが疑われた。

国軍派民兵組織ピュー・ソー・ハティーによる過激派仏教僧侶への軍事訓練―3月、サガイン管区にて RFA

 この問題では、タンミンウ―は重要な問題点を指摘している。かれの解説によれば、NLD=「国民民主連盟」の民主にあたるビルマ語は「アミョーダ」であり、それは民族と同義であるという。民主主義と民族主義が重なる点に要注意。われわれの理解では、普遍主義の意味合いが強い民主化や民主主義の概念は、特殊性に結び付く民族主義の概念とは反発し合うものであるが、ビルマ語ではそうでないというのだ。そういえば、88年反乱の先頭に立ったココジーら民主化運動の指導者たちの一部が、ムスリム排斥運動、反ロヒンギャ運動に同調した。いや、タンミンウ―は、仏教ナショナリズムへの傾斜をアウンサンスーチーのうちにも認めている。※ タンミンウ―はそうとは断言はしていないが、ビルマ民主化運動の重大な弱点に触れているのである。

※タンミンウ―は、スーチー氏の論文「植民地支配の下でのビルマの知的生活」から一節を引用して次のようにまとめている。「二十世紀初頭の時点では、『ビルマ人の民族的生存』に対する脅威は『イギリス人からというよりも、二十世紀ナショナリストにとってより目前の標的だったインド人と中国人からもたらされた。これらの移民はビルマ経済に牙城を築いただけでなく、ビルマ人女性と家庭を築き,ビルマ人男性の男らしさと民族的純潔の根源そのものを奪ったのである」。一見してかなり強いナショナリスティクな言明であろう。将軍たちがスーチー氏に対しイギリス人と結婚したことの罪深さをあげつらうのと、それほど距離がないように感じられる。

 2016年3月、実質的にアウンサンスーチーを首班とする文民政府が誕生した。といっても国家の防衛と治安維持にかかわる三省―内務省、国防省、国境省―の大臣は、国軍最高司令官が指名権を有し、中央―地方のあらゆる議会の議席の1/4は国軍に自動的に割り当てられた。その意味で2008年憲法の枠組み内での文民と軍人によるハイブリッド政権であり、かつ子息が外国籍であるアウンサンスーチーには大統領になる資格に欠けていた。
 この憲法の性格と政治闘争の特徴をスケッチすると、以下の通りとなる。
――軍事政権は国際的な包囲と制裁に苦しんではいたものの、当時国内の民主派勢力はほとんど窒息状態にあったので、2008年憲法の片隅に合法的な地位を与えはするものの、国軍のコントロールの範囲内に抑え込めるものと考えていたのであろう。また憲法には国軍の支配的地位を保障する安全装置が、幾重にもインストールされていた。しかし国軍が想定していた二大勢力の非対称的均衡は、議会の力が強まったため―タンミンウ―によれば、アウンサンスーチーとシュエマンとの同盟などによって―くずれ、NLDに有利に傾き始めた。2008年憲法を自らの政治権力と経済権益の拠りどころとして、本心ではその永久化をもくろんでいた国軍勢力と、2008年憲法は本格的な民主化にむけた通過点に過ぎず、できる限り早い時期に憲法改正し、純粋な文民政府を樹立したいと考えていた文民勢力との思惑の違いからくる緊張関係は、次第に強まっていった。2020年に改選を迎えるNLDにとって、目覚ましい実績に乏しいだけに、本気度は別にして憲法改正に向けてなんらかのパフォーマンスが必要であった。このNLDの動きは相当程度国軍側を苛立たせ、国軍は危機感を募らせたのであろう。
 政党政治に関する経験不足から、利害調整して両者が歩み寄り妥協点に到達するという工夫はなされなかった。国軍側は三度目となる総選挙敗北からくる屈辱感と焦燥感もあって、憲法上、改正問題に実質的に拒否権を与えられているにもかかわらず、クーデタへと暴発したのである。民主派勢力も、本来なら中央―地方政界で行政経験を積み、実務的能力や政策立案能力を磨く時間的余裕を必要とした以上、そういう観点で時間稼ぎのため妥協する姿勢が必要であったろう。
 政権に就いたとはいえ、NLDの議員たちは多くが長く獄に囚われて社会生活から隔離されていたうえに、実際の政務や行政経験を有する者はほとんどいなかった。アウンサンスーチーは、壮年以上の古参党員で、多くが元軍人の経歴を持つ者たちで自分の周りを固めた。独立運動と内戦を闘った国軍は、ナショナリズムを精神的支柱とし、また自らを仏教の守護者と任じていた。途中で離反したとはいえ、NLDの長老たちの多くは、国軍内のエリート・コースを進んできた人間たちであった。上意下達の指揮系統のもと厳格な規律で育て上げられてきた精神性、エートスは、そうそう変わるものではない。そういう意味では、NLDもまた党内民主主義という点で困難性があったことが推察できる。
 さらに新政権は発足したが、全般にわたって自身単独でのマネッジメントを好むアウンサンスーチーは、テインセイン大統領のブレーントラスト(顧問団)をすべて解散し、何ごとも引き継がなかった。とにかく周りをNLDからの身内で固めて、広く有能な人材の登用を行なわなかった。
 彼女は新政権の目玉政策として、内戦終結―恒久和平達成のため「二十一世紀パンロン会議」(連邦和平会議)を立ち上げた。これは1947年独立前に少数民族をまとめ上げ、統一国家の体裁を整えた父アウンサン将軍の衣鉢を継ぐ事業であった。しかしこの点でも彼女はテインセイン大統領時代の仕事を引き継がなかった。タンミンウ―によれば、大きな働きをした「ミャンマー和平センター」(MPC)は解散させられ、若い民主化の熱意に燃えるスタッフ100名も解雇したという。それだけでなくMPCの解散は、国軍とのつながりが切れるという意味でも、和平交渉に関わるステークホルダー軽視につながった。
タンミンウ―はおそらく相当な憤りを抑えてであろう、アウンサンスーチーは「さらに理解しがたかったのは、この瞬間をずっと望み続け、心からの援助を惜しまなかった何百もの市民組織、活動家、亡命者とつながろうとしなかったことだった」と述懐する。国軍の政治権力保持の理由づけが、内戦状態が解決をみないことにあったのだから、和平の達成は純文民政府成立のためには不可欠であり、そのためには民主化勢力の総力を結集する必要があったのだ。しかしアウンサンスーチーはそうしなかった。チームを組んで仕事をするやり方にも慣れていなかった。いや、それ以上に―タンミンウ―はそこまで言っていないが―彼女には残念ながら「国民的統一戦線」という政治概念、「国民的統一戦線」の上に立つ中央政府という発想がなかったのではなかろうか。※

