「マルクス経済学者有沢広巳の魅力」──周回遅れの読書報告(その82)

 有沢広巳のことを知っている人間は、みなもうかなりの年配であろう。有沢には『学問と思想と人と』という、自伝のような実にいい著作があるが、こんな本を知っている人間ももう少なくなっているかもしれない。
 有沢の功績は大きく分けて二つある。一つは、アメリカとの戦争が始まる直前に、有沢がまた治安維持法違反で裁判を受けている最中に、軍部(陸軍)の依頼で、アメリカとの戦争になった場合の推移を予測し、日本の敗北必至というレポートをまとめたこと。このレポートは最後は軍部に握りつぶされたが、戦争の現実は有沢の予測通りになった。もう一つは、戦後の経済復興計画を立てるにあたって、世に言う傾斜生産方式を提唱して、経済政策の基本的方向を指し示したこと。この傾斜生産方式が戦後復興にとっていかに効果的だったかは、歴史が証明している。
 有沢は早くからマルクス経済学者として右翼や軍部、特高に狙われていた。そして、1937(昭和12)年に治安維持法違反の嫌疑で逮捕された(一審有罪、二審無罪。無罪後も東大は敗戦まで休職)。有沢に調査や政策立案を委嘱した軍部や政府の思惑はよくわからないところがあるが、彼らの目から見ても、有沢は傑出した能力の持ち主だったのであろう。一方、マルクス経済学者だった有沢が軍部や保守政治家の要請に応えた理由にも理解しがたいものがある。有沢は「祖国日本を救う」という思いで、軍部や政府の思惑を超えて、自分の信念にかけてレポートをまとめたのかもしれない。
 このことから学ぶべきこと、あるいは調べるべきことが、いくつかある。第一は、治安維持法違反で逮捕された「危険な左翼」でありながら、なお軍部の調査依頼を受けるほどの高い評価を受ける成果を有沢があげた背景である。おそらくは有沢の「現状分析」が極めて正確なものだったのであろう。有沢がマルクス経済学の立場から分析したからというべきか、それにもかかわらずというべきかは、判断に苦しむ。
 ただ、有沢が東大経済学部の統計学の講座を担当していたことは、有沢に経済の現実に対する緊張感を持たせることになったのは間違いなかろう。マルクスの資本論やレーニンの帝国主義論の訓古学的解釈ではどうにもならない現実が有沢の研究対象としてあった。もとより有沢はマルクス経済学の立場から再生産構造を重視していたはずだ。その再生産構造が現実にどのような状況に置かれているのかを現実の(具体的)統計的数値の分析を通じて把握したのであろう。これが彼の分析を地に足のついたものにした。傾斜生産方式もその延長線上に生まれたものといえる。
 だが有沢のあとで、国の経済政策に重要な影響を与えたマルクス経済学者は一人もいない。その理由を断定的に言うことはできないが、戦後「復権した」マルクス経済学者は、官許経済学としてのマルクス経済学の権威(軍部に抗し、大学を追われるという犠牲に耐えたという権威)に胡座をかき、経済の現状の具体的分析を行うという経済学の究極の課題から目をそらし、マルクス解釈学に堕していったことが一つの原因になっていることは否めない。戦後の「現状分析」についてのマルクス経済学の成果ははっきりいってほとんどないのだ。それどころか、いまだに「マスクスならこう考える」というマルクスによる権威付けがまかり通っているのである。
 有沢は一人の人間としても魅力的だったらしいが、彼の残した成果は、明治の末年に生まれ、昭和の末年に世を去ったこのマルクス経済学者に不思議な魅力を感じさせる。
               沢広巳『学問と思想と人と』(毎日新聞社、1957)

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