バルカン半島では20年前のボスニア、そして10年前のコソボを巡って、多くの悲劇が繰り返された。それまでユーゴスラビア連邦の中で民族的・宗教的な多様性をそのまま受け入れ、歴史的な傷を腹に収めて共存共栄の公正な世界を築き上げてきた人々の間で、外部からやってきた邪悪な力が、地下に埋もれていた憎悪と怒りの源泉を掘り起こし計ったようにかきたてていったのだ。NATO西側勢力はイスラムとクロアチアの排外主義者たちを後押しし、サウジアラビアや北アフリカなどの諸国からCIAの手で大勢のイスラム原理主義の「聖戦戦士」たちが送り込まれた。彼らは一致協力してユーゴスラビアを解体し、それぞれの国をNATOとIMFの属領に仕立て上げた。最後にNATO軍によるセルビアへの野蛮な爆撃に果てに「独立」したコソボは、ヘロイン取引マフィアが牛耳るヤクザ国家であり、そこには現在、欧州最大の米軍基地が置かれる。
米英を中心とする西側諸国のマスコミは、このユーゴスラビア解体を通して一貫してセルビアを非難し、根拠のあやふやな「虐殺報道」を流し続け、紛争への西側の介入を正当化し続けた。欧米のいわゆる「自由主義者」「民主主義者」「左翼」たちもマスコミと歩調を合わせるようにセルビアへの悪魔化を推し進め、ボスニアやコソボの「セルビアへの怒り」の代弁者として機能し続けた。彼らは「言論人」というよりは立派な「プロパガンダ戦士」なのだ。
そして今日、リビアに続いてシリアで、明日にはイランで、その歴史が繰り返されようとしている。
http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=30001
From Bosnia to Syria: Is History Repeating Itself? (by Benjamin Schett March 28, 2012)連載『旧ユーゴスラビア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯第1号の日記」』もご参照願いたい。
(2012年4月10日 バルセロナにて 童子丸開)ボスニアからシリアへ:歴史は繰り返されつつあるのか?
ベンジャミン・シェット
グローバルリサーチ、2012年3月28日
進行中のシリア危機を綿密に追っている者なら誰でも、改革への願望が、外国勢力に支援された武装勢力とは何のつながりも持たないシリア国民の大きな部分からやってきつつあることに気付くだろう。これらの(武装)グループは、その多くがワッハビかサラフィのテロリストなのだが、主権を持つ世俗国家の中で一緒に住んでいるスンニ派、シーア派、キリスト教徒、ドゥルーズ派にとって深刻な脅威となっている。
実際に、武装反乱者たちが何とか支配できている場所では、「民族浄化」にも等しい行動が取られていることを、複数の報道が示唆している。しかしながら、それらの行動に責任あると思われる者たちが米国―NATOの利益に沿うやり方で行っている限り、その数々の行いは報道されず、メディアの注意は意図的にそらされている。
(次を見よ:http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=29842)
下に掲げる文章は、Global Research誌に寄せられたベンジャミン・シェットの論文の、私からの和訳(仮訳)である。
バルカン紛争(ユーゴスラビア解体戦争)については、次のちきゅう座様サイト内にある岩田昌征さんによる
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現実には、改革を要求している多くのシリア人立ちはアル・アサド大統領に反対しておらず、改革を実行する彼の試みに実際に信頼を置いている。ところが、明らかな障害物に直面する中でこういた改革を実行するには時間を必要とする。実際に数十年間のバースの支配の後で、現政権内部にあるいくつかの部分は、改革を通してもたらされる大きな変化によってその利権を危険にさらすのではなく自分たちの立場を維持することで既得権益を守っている。
さらに、政府との話し合いを通しての変革を支持する平和的な反対派が国内にいる。そこは、急激な挑発行為がこの国を混乱に陥れる可能性を知っているのだ。2011年10月の「シリア・コメント」とのインタビューで、作家でシリア政府に対する率直で粘り強い反対者であるロウアイ・フセインは、(紛争の)更なる拡大について警告した。
『私は二つの理由でデモが明らかに縮小するだろうと思っています。一つは、当局者による最近の暴力的な抑圧であり、二つ目は、国家当局に反対する「自由シリア軍」のようなグループによる数多くの武装攻撃の拡大です。それが、シリアでより多くの流血の事態が起こると予想する理由です。さらに、もし我々がこの紛争を早急に自分たちの力で収拾するのに失敗したなら、我々は近い将来に内戦の異なった側面をはっきりと目撃することになるだろうと私は恐れます。』