※昨年発足した民主派勢力の影の政府が、みずからを「国民統一政府NUG」と名乗ることには、スーチー政権の負の遺産、つまり人種・民族・宗教といった属性(アイデンティティ)に関わる排除の論理を克服し、国民的統合をめざそうとする意思が感じられる。

 結局スーチー政権の看板政策である「二十一世紀パンロン会議」は、文字通り看板倒れになってしまった。テインセイン政権末期に合意に達した「全土停戦協定NCA」には、18の公認武装組織中8組織のみが署名を行なったが、スーチー政権になっても大きな前進は見られなかった。もちろんスーチー政権の力の及ばない、国軍と武装組織との戦闘激化という事態にも妨げられた。しかしタンミンウ―の見立てでは、事業を進めるうえで既存の官僚組織は、腐敗や非効率でありまったく不適格であったのに、スーチー政権は人事刷新にはじまる行政改革にも手を付けず、かといって「ミャンマー和平センター」のような機動性のある凖政府機関(タスクホース)を立ち上げることもしなかった。その結果、「2017年末までには、NLD政権は官僚制度のなかに埋没し」てしまい、自分を見失ってしまっていたというのが、タンミンウ―の診断である。
 このことは、経済改革をはじめいろんな分野でもあてはまることであった。大臣だけでなく大臣の下に立つ官僚組織のトップクラスも元高級軍人たちであった。例外はあったであろうが、彼らの多くはNLD政府の仕事をサボタージュしたか、する気はあっても実際のする能力がなかったかだったのだ。その状態を変えるには、トップクラスの人事刷新や公務員の下からの組織された運動の圧力が必要であったが、スーチー政権およびNLD執行部はそのようには動かなかった。その結果、タンミンウ―によれば、教育や医療の向上についてはほとんど関心が払われず、増税や富や土地の再配分も議論されず、格差是正にも手が付けられなかったという。ただし、国民の側は、長く獄に囚われていたNLDには同情的で、せっかちに成果を求めず、かれらが仕事に慣れるまで待つつもりでいたという。そうであろう、もしそうでなければ、2020年11月総選挙でのNLDの地滑り的勝利は、ありえなかった。

<体制移行期の政治的総括―二つのアジェンダ>
 テインセインとアウンサンスーチーの両政権にまたがる少数民族との恒久和平に向けての交渉について、タウンミンウ―は歴史的な総括を行なっている。必ずしもきれいにまとめられているわけではないが、こういう問題点の分析の仕方は、ビルマ人はあまり得意ではないようなので、それだけ貴重なものと思われる。(タンミンウ―は、ビルマ語は感情表現には優れているが、論理的な表現は苦手としている)

