6月1日、昼は晴れそうなので、夫に誘われ、武者小路実篤(1885~1976)の「仙川の家」と実篤公園に出かけた。京王線の仙川駅下車(センガワ、と読むらしい)。10分ほど歩くが、途中の角角に、公園まで「あと320m」といった小さな標識があるのは、初めての訪問者にはありがたい。左手の桐朋学園の裏門をすぎると正面の木立が公園の入り口だ。旧実篤邸には「今日は公開中です」との声に玄関を上がる。「壁は土壁などで手を触れないでください。内部の写真撮影は禁止」と念を押される。平成の終わり2018年に「国登録有形文化財」になったそうだ。1955年、斜面を利用して、サンルームが張り出しているしゃれた造りながら和風でもある。編集者や訪問客でにぎわっただろう応接間も客間もゆったりとしていた。書斎兼アトリエはたたみ敷、汚れた絨毯やマット類が敷かれているのも当時のままらしい。約1000坪余りの土地を求めたという。1976年90歳で亡くなるまで、安子夫人と暮らした家だった。

「仙川の家」は、土・日・祝日のみ公開であったので、運がよかったのかも。
案内の人から、この先の地下道をぬけると実篤さんの銅像があるので、進んでもらうと「ヒカリモ」がみられると、勧められた。菖蒲田にかかる木の橋を進むと、崖の岩の洞の水たまりが、黄色に光っている。「ヒカリモ」といい、関東でも珍しいものだそうだ。


二つ池、湧き水も小川もある庭園にいささか驚きつつ、現在の「実篤公園」は1500坪に拡張されている。
さらに大きな池に沿って進むと、また階段の下には地下通路があって、武者小路実篤記念館へと続く。今週いっぱいは「実篤の肖像」という特別展が開催中で、岸田劉生、堅山南風ら交流のあった画家たちの肖像画や多くの自画像の展示が興味深い。常設の詳しい年譜もじっくり見たいところだったが、膨大すぎた。なお、多くの書画、「仲よき事は美くしき哉」はじめ、いわゆる、野菜や花などの絵に人生訓めいた一言が添えられた色紙もさまざまながら、つくづく幸せな人だったんだな、の思いが強い。

なお、「新しい村」への直接的なかかわりは、わりと短かったことも知った。実篤は「青踏」の社員でもあった竹尾房子と恋愛の末、結婚し1918年開村と同時に宮崎に移り住む。農作業をしながら文筆活動するという生活の中で、房子の奔放な男女関係に悩み、1922年離婚。実篤の身の回りの世話をしていた入村まもない飯河安子と再婚、入籍している。1925年には村を離れ、外から支援を続けていた。離婚、再婚の経緯と戦時下における実篤の活動については、展示では不明な点が多かった。
『写真で見る実篤とその時代Ⅱ昭和二~二〇年』(武者小路実篤記念館発行 2001年10月)には以下のような記述がある。
「昭和六年の満州事変、…一四年には出版への取り締まりが強化されるなど社会的な状況は厳しさを増していった。こうした流れは実篤にも及び、昭和一四年四月、大正四年に発表した反戦的な戯曲「その妹」が、検閲により一部削除処分を受けた。」(14頁)
「昭和一八年頃までの実篤作品は、戦意高揚につながる作品がある一方、直接には関係ない美術に関するもの、随筆、詩、評論などを集めた雑感や戯曲などが順調に発表、出版されている。当時の実篤の社会的な立場と戦時色を反映してはいても、どこかのんきで明るく元気づけられる実篤の作品が、世の中でもとめられていた一面もうかがわせる。」(26頁)
また、『武者小路実篤記念館(図録)』(調布市武者小路実篤記念館発行 1994年5月)巻末の「年譜」によれば、1941年は空欄で、「1942年5月 日本文学報国会・劇文学部会長就任(5月26日、同会発足と同時に)、11月 東京で開かれた大東亜文学者大会開会式で講演。1943年4月 中国南京で開かれた日中文化協会主催全国文化代表者大会に参加。1944年12月 家族とともに伊豆大仁へ疎開。」とある。

この間、1941年12月8日の開戦直後の12月24日大政翼賛会文化部主催の文学者愛国者大会が開かれている。開会のあと「国民儀礼」(宮城遥拝、君が代斉唱、戦没将兵への黙祷、証書奉読(高浜虚子))に続き、菊池寛が座長で、多くの文学者たちとともに実篤も登壇、演説している。高村光太郎は「彼等を撃つ」を、尾崎喜八は「此の糧」を朗読している(櫻本富雄『日本文学報国会』青木書店 1995年6月、59~60頁)。ちなみに、日本文学報国会の小説部会会長が徳田秋聲、詩部会長高村光太郎、短歌部会長佐佐木信綱であった。1942年8月2日~12日には、文芸報告運動講演会を全国展開、主要都市80カ所で開催、実篤も講師として参加している。同年11月3日から開かれた大東亜文学者大会では、二日目の11月4日の会議の実篤に触れて、『大阪毎日新聞』(1942年11月5日)は、次のように伝えているという。
「日本文学者を代表して武者小路実篤氏は大東亜戦争はこれまでややもすれば晦冥に堕しがちであった文学者の進路をここに宣揚した。われら行くべき道はわが皇軍の武力によって戦いとられた戦果に対して文学芸術の側からの協力以外にないと力強く主張する」(櫻本前掲書 201頁)
記念館では、「この道」と題する、こんな色紙も売っていた。やはり、複雑な思いがしたものである。

戦時下や武者小路房子のことをもっと知りたいと思い検索するとつぎのような文献も知り、ぜひ読まねばと思っている。
阪田寛夫『武者小路房子の場合』 新潮社 1991年9月
松本和也『太平洋開戦前後の文学場:思想戦/社会性/大東亜共栄圏』神奈川大学出版会 2020年5月
初出:「内野光子のブログ」2025.6.3より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/06/post-b7462c.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14254:250604〕