(次を見よ:http://www.joshualandis.com/blog/?p=12507&cp=all)
主流メディアはこの評価を投げ捨てこういった基本的な事実を無視する。メディアの注意は、西側から支援を受けている亡命者「反対派」グループ「シリア国民評議会(Syrian National Council)」(これはイスラム同砲団の尊大な役割のおかげですでに分裂しているが)および「自由シリア軍(Free Syrian Army)」に集中している。加えて、西側メディア好みの情報源の一つが、ロンドンに本拠地を置くシリア人権監視団(the Syrian Observatory for Human Rights)という小さな組織だが、その主張は立証されないにもかかわらず幅広く引用されてきた。
シリアでの反乱勢力が外部からの全面的な支援を期待できる範囲を考えるなら、ボスニアの内戦(1992-1995)勃発とのある種の類似性は強調に値するだろう。次の点を考えてみよ:戦争中にボスニアのイスラム教徒指導者アリジャ・イゼッベゴヴィッチは隠密裏に西側諸国による支援を受けたのだが、イスラム支配の元での独立ボスニア国家の創設を優先させた。ところが彼は、自分の見通しがボスニアの人口の多数派の意思を代表しないという問題を処理しなければならなくなった。1991年の調査によれば、人口の44%が自分をイスラム/ボスニア人だと考えており、32.5%がセルビア人だと、そして17%がクロアチア人だと認識していたのである。
2、3週間後に戦争が勃発した。そして西側諸国は国内中の不安定化という目的達成に一歩近づいた。同じような西側諸国のシリアへの介入という運命がシリアにもたらされるのだろうか?
もちろんのことだが、米国政府がとっている偽善者的なスタンスは大変な皮肉だ。一方で平和を呼びかけながら他方では世界随一の武器供給国なのである。オバマ政権がシリア反乱勢力にその武器を収めるように呼びかけるようなことがあったにしても、公式の声明と実際の場で行われていることには大変な差がある。実際に現在、米国とサウジアラビア(シリア反乱勢力に対する最大の武器供給者)との間に米国製の最新兵器の売買で何十億ドルもの取引が為されているのだ。(次を見よ:http://rt.com/news/saudi-arabia-protests-piety-514/)
このダブルスタンダードは間違いなくボスニアで適用されたものである。そこでは、公式には武器の禁輸措置があったにもかかわらず、CIAは秘密裏に武器を密輸していたのである。(”Wie der Dschihad nach Europa kam: Gotteskrieger und Geheimdienste auf dem Balkan[ジハードはどうやって欧州に来たのか:バルカンの聖戦士と秘密諜報員たち]Jürgen Elsässer, 2008″を見よ。)
セルビアとの戦争を拒否したボスニア・イスラム教徒の一人が前述したフィクレット・アブディッチだが、彼はセルビア人側と和平合意を結びヴェリカ・クラドゥサ地域に位置する「西ボスニア自治郡」を作ることによって、自分独自の安全確保を成し遂げた。英国の外交官デイヴィッド・オゥエンは彼を「率直であり、信頼が置け、サラエボのイスラム教徒とは異なる」と描いた。彼はクロアチア人やセルビア人たちとの交渉と妥協を好み、そのような合意を全て拒みたがるイスラム教徒たちに対して辛らつだった(デイヴィッド・オゥエン「バルカン・オデッセイ」、1995年、S. 82)。1995年8月に、イゼッベゴヴィッチの部隊とクロアチア軍(共に西側同盟者)によって行われた共同の攻撃の下で、アブディッチの平和で自治的な地域は崩壊した。
その全てが、昨年のNATOによるリビアへの攻撃を導く出来事に衝撃的な類似点を持っている。そこでは何万人ものリビア国民が殺された。しかし二つの重要な相違点がある。
1.今回はロシアと中国がより決定的な役割を演じてきた。彼らはシリアへの攻撃を導くかもしれない行動に対して反対を表明している。
2.いわゆるリビアの「反乱」は国の東側にあるベンガジ市にある種の本拠地を置き、底からNATOがトリポリに入る道を爆撃できた。それと比較できる状況はシリアでは現れていない。
このことが、政府軍の激しい反応を呼び起こして国を不安定化しそれで宗派間の争いを強化させるために、シリアの反乱者たちが爆弾攻撃と挑発的な射撃を行うことで暴力を激化させる原因となっているのだろうか。つまり、その情勢を拡大させて西側勢力が介入の必要性を「正当化する」ことができると感じる状態にまでもっていきたいのだろうか?