――和平交渉を通じて浮き彫りになったのは、近代国家になるための統一理念が欠けていたことである。「ビルマ国家を真に多民族、多文化の国にするヴィジョンが欠落していたこと」 人種・宗教・民族それどれの属性で括られる集団が、自らのアイデンティティに固執すれば、分裂と抗争に発展しかねない。自らを「多民族、多文化国家」の一員と規定する者たちが、いかにして共通のきずなで結ばれ、共存するための手段を見出すか、とタンミンウ―は問いかける。問いかけはするが、しかし直ちに答えてはいない。とはいえ課題は正しく問題設定されれば、もう八割方答えに近づいている。とにかく人種・民族・宗教の多様性は、それが当事者たちのアイデンティティに関わっている限り尊重しなければならないが、国家的な統合を実現するためには、それらとは違った水準で統一理念を持たなければならない。
日本にいては実感しにくいことなので、宗教を例にとって考えてみよう。ビルマで生活して驚くのは、市民社会でも仏教の習慣やしきたりが半ば公的行事としてまかり通っていることである。軍政の下でもともと公共生活は狭められているが、そのせまい空間も仏教が独占し特権的な地位を得ている。国勢調査においても、帰依する宗教名を書かされる。これは個人の信仰心や良心という内面まで公権力が踏み込んでくることを意味する。だから異教徒や無神論者は、日常生活のなかでつねに圧迫やルサンチマンを感じることになる。
 近代初頭のヨーロッパにおける、新旧キリスト教徒同士の血を血で洗う宗教戦争から得た教訓のひとつは、宗教は私事(personal matter)として政治から分離すべしとしたことであった。政教分離することによって、国民は誰であれ一国家における平等にして対等の公民として向き合うことができるようになった。したがってタンミンウ―が示唆するところの「共通のきずなで結ばれ、共存するための手段」とは、まずは政教分離原則ということになろう。しかしこれは言うは易く、行なうは難しである。ビルマ歴代の憲法は、条文上は政教分離を謳ってはいるのである。しかし国民の8割方が熱心な仏教徒である国柄では、近代的原則に反するものであれ習慣化された既得権を取り上げることは、それ自体が大きな紛争の種になる。それを知っていて、タンミンウ―ははっきりしたものの言い方をしないのかもしれない。私が思うには、この厄介でセンシティブな問題を解決する最も適切な手続きこそが民主主義―討議・説得・同意の獲得―であり、ビルマの民主化闘争はこの重い課題を引き受けなければならないのである。
 和平交渉に関して、タンミンウ―の議論にも欠けているのが、「民族自決権」の原則を確立することである。軍事政権は、「民族自決権」を認めることを拒否し、それを求める声を「分離主義者」として断罪の対象とした。これには、多民族国家ロシアにおけるレーニンの民族政策が参考となる。レーニンは、男女両性の平等の婚姻生活のためには「離婚の自由」が不可欠であるが、これはなにも離婚を奨励しているわけではない。これと同様のことが「民族自決権」についてもあてはまる。相手が良き伴侶であれば、添い遂げるであろうが、そうでなければ分離・独立に走るであろう。多数派民族が抑圧的でなければないほど、少数民族の求心力は高まり、一国家の枠内で平和的共存が可能になるであろう。
 しかし民族自決権を認めたとしても、なお解決すべき課題は山ほどある。連邦国家に統合するにあたって、各少数民族の武装組織をどうするのか。少数民族地域は資源の宝庫であるが、中央政府と各地方自治政府との間の取り分をどうするのか。民族自治権・自決権付与の対象となる少数民族の認定基準をどうするのか。一定規模の人口と領地を持ち、実効支配しているとして、その規模をどの程度にするのか等々。どの課題をとっても解決には多くの困難があるであろうが、統一国家を創設するについてはどうしてもやり抜かなければならない事業である。
――和平交渉と並んで、さらに厄介な問題こそロヒンギャ問題であった。ビルマ社会に刻まれた深い亀裂・断層を浮き彫りにしたのが、ロヒンギャ危機であった。多数派仏教徒ビルマ人のロヒンギャへの敵対感情、差別意識を法制化し固定化したものが、1983年のネウインによる新「国籍法」であった。それによれば、135の民族がビルマの「土着民族(タインインダ―)」とされ自動的に公民権が与えられたが、ロヒンギャのように土着民族と認められない民族集団には公民権は認められず不法な移民集団interloperとされ、様々な迫害や人権剥奪を当たり前としてきた。土着民族か否かの基準は、イギリス統治時代以前からビルマの土地に定住しているかどうかにあったが、しかし住民登録制度も整備されておらず、しかも戦争や地域紛争の絶えなかった時代に、書類的に自己証明することは不可能であった。そもそも135あるとされた民族の分類や、土着民族か否かの基準を英国統治時代に定めたのも、よく考えれば極めて恣意的なものであった。独裁者が勝手に基準を決め、これに唯唯諾々としたがう国民という構図である。もちろんその場合、権力者がもとからある多数派の差別感情におもねって、愚民化政策に体よく利用したのである。
 このことがいかに深刻な影響を及ぼしたのか。1988年、ネウイン独裁に反対して決起した国民運動を指導した人間のうちの少なくない者たちが、ネウインの定めた「国籍法」には何の疑問も抱かずに、2010年代のロヒンギャ危機において、仏教徒ビルマ族中心主義、排外主義の虜になってロヒンギャ迫害を当然視するという悲喜劇が、生じたのである。ビルマ民主化運動の正当性を根底からくつがえしかねない恐ろしい出来事であった。
 ことほど左様に、人種・民族・宗教にまつわるアイデンティティの問題は、ビルマ政治の中心的アジェンデであり続けている。タウンミンウ―は、「すべての明るい未来は、ビルマが新たに、より包摂的なアイデンティティを築けるかどうかにかかっている」(太字―筆者)と述べている。しかし一条の光がさし始めたことも事実である。昨年2・1クーデタ後に成立した影の政府「国民統一政府NUG」は、2021年6月、国籍法を改正してロヒンギャに市民権を与える旨を発表した。一片の声明で宿痾であるロヒンギャ差別がすぐになくなるわけではないが、民主化運動そのものが大きな壁を乗り越える意思を明確にしたことの意義は大きい。

 タンミンウ―がもうひとつの未解決の重大問題としてあげたのは、「ビルマ資本主義」の問題である。近代的な国民国家を成立させる要件のひとつが、統一的な国民意識の形成であったが、もう一つの要件が、国内の統一市場の形成であった。ビルマの場合、王朝時代はアジア的専制国家といえても封建制とはいえないであろうから、ここでは便宜的に前近代社会としておこう。ともかくビルマの特徴は、前近代的な割拠状態が今日なお克服されていないことである。それはビルマ族支配地域である「管区」と、少数民族支配地域である「州」との行政区分において反映されている。※

