「人間」イエス・キリストとは?-ルナン著『イエス伝』を読む(その2)

大急ぎで「その2)を書かなければならない羽目になったのは、前回の拙論の中での私の間違いをお詫びして訂正させていただきたいからだ。それは映画「ダ・ヴィンチ・コード」について書いた次の個所です。

「しかし、その後ダ・ヴィンチの名画「最後の晩餐」をじっくり眺めながら感じたことは、なるほど、イエスの右隣で、イエスにもたれかかっているヨハネは、確かに女性的に若く美しい容姿をしている」

何を勘違いしていたのか、今回この名画を再度チェックし直したら、重大なミスに気が付いた。それはヨハネはイエスの左隣で、ペテロにもたれかかっていて、その前にユダが描かれていたということだ。ヨハネとペテロは、イエスの12人の使徒の内でも、絶えずイエスと行動を共にした特別に重要な使徒として知られている。私が記憶していた限りでは、確かにヨハネはイエスにもたれかかり、ユダは絵の右下に描かれていたように思うのだが…?記憶違いだったのだろうか、ともかくもこの部分は訂正します。

序に触れると、ヨハネ=聖母マリア説まであるといわれる。幾人かの有名な画家によってそれらしき絵画が描かれているようだが、今回は取り上げない。

3. 「ユダの裏切り」について、またイエスとその弟子の関係

ユダがイエスを売り渡したという事実は、もちろんルナンも認めている。しかし、「なぜなのか?」という疑問は残り続ける。これには以前からいろいろな解釈があったようだ。また、小説などでも、様々に色づけされてきていることはご承知の通りだ。面白い脚色で印象に残っているのは、ユダはイエスと内々に示し合わせて、「裏切り」という挙動に出たというという内容のものがあった(誰の小説だったかは思い出せないが)。

もちろん、一般的にはユダの性格が悪魔的で、金銭感覚がせこかったが故の「裏切り」というのが通り相場であろう。しかし、それではなぜ、こういういかがわしい人物をイエスは自分の弟子(使徒)としたのであろうか、イエスには人を見る目がなかったのか?

この点に関してルナンは次のように解釈している。

「イエスは…神学者でもなく、哲学者でもなかった。イエスの弟子となるには、書式への署名も、信仰の誓願もいらなかった。ただ一つのこと、彼を離れず、彼を愛するということだけが必要であった。…イエスは教理も体系も持たなかった。彼は、不動の個人的決意を持っていた、この決意は、その強さの点で、他の現れたるどんな意思をも凌駕し、今なお、人類の運命を導いている」。

つまり「来る者は拒まず、去る者は追わず」という考え方であり、セクト主義とは一切無縁な、何ともおおらかな感覚での集団だった(特に初期のイエスの集団は)と言える。実際に、ルナンの考察からは、初期のイエスは「洗礼」も「祈り(祈祷)」も否定していたという。そのような外的な形式によって神と交わることはできない、あくまで内的な「敬神」こそが大事だというのが、もともとのイエスの教えだったという。

それではバプテスマのヨハネによるイエスへの洗礼は何なのかという反論がでるだろう。

なるほどイエスはヨハネのもとを訪れ、彼についていろいろ学び、修行し、洗礼を受けたことは事実である。しかし、ヨハネのもとから旅立ち(ヨハネへの弾圧を避けて)、独自の宗教への道を歩み始めたときから、彼は「洗礼」や「祈祷」の無意味さを語り始めたという。

「…結局イエスに対するヨハネの影響は、イエスにとって有益だったよりもむしろ憂うべきものであった。…ヨハネの傍らでのイエスの滞在は、この洗礼者の活動によってよりは、イエス自身の思想の自然的な歩みによって、『天国』に関するイエスの思想を非常に熟せしめたように思われる」。

「福音書中にイエスの勧めた宗教的儀式を探すことは徒労であろう。洗礼は彼に取り、二次的な重要さしか持たないし、また祈りについては、彼はそれが心からせられるべきだという以外に、何も規則を定めていない」。

しかし、今現にキリスト教徒は、洗礼も祈りもやっているではないか、これはどう説明するのか?このいきさつについては後程触れたい。

ともかくも、ここでは再びユダと他の使徒たちの話に戻る。

「イエスは永続すべき教会の基礎を拵えていた、ということである。彼が弟子の中から、特に「使徒」あるいは「12人」と呼ばれている人々を自ら選んだことは、ほとんど疑う余地はない。何故なら、彼の死後、彼らは一団体を拵え、欠員ができればこれを選挙で満たしているからである。ペテロ(シモン)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、イスカリオテのユダ…われわれに伝わる「12人」の顔ぶれには、多くの不確実と矛盾とが見える。そこにいる人々のうち2,3のものは、全然人に知られずじまいである」。

「ともかく『12人』は、特に力を持った弟子となり、ペテロがこの仲間の頭になり、イエスはこの仲間に、彼のわざを宣べ伝えることを託した。きちんと組織された祭司団のような匂いは少しもなかった」。