前国連事務総長コフィ・アナンによって為された平和解決への努力は、もし西側諸国とそのサウジとカタールの同盟者たちが反アサド武装反乱者への一方的な支援を止めるならばチャンスとなりうるようなものに過ぎないだろう。
歴史の教訓: ユーゴスラビア
歴史的に言うとこの状況は、過去に起こった出来事がいかに類似しているのかを考えるなら、我々にとって特別で驚くようなことでもない。特に1990年代の西側諸国による軍事介入の歴史的前例を見せてくれるユーゴスラビアの内戦期間中のことである。あの、特にクロアチア、ボスニアそしてコソボでの悲劇的な紛争は、全領域的な不安定化の実行、軍事侵攻を開始するための世論操作、そして政権挿げ替えと経済的(そして部分的には領土的)植民地化の実行の場として都合よく働いた。(ユーゴスラビア解体に関するマイケル・パレンティの痛烈な弁舌:http://www.youtube.com/watch?v=GEzOgpMWnVs)
ボスニアのセルビア人(この共和国を構成する3大民族の一つ)の全員がユーゴスラビア連邦からの離脱を望まなかったことが極めて明白である一方で、クロアチア人側はボスニア独立についての国民投票実施を支持したのだ。しかしながら、クロアチア人側がそんな(イスラム支配の)国に住みたいという理由でボスニアの独立を好はずもなかったことは、当時のクロアチアの指導者フランジョ・ツジマンとそのボスニア・クロアチア人同盟者たちの政治的な願望をよく知っている人なら誰でも理解できるだろう。ボスニアをユーゴスラビアから分離させることは、クロアチア人が多数派を占める地域をクロアチアの「母なる土地」の中に併合させていく第1歩であると見なされたのである。
これらの事実に直面し、そして1991年にすでにクロアチアで内戦が開始されていたことを知るならば、ボスニアでの破局的な事態を回避する唯一の合理的な道はあらゆる面での真摯な交渉を通してのものだったはずである。実際にそれが当時のボスニア・イスラム教徒たちの大多数の目標だった。フィクレット・アブディッチは親ユーゴスラビアを自認し、1990年にボスニアの選挙で最大の得票をしていた。にもかかわず、彼ではなく、米国高官たちに好まれ支持を受けていたイゼッベゴヴィッチが指導者の地位についた。(たまたまだが、イゼッベゴヴィッチが「イスラム宣言(Islamic Declaration)」と呼ばれる文書の中で「イスラムの信仰と、非イスラムの社会や政治制度との間には、平和も無ければ共存も無い」だろうと述べユーゴスラビア国家の秩序を乱したとして刑に服していたことは、ワシントンにとっては何の問題にもならなかったようだ。)
1992年3月に、ボスニアの平和的な解決がついに訪れたかに見えた。ボスニア3勢力の指導者たち(イスラム側のアリジャ・イゼッベゴヴィッチ、セルビア人のラドヴァン・カラディッチ、そしてクロアチア人のマテ・ボバン)がいわゆるリスボン合意にサインしたのである。それはあらゆる行政レベルについて民族的な権力分かち合いと中央政府の地方コミュニティーへの代表団派遣を提案するものであった。しかしながら、イゼッベゴヴィッチはたった10日後に、駐ユーゴスラビア米国大使であるウォーレン・ズィンマーマンと会った後で、自分の署名を取り下げた。この当時米国がボスニアの即時認知を推し進めていたことが幅広く確認されている。(「ユーゴスラビア―避けられたはずの戦争」の一場面:http://www.youtube.com/watch?v=-Iobb8xMFRc)
ボスニアと同様にシリアでも、歩み寄りを求めるための努力は合意に達するように双方に圧力をかけることを意味するのだろう。しかし、もし片方がすでに西側諸国から十分な支援を受けているのなら、政府との妥協を追及するのにどんな動機があるというのだろうか? シリアでは、反乱者たちはその最初から外国の支援を受けており、現実的な交渉の可能性を自動的に妨害していたのだ。