※筆者が1998年、ビルマに来てはじめて国内旅行をしたとき、州境や管区境を越えるときは、必ず厳しい身分証チェックが行われることに驚いた。自由な国内移動は不可だったのである。

 2008年憲法が施行される以前は、各管区は地方に派遣された国軍司令官が全権を握っていた。つまり軍事のみならず、政治・経済・社会の全領域にわたって決裁権を握っていた。いや、それは国軍司令官が政治・経済・社会の諸分野について何ほどかの仕事をしたという意味ではない。地方司令官こそ、ありったけの不正蓄財のうまみを享受できるおいしいポストであったという意味である。筆者には、国軍司令官は東アジアの封建制官僚ともちがって、家産官僚的性格をもつものに思えた。地方の大地に根を下ろして、所領経営に一定の責任を持つ封建領主と異なり、任期があって宮廷から派遣される家産官僚はもっぱら租税をピンハネし、不正蓄財と賄賂に精を出した。ビルマではどこへいっても地方農村ではそれらしい公共投資―農道、かんがい施設、電化施設、倉庫等―はほとんどみられず、略奪・搾取の残忍さのためか貧困化ばかりが目立った。農村ではコメなどの産物を集荷仲介する華僑の住宅以外はボロ屋ばかりで、貧富の差すらほとんど感じられない総貧困状態なのであった。
 2011年にテインセイン政府が船出したとき、政権が負った歴史的課題は、割拠分裂を克服して国内の統一市場をつくりあげ、資本主義を育成することであった。しかしタンミンウ―によれば、ビルマは資本主義がゼロの状態で、再出発するのではなかった。1988年動乱後ビルマ式社会主義が放棄されたのち、1990年代に部分的に市場経済へ移行し、独特な型の資本主義が出来上がっていたのであり、そのことを無視して、例えば外資を導入し、規制緩和して市場経済化を推し進めれば済むという問題ではないとした。
 タンミンウ―は経済学者ではないので、問題点を列挙しているだけで適切に整理し解決の方向性を与えているわけではない。しかしビルマ経済の現状に関し、我が国の官庁エコノミストや民間の開発経済学者は、ビルマ経済の真実の姿を可視化してこなかったのは事実である。国軍やクローニー(政商)が経済を支配するその実態・ゆがみと、そのことのカントリーリスクについて警告を発した専門家は、皆無と言ってよかった。そのなかでタンミンウ―は、少なくとも対決すべき問題点を明らかにしたのである。
では、ビルマ既存の資本主義とはどのようなものか。社会科学的に厳密な概念とはいえないかもしれないが、クローニー(縁故)資本主義とか、略奪資本主義とか、産軍複合資本主義とかと名づけられるであろう資本主義である。
 国家経済の中枢は、国軍関連の二大コングロマリットが押さえており、これとならんで国軍最高幹部たちに個人的に結びつくかたちでクローニー(政商)たちが財閥を形成している。国軍系企業は、利益が見込まれるビジネス―たとえば、石油天然ガス・鉱物資源(レアアース、銅、ニッケル、スズなど)・宝石などの採掘産業、IT産業からはじまって、不動産、観光、アルコール醸造、など―にはもれなく触手を伸ばしている。クローニーも金融、航空事業から運輸・土木建築、宝石、ホテル観光業、不動産、清涼飲料水、アグリビジネス(油ヤシ、サトウキビ、キャッサバなどのプランテーション経営)など、特権的な許認可を与えられて事業規模を拡大させてきた。近年は軍閥とクローニーとの閨閥形成も進んでいる。
 さらに醜悪なのは、中国との国境沿いで展開される麻薬(ヘロイン、覚せい剤、合成麻薬)の製造密輸、チーク材の不法伐採と中国への密輸などの不法ビジネスが、少数民族武装組織に対し国軍との停戦と引き換えにお目こぼしされてきた。ビルマの二大巨大財閥のひとつである「アジア・ワールド」グループAWGは、麻薬王で有名だったロシンハン(羅興漢)が創立したものである。シンガポールにプールした潤沢な資金を元手に、いまやAWGは、公共事業関係の土木建築、コンテナヤード建設・運営、ホテル・コンドミニアム・オフィスビル建設・運営、スーパーマーケット、衣料、アルコール醸造などのコングロマリットを
 

カチン州にあるレアアース鉱山(中国向け) RFA       カチン州フパカント付近のヒスイ鉱山/露天掘りによる荒廃

形成している。AWGにかぎらず麻薬取引の利益を元手に合法企業を立ち上げ、財閥になった例は枚挙に暇がない。日本の暴力団の企業舎弟となりたちは似ているが、もっと悪質である。それは資本形成・資本蓄積にあたって、国家権力=国軍がかんでいるからである。国軍の将軍たちのファミリービジネスも盛んである。最近の例ではミンアウンフランの最高司令官の息子が、あっというまに財閥の仲間入りをした。その手口は、国家予算からの物品発注を将軍のファミリー企業が仲介受注して短期間に財を成すというものである。国家財政への寄生もビルマ資本主義の特徴である。
 ここで改めて問題にしたいのは、ビルマにおける土地問題である。麻薬・宝石と並んで資本蓄積の元ネタとなったのは、土地(農地)である。ビルマの貧困問題の主要な原因は、長年にわたる農民に対する国家の搾取であった。まず土地は社会主義による国家的所有で、農民には土地所有権がなかった。しかも農民には自由な栽培権はなく、もっぱら米作を強制され、政府の決めた買取価格で供出することしか許されなかった。徹底した搾取と不自由のため、農業生産力は頭打ちであった。モンテスキューが「法の精神」で述べたように、農業の生産性は、土地の肥沃度というよりも農民の自由度に依存するとした卓見が、みごとに当てはまる事例であった。のちに弱い所有権や耕作権が認められるようになったが、最近まで公共事業や公共事業という名目で、まともな補償なしで国軍やクローニーによって土地取り上げが横行した。日本の官民一体で進められてきた「ティラワ経済特区」の開発においても、地域住民は「2週間以内に立ち退け。逆らったものは逮捕拘留する」という一片の張り紙で、強制的に立ち退かされそうになった―国際NGOメコン・ウオッチが介入して、日本側に圧力をかけて補償を出させた。
 タンミンウ―によれば、ヤンゴン市を囲むようにして郊外に広がるスラム地域は、地方において強制的に土地を収容され、行き場をなくした農民たちが「不法に」住み着いたものだという。今日問題になっているのは、カチン州における中国向けのバナナ・プランテーションである。ビルマのクローニー企業による場合もあるが、土地を強制収用した後に中国系企業が大挙して押し寄せ、バナナ・プランテーション経営に乗り出す事例が多いという。土地を失った農民たちは、農場で農業労働者として働くしか道はのこされていない。いやそれはまだいい方で、中国人経営者は、地元民を雇わずに他地方から人を連れてきて、もっと低賃金で働かせるという。農場では人体に有害な殺虫剤や防腐剤を多用するので、地元民を雇うと紛争の種にもなりかねないので、そうするのだという。
 同様の例は、カチン州の特産であるヒスイ(世界一の品質)採掘現場でもみられる。土地を失った農民は危険で重労働の採掘作業に耐えるため、ヘロインを打って働いているという。このところ採掘後のズリ山の大規模地滑りで何十人もの人間が死んでいる。
 はじめに戻るが、ビルマ資本主義の資本家たちは、腐敗した国軍官僚とコネを持ち、タンミンウ―によれば、市場経済化の始まった「1990年代初頭から数百万エーカーの土地を私物化した」。ロシアのオルガルヒほどでないにせよ、クローニーたちは新自由主義の規制緩和、民営化の波に乗って,瞬く間に財を築いた。スーチー政権では、強制収容した土地の返還を政治課題にしたが、なかなか進捗しなかった。それはそうであろう。土地改革は、憲法レベルで農民の土地所有権や耕作権を保障する取り組みが必要であり、民主的な構造改革アジェンダのトップクラスに位置している問題なのである。違法ビジネスに寄生するブラック資本主義を変えるには、タンミンウ―言うように、ビルマをいかなる経済体制にするかの明確なビジョンなくしては不可能であるし、またなによりも国民側の団結にもとづく意志と力が不可欠なのである。残念ながらスーチー政権には、そういう観点で国民の組織化に取り組む姿勢は薄弱であった。

