「交響曲ヒロシマ」の運命は -佐村河内氏代作事件を考える-

2014年2月6日に作曲家新垣隆氏の記者会見をTVで観た。
佐村河内守氏のゴーストライターを18年間つとめてきたことの告白と謝罪の会見である。メディア報道から次の三つのことを考えた。
一つ NHKの取材能力について
二つ 新垣作品をどう評価するのか
三つ 代作一般論からみた本件の位置づけ
である。現時点では新垣発言が正しいと前提して論ずる。

13年3月に放映されたNHKのドキュメンタリーに私も感動した。
人は騙されていても「感動」するのである。佐村河内守氏の芝居にNHKが完全に騙されていた。そんなことが何故起こったのか。NHKは「我々は何故騙されたのか」という検証番組を「スペシャル」で放送する責任がある。
最近の籾井会長発言、百田・長谷川両経営委員の発言は許せない暴論である。一方で中北徹東洋大教授の脱原発論を封殺した。いま、NHKは「戦後レジーム」を脱して大本営発表時代に回帰しつつある。このことを放任する視聴者であってはならない。真のNHK批判が今ほど大事な時はない。最後の戦いは受信料の不払戦争になるであろう。

「交響曲第一番ヒロシマ」に「感動」した聴衆、CD購買者は多い。
作曲家三枝成彰氏はこの作品に感激したことを2009年にブログで述べており「芥川作曲賞」の候補作品に強く推したが受け入れられなかったという。この作品を葬るのでなく新垣作品として改めて評価し直す必要はないのであろうか。
音楽批評の在り方を業界で論議することが求められると思う。
一体、我々は、様々な文化、芸術を自分の判断基準で鑑賞しているであろうか。現代社会の特色は価値観の多様化だというが、私は逆に現代社会ほど価値観が同質化している社会はないと思っている。現代メディアの伝える情報は、基本的に体制イデオロギーと商品広告の巨大な集積である。広告代理店は、サンドイッチマンやチンドン屋―職業に貴賎なし―が巨大化し洗練された企業組織にすぎない。併せて政治宣伝の専門家でもあろう。
「消費者は王様」ではない。我々は市場という競技場に引き出されたライオンのようなものである。

代作は多くの芸術ジャンルで公然の秘密である。
ある文豪の作品は実は誰某の代作であったと新聞は新発見として伝える。ノンフィクションの傑作『日本の一番長い日』が大宅壮一の作品ではなく半藤一利の代作であったことはよく知られている。しかも一種の美談とさえされているのである。タレントやスポーツ選手の著作がほとんどゴーストライター作品であることを読者は知っている。

『東京新聞』(2014年2月7日)の「こちら特報部」によれば、オーギュスト・ロダンの作品には、女弟子で恋人のカミーユ・クローデルとの共同作品があった。「名前は言えないけれど、文化勲章をもらった作家の秘書が、作家の死後に本当は自分が書いていたと告白したのを聞いたこともある」という「テーミス」社長伊藤寿男氏の証言もある。
この歴史的文脈のなかで今回の事象は検証される必要がある。メディアによる壮大な「いじめ」の実践が行われている。これが私の実感である。

感情的な反発、問題の矮小化、異なる意見の無視、安倍政権の特色にも通底する。代作スキャンダルという社会面的事件にも時代精神が忍び寄っていると私は感じている。(2014年2月7日)

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion4744:140209〕