状況をさらに悪化させることに、主流メディアは激しい調子でシリア介入の口実を作り上げている。多くのシリア政府反対派と一部の西側メディアは、3月17日と18日の週末にダマスカスとアレッポで起こった流血の爆弾テロ攻撃の責任がシリア政府にあると非難する。しかし彼らは、アル・アサド大統領にとって住民多数派の支持を受けているようなこの国の大都市で紛争の拡大の元を作るようなことがなぜ利益になるのかという点について、返答に窮している。
我々がボスニアの例に戻ってみるならば、歴史の中でそういった出来事で誰が有利さを手にしてきたのかを知ることができる。1992年5月27日に、ボスニアの首都サラエボで虐殺事件が起こり、パンを買うために列を作っていた多くの無実の人たちが殺された。この恐ろしい出来事は即座にそして繰り返し世界中に報道された。わずか4日後の5月31日に、厳しい国連の制裁がユーゴスラビア連邦共和国に対して科された。西側の政策決定者たちがセルビアを犯罪の責任者としたことは言うまでもない。多くの専門家たちがその犯人指定に同意せず、論及はとりわけ当時ボスニアの国連軍司令官であったルイス・マッケンジー少将に向けられてしかるべきだった。
「この事件の寸前に通が遮断された。群集が中に入れられ並ばされると、すぐにメディアが姿を現し距離を開けた場所にとどまった。襲撃が起こり、メディアが即刻そのシーンを収めた。殺された人々の大部分は「飼いならされたセルビア人」たちであるといわれている。 (http://www.srpska-mreza.com/Bosnia/Sarajevo/breadline.html)
同様の出来事が1994年と1995年に起こった。(たとえば「ユーゴスラビア―避けられたはずの戦争」を見よ:その全編はhttp://video.google.de/videoplay?docid=5860186121153047571#)
これがついにNATOによるボスニアのセルビア人に対する爆撃の原因となった。それは1995年の8月30日から9月20日まで実行されたのだが、西側諸国によって「人道的介入」という呼び名で正当化された。ダマスカスとアレッポでの襲撃に続いて、同種の「正当化」がシリアに迫ってくるのだろうか?
シリアとバルカン(およびその他の例も)の両方のケースで多くのアラブ諸国からアルカイダと結びついた傭兵たちが関与している点は注目に値する。シリアで彼らは、政府の厳しい取締りの犠牲者であると西側の主要メディアによって告げられた「反対派」をかき集めたのである。
これは驚くべきことでもない。「アルカイダ」ラベルの下で戦う者たちはしばしばワシントンの利益のために尽くしているのだ。ボスニアでは、ムジャヒディーン(イスラム聖戦)戦士たちはボスニアの兵士たちを訓練しセルビアとクロアチアに対して戦ったのだが、アルカイダの指導者たちはボスニアのイスラム軍による軍事行動を承認しなければならなかった。(バルカン調査報告ネットワークを見よ:http://www.bim.ba/en/79/10/4113)
メディアではよく、紛争が「善玉vs悪玉」、平和の守護者vsテロリスト、我々vs彼らの形で描かれる。このボスニアの例が示すように、このようなお定まりのコンセプトを使っていては十分な話が正確に伝わることは不可能である。全てのイスラム教徒がセルビア人に自動的に反対したのではなく、イゼッベゴヴィッチを代表者として持つことに全員が興味を示したわけではなかったことははっきりしている。
そしてシリアでは、民主主義を要求する者たち全員がアル・アサドの敵というのではないことは明らかである。しかしながら、善悪2極の「灰色地帯」を詳しく調べることは介入「正当化」の大安売りを疑問の渦に投げ込み、主流メディアとそれが仕える西側利害関係者たちの関心の中に、そんな疑いの表明は明らかに存在しない。
誤解を避けるために言うが、ボスニアの内戦では全ての側の人々が非常に苦しんだ。しかしシリアでは、誰が社会的な混乱と暴力の増大をひき起こすことに関心を持っているのかをはっきりさせることが重要だ。