<武装闘争をどうみるか>
 テインセイン政権の下で、国際社会を背景にしながら開国と和平交渉に関わっていたタンミンウ―は、現在の国民統一政府NUGの立場と武装闘争をどう見るであろうか。クーデタに対する国際的な制裁や武装闘争に反対して、関与政策にこだわり停戦交渉をうながすであろうか。タンミンウ―個人というより、一般的な問題設定としてこの問題を考えてみよう。
 テインセイン政権成立の前後のビルマの状況を考えてみよう。当時、民主派勢力は組織としてはゼロに近く、国民大衆も完ぺきに抑え込まれ無力化されていた。そのため国際的な制裁のマイナスの影響は、すべて国民に、わけてもセーフティ・ネットをもたない貧困層にしわ寄せされていた。軍事政権には天然ガスの収益ははじめ、ヒスイなどの鉱物資源の採掘・輸出による収益を独り占めしていて、それだけでいくらでも持ちこたえることができた。この構造に風穴を開け、閉塞した状況を変えるには、鎖国政策をやめさせ開国させる必要があった。軍事政権が構想した「2008年憲法」は、国軍の権力基盤を維持するもので不完全なものであったが、民選による文民政府の成立を認める点で、よりましな統治体制といえた。筆者も含め、民主派運動支持者の多くは、「2008年憲法」は手続き的にも、内容的にも欺瞞的な憲法であり、問題にするまでもないとみなしたが、この判断と見通しは正しくなかった。ビルマの全般的状況を内部から変える力やきっかけはどこにも見出せない以上、外部からの働きかけは必要であり、そのための妥協・譲歩は必要だったのだ。
しかし2・1クーデタ後、状況は一変した。青年学生らの街頭闘争、一般市民の鍋たたき抗議運動、公務員労働者の「市民的不服従運動」、ゼネラル・ストライキ全国委員会による数度のゼネスト決行、影の政府の樹立、国民統一政府による「人民防衛戦争宣言」(2021.9.7)等々、国民は抵抗運動のレベルを引き上げていった。この武装抵抗運動の前進という流れは、上から恩恵としての民主化の枠をビルマ国民が突き破り、受動的国民から自力で民主化を勝ち取ろうとする能動的国民へと変化しつつあることを示していた。したがって武装抵抗も、運動が追い詰められた挙句の絶望的な蜂起でしかなかった1988年の時とは違っていた。なによりも圧倒的な国民が、国軍の武力に立ち向かう武装闘争を支持したのだ。
 かくして、2010年前後の状況とは大きく異なるので、タンミンウ―たちの当時の関与政策は当てはまらない。タンミンウ―らがともに仕事をした国連特使のノイリーン・ヘイザー博士が、「ミャンマー軍事政権を無視し、今後の和平プロセスから外すことはできない・・・反体制派は、軍事政権との権力共有を考えるべきである」と発言して総スカンを喰ったのも、時代条件の変化を無視した発言だったからである。
いずれにせよ自力で国民統一政府が立ち上げられ、武装闘争が選択されたことによって、新しい政治的地平が切り拓かれつつあることは明らかであろう。
その中身は、まず第一に、無敵と思われた国軍の軍事的弱さが暴露されたこと。脱走兵を支援する団体「ピープルズ・エンブレイス」が発表した直近の数字によると、昨年2月のクーデタ後10カ月間で兵士2千人以上、警察官6千人が脱走したという。軍事力とは、近代的な装備だけでなく、将兵の士気の高さや国民からの支持の関数であることが明らかになった。現状からでも、歩兵同士の地上戦ではすでに優勢な部分もあり、もしこれに、ウクライナで活躍する携帯用対戦車ミサイルや対航空機ミサイルが加われば、戦況が一変し国軍に亀裂を生じさせる可能性が大きくなる。ただし現在は、戦況がかんばしくない国軍は、より強力な爆撃砲撃を強化して、一般住民に多数の犠牲者を出している―これもウクライナの戦況と酷似している。
 第二に、政治・経済分野に占める国軍の比重が高かっただけに、国軍の力が弱まれば、難攻不落とも思われていた既成の政治経済体制を打破し、近代国家にふさわしい体制構築の希望がでてきたのである。
――議会の軍人枠の撤廃、官僚制度の抜本的改革、累進性の強い租税制度の確立、政府の所得再分配機能を強化し、社会保障制度・教育・保健衛生・医療分野の制度設計をめざす。インフォーマルな権益関係を廃し、透明性のある資本主義の確立を目さす等々。法の支配を経済分野に及ぼし、内外資本の新自由主義的搾取・略奪にブレーキをかけ、経済格差の是正をめざす。
 第三に、国民国家の統一理念をナショナリズム(エスノナショナリズム)に傾斜しない方向で、追求する可能性が出てきた。少数民族やマイノリティを包摂する権威主義的でない政治・文化を国軍との闘いを通じて構築する可能性を追求すべきであろう。抵抗運動の中で、様々な潮流がお互いに切磋琢磨し合うことによって、民主的な連邦国家の理念はより豊かになっていくであろう。

絶対に屈しない。3/13ヤンゴンでの女性デモ     イラワジ

 最後に一言。現下の状況では、停戦交渉や「権力共有論」を話題にすることはナンセンスであろう。しかし戦争で相手を打ちのめし降伏させるなら別であるが、力の拮抗した闘争においてはどこかで妥協点を見出さなければならない。戦闘で強くなければならないのと同様に、政治交渉において巧みで狡猾でなければならない。そうした準備を水面下で始めるのに早すぎるということはない。そうしたことのために、タンミンウ―のような国際社会のセンスと愛国心をもった人物たちの力が必要になる。そういう意味で、僭越な言い方になるが、タンミンウ―の本書をだれよりもビルマ人たちに読んでもらいたいのである。

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●〔関連資料〕以下に紹介する書評は、ビルマの軍政から文民政府への移行期で、改革への希望が膨らみつつあった時期の筆者の文章である。先日軍事政権指導部は、ウクライナ戦争から何を教訓とするかをテーマとする会議を開いたという。それによれば、ビルマ国内での権益が侵されれば、中国の軍事介入もありうるので、民主派勢力による破壊活動を根絶しなければならないとの結論に達した由。巨大な中国と国境を接することの可能性と危険性を両面から見ることの必要性は、だれが政権の当事者であるかにかかわらず、変わりがないということであろう。

タンミンウー著 「ビルマ ハイウェイ」 (白水社)を読む
 本書は、本年度(2013年)出版されたミャンマー関連の書籍のなかで、東南アジアの辺境地域の急速に変貌する姿を描き出しながら、かつきわめて知的な刺激に富んでいるという意味で、もっとも魅力的で卓越した一書であることに疑いありません。しっかりしたアカデミックな歴史学の教養に裏付けられつつ、若き小田実流の「何でも見てやろう」を思わせる、旺盛な好奇心と行動力から生み出される文章は躍動的で、辺境の恐ろしく多様多彩な少数民族―特に中国・雲南省の―の暮らしぶりを活写してやみません。中国経済の躍進にともなう観光業と国境貿易の隆盛が、劇的に人々の暮らし向きを変えていく様を鮮やかに再現して見せてくれています。
 過去の歴史と現在の姿を重ね合わせて立体的に透視する手法は、観察に深みを与えています。また恵まれた文才もあって、ヤンゴンの町のたたずまいや人々の様子を生き生きと描き出す手腕は見事というほかありません。しかしこの書の最大の魅力は、何といってもミャンマーをインドと中国という二つの文明大国が出会う十字路として、その将来的可能性を展望して見せたところです。言い換えれば、奥深いミャンマーの内陸部について、魔境という伝統的な負のイメージからの地政学的なパラダイムの転換を図ってみせたのです。
 本書を読み進むと、国土の中央と周縁との地理的方位識の逆転劇を見ているようで、それは一種ミャンマー版「網野史学」とでも言いたくなる気がします。網野善彦氏は、偏狭な民族主義や排外主義の大本となる「日本は孤立した島国」という観念を解体せんとしました。氏は日本を四方海に囲まれた島国として、しかもいつも太平洋側から大陸をみる固定視角を打破して、日本の歴史が、弥生時代から朝鮮半島やアジア大陸との海を通じての交通によって形成されてきたことを歴史的事実に基づいて明らかにしたのです。その結果、「日本海」は大陸と列島を隔てる外海ではなく、大陸と列島をつなぐ内海だったということになるのです。これこそが大陸と日本が「一衣帯水」の関係であったことの本来的意味だったのです。同じような方位識と価値づけの転換が、中国一ミャンマーインドを結ぶ大陸の内部回廊についても言えるのではないか――筆者の雄大な旅はその仮説を論証する試みなのです。
 我々はアジアを見るときいつも太平洋側から内陸部を見ており、内陸部は発展から取り残された辺境の地であり、麻薬取引や人身売買の行われ、暴力的な紛争の絶えない不安定な地域としてしか見てきませんでした。ところが近年中国は沿海地域と内陸部の経済格差を埋めるべく、新たな経済戦略に着手し始めました。雲南省から南西方面に抜けてベンガル湾に至るルートを経済開発の重点に定め、インフラの整備(鉄道、道路、港湾)や石油・天然ガスパイプラインの建設に猛然とラッシュし始めました。西欧諸国からの制裁によって経済的に行き詰っていたミャンマー軍事政権は、それを奇貨として中国の投資戦略を受け入れ、国境貿易も倍々ゲームで伸ばしてきました。他方インドも、ミャンマーと一番長い国境を接し、反政府勢力が跋扈する北東地域の安全保障ヘの関心と、中国によるミャンマーの衛星国化を危惧する観点から、バランスをとるべくミャンマー軍事政権との政治的経済的結びつきの強化を図ってきています。
 こうした隣接する両大国の接近から、ミャンマーは自国の地政学的な価値に日覚めつつある――これが筆者の目の付けどころでした。 しかしこれには前例がありました。かつて戦争末期に重慶にあった蒋介石・国民党政府に連合国は支援物資を送るべく、レド(ビルマ)公路 (スティルウェイ・ロード)を開通させました。 日本軍のビルマ占領によって断ち切られたビルマ援蒋ルートに代わるものとして、インドのアッサム州レドからミャンマーのミッチーナを経由し、雲南省昆明に至る延々1,736キロの軍用輸送を貫通させたのです。道路が完成するとまもなく世界大戦は終わったので、この軍用路は打ち捨てられましたが、70年近く経ってこの交通路がいま再び脚光を浴びつつあるのです。
 
IDE-JETRO作成図 中緬経済回廊

※筆者は 2003年2月、元菊兵団の慰霊団に付いてミッチーナ、モガウン、カマイン、タナイ というルートで旧「レド公路」を遡った。ほとんど車は通らない二車線の未舗装道路であった。この道路建設を阻止すべく菊兵団が連合軍とぶつかったのだ。中国戦線では精鋭ぶりを誇った菊兵団であるが、しかしここではスティルウェイ中国派遣軍総司令官の下、米式訓練と最新装備を施された国民党軍や、航空機・戦車を駆使する連合軍に完膚なきまでに叩きのめされた。慰霊団の代表を務めた坂口睦氏(学徒将校)は、弾なく食糧なくの状態で戦術とか戦法以前の話、 司令部の命令は戦場へ行って死んで来いという意味でしかなかったと、述懐している。意味のある仕事のために指揮統制するのではなく、表面的なやってる振りで取り繕う軍閥官僚政治のなれの果てである。こういう軍隊組織は、いつでも下部に最大限の犠牲を強いる。