ユーゴスラビア内戦の全体を通して分離主義勢力は、国全体を不安定化させ破壊することに執着した西側のアジェンダに奉仕した。ユーゴスラビアには自由な教育と収入の収入の公正な配分があった。そこは非同盟運動の中で主要な働きをすることで独立を維持した。その結果、ユーゴスラビアによるこの歴史的なスタンスは、IMFの新自由主義的な理不尽な命令に従うことを拒否する他の非同盟運動の国々とって、一つの好例として役立ったのだ。
バルカンのコンテキストの中で、セルビア国民は西側からの非難の矢面に立ち、ユーゴスラビアの解体に強く反対したために激しく中傷された。セルビアはユーゴスラビア最大の国で、第2次世界大戦中は非常に苦しめられた。そのときにクロアチアのファシストであるウスターシャ運動が組織的にクロアチアとボスニアにいるセルビア人たちを虐殺したのだ。大部分のセルビア人にとって、共に過激主義者に率いられるクロアチアとボスニアの独立国家の中で住むという考えを耐え難いものにしたのはそのトラウマに負うところが大きかった。ユーゴスラビア戦争におけるセルビア人の役割の現実的なイメージは、当時のユーゴ大統領スロボダン・ミロセビッチがコソボ戦争の間になされたインタビューの中で与えられた。
「我々は天使ではない。しかし我々はあなた方が描き出す悪魔でもない。我々の正規軍は高度に訓練されている。武装した非正規軍は別の話だ。悪いことどもが起こった。ベトナム戦争の間に両方の側であったのと同じようにだ。その点についてはどんな戦争でもそうだ。」(http://emperors-clothes.com/articles/jared/MiloInt.htmlを見よ)
あらゆる事実を考慮するなら、シリア軍とアル・アサド側で戦う他のグループについて同じことが容易に言えるかもしれない。しかしシリアで現在起こっている出来事に対してどちらともつかない態度を維持することは、多くのリベラル―左翼の主要なサークルの中でそうなりがちなのだが、西側勢力の新植民地主義的で帝国主義的なアジェンダとその偽人道主義的な正当化に屈服することを意味している。ユーゴスラビアでもシリアでも、「分割せよ、そして支配せよ」という古代ローマのコンセプトに従うために彼らが民族的かつ/あるいは宗教的な憎しみをさかんにかきたて理性的な声を無視してきた事実にもかかわらず、こうなのだ。
著者からの注釈: 最新の報道によれば、シリア政府はコフィ・アナンの6項目の和平計画を受け入れた。4月1日に、「シリアの友人たち」はイスタンブールで会合を行う予定だが、そのほとんどがバシャール・アル・アサド大統領に対決する強力な行動を好んでいるアラブと西側諸国の寄せ集めである。時の経過と共に、これらの進展がどのようにシリア危機とこの和平計画の効果の可能性に衝撃を与えるのかが明らかになり、多くの外部のプレーヤーたちがその背後で活動していることが知られることだろう。
【翻訳ここまで】
※ 「著者からの注釈」に対する訳者からの注釈
シリア政府は4月8日に、反政府勢力による文書化された停戦の保証が無い限り軍を引くことはないと表明した。
http://rt.com/news/syria-ceasefire-withdrawal-threat-529/
独立国を防衛する軍としては当然のことだろう。しかし反政府勢力側は停戦の保証の文書化を拒否した。つまり、反政府勢力側は最初から停戦などする気が無いのだ。
シリア軍は4月10日現在も攻撃を続けているが、軍としては、相手が戦闘をやめない限り自ら手を引くことはありえない。そしてトルコではNATOと湾岸諸国の「シリアの友人たち」がアサド政権を非難し続ける。その非難だけをマスコミが流し続け、左翼と反戦活動家たちはそ知らぬ顔をし続ける。一方で、バーレーンでの平和的な反政府運動に対する野蛮な弾圧が大きく報道されることも、左翼や反戦活動家、人権活動家たちの関心を引くことは無い。
これが欧州の現状だ。日本ではどうだろうか?
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1907:120412〕