 いま、ミャンマーを中継地としてインドと中国を結ぶ国際的な通商路として、レド公路を復活させようという構想が持ち上がっているそうです。 この道路建設によって二つの国境線周辺に暮らす様々な少数民族地域にも開発の手を伸ばし、とかく犯罪や反政府活動の温床となっている貧困から抜け出させようという考え方です。しかしこの筆者の目配りの良さは、とかく投資や開発を無批判に善とする見方をとらないところに表れています。ミャンマー側の中国への恐れを正しく評価しているのです。中国が進めている新自由主義的な開発方式―天然資源を食いつくし環境を極度に悪化させるだけでなく、貧富の差を拡大させ汚職腐敗を蔓延させる―が、ミャンマーにもらしかねないマイナスを正当に考慮に入れています。マイナスがもし大きければ、新国際公路は投資と通商を促進する平和の道ではなく、抑圧と搾取を輸出するキナ臭い道になりかねないのです。そうだとすればミャンマー側の反中国感情は沸騰し、地政学的な紛争の火種にもなりうるのです。実は新国際公路が平和的な発展の道になるためには、ミャンマー側だけでなく中国の変化が必要なのです。中国のがむしゃらな経済成長主義は、共産党一党独裁の正当性(正統性)確保のためには不可欠の条件です。変化成熟する国民意識を一党独裁という統治体制の枠組みに抑え込むために、経済的な恩恵によって国民的同意を確保し続けなければならないからです。楽観的に過ぎるかもしれませんが、公平な経済的分配の実現を含む民主主義的な改革が、これから紆余曲折はありながらやがて日程にのぼってくるでしょう。中国国民の極端から極端へ振れる振幅の大きさとコンフォーミズム (大勢順応主義)は不安材料ですが、これからの経済成長による中産階級の形成が、そのリスクを減ずる方向に働くかどうかが鍵となるでしょう。四千年に及ぶ中国文明によって築かれてきた文化的規定力、つまりアジア的専制君主体制と対をなす諸個人の権利意識の希薄さという壁をどのように突き破るのか。これはミャンマーのみならず、東南アジア諸国の今後にも大きく影響するでしょう。
ミャンマーの自己の価値への目覚めという点でも、筆者は条件を付けています。ミャンマーが今後どのような発展を遂げようとも、それが国民生活の向上をもたらすかどうかが鍵になるとたびたび述べています。以下、筆者の基本的な発想をよく表していると思われますので、一節丸ごとご紹介しておきます。
「(食糧やエネルギー資源以外の一野上)ビルマが持つさらに重要な財産は、中国とインドの間にあるというその戦略的位置で、まさにこれこそが今後、国全体にとって途方もなく有意義な機会をもたらす可能性がある。しかしその機会を活用して一般市民に恩恵をもたらすには、根本的な転換が必要だ。つまり、数十年続いた武力紛争を終わらせること。支配層が、ビルマの民族的そして文化的な多様性を、単に対処するべき問題として扱うのではなく、国にとって好ましいものとして見ようとすること。数世代にわたってビルマの政策を決定してきた排外主義に代わり、コスモポリタン精神が生まれること。そしておそらくもっとも重要なものとして、国民から信用と信頼を受ける強く効果的な政府ができることである」 まさにミャンマーが直面する国民的政治課題を言い得て妙というしかありません。

 著者は 1960年代に国連事務総長を10年間務めたウータン(ウ・タント)の孫といいます。アメリカで生まれアメリカで高等教育を受けた西欧的知性の持ち主ですが、しかしミャンマーへの愛は人後に落ちないと感じられます。根無し草でないコスモポリタンというのでしょうか、 この種の人々が帰国し要職に就くのは大歓迎です。この国は、半世紀にわたる強制的な鎖国状態と上座部仏教によって国民の精神生活は鋳型にきっちりはめ込まれ、 広い地政学的な観点でものをみたり考えたりする習慣と能力を完全に奪われてきました。それだけにたんなる資本導入や科学技術の移転に終わらない、グラスルーツからフィードバックしつつ、世界的な視野で発想する思考習慣を広めることはきわめて重要だと思います。ミャンマーの近代化が進捗するためには、この種の人士が政府の要所に地位を得る必要があるでしょう。しかし現状ではなかなかそうならないうらみがあります。独裁者ネウイン体制を打倒した88世代ですら排外主義と宗派主義に囚われているところがありますから、両者が知的体質の違いを乗り越えて共同歩調をとるには、まだまだいろいろ困難がありそうです。ただこの違いを乗り越えるべく努力する過程そのものが、ミャンマーに固有であるが、しかし普遍性をもつ国民文化を創造する事業につながるものと信じるものであります。
(付記) イラワジ紙 10/12付に、タンミンウー氏と論説主幹のチョウゾウモウとの対談が載っています。タンミンウー氏は、現在ヤンゴン市内の歴史的建造物の保存のため活動する 「ヤンゴン・ヘリテージ財団」会長として活躍しています。国民としての共通の記憶を形成して、国民としての(批判的な)アイデンディティを確保するためには、過去の歴史的建造物 (宗教施設、官庁施設 等)―特に英国支配下で建てられたコロニアル様式の建築物―を大切に保存していかなければならないと考えているのです。現在そのためのゾーニング・プランを作成したところで、今後都市遺産保護法などの法的整備が必要としています。私は毎週レストランの買い出しに早朝かつての総督府だった建物群の前を通るのですが、アウンサン将軍が暗殺された新古典主義の庁舎は、荒れ果てるに任せ、割れた窓ガラスから鳩が出はいる様に心を痛めたものです。しかしそれから10年もしないうちに、高層ビルやタワーマンション、ショッピングモールや高架道路といった、青空も見えない新自由主義的都市景観がつくられつつあるのを目にして、人間疎外という文字が浮かんできます。ヤンゴン川沿いにある豪壮な佇まいの旧イギリス官庁街と対照的なのは、ダウンタウンの中心である中国人街やインド人街の過密な状態です。この機会に植民地的な切り詰めを改め、伝統と近代建築の調和、公共スペースや緑地といった都市空間をつくり出す必要があります。
 タンミンウ―氏もまたヤンゴンの都市改造を計画するに当たっては、ビジネスのためだけでなく普通の市民のため に自然環境や生活環境を整えるという視点が大切だとしています。 ウォーター・フロントは工場地帯だけを考えるのではなく、市民のための親水エリアにすべきだともいっています。現在日本の民間の開発業者が新しい都市計画に乗り出すようですが、どうも国際ビジネスと富裕層向けの高級都市住宅計画のようです。タンミンウー氏は、都市計画は市民のサポートが得られるかどうかが鍵だとしており、 この点でも民主的な視点を重視するその姿勢に好感が持てます。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1211:220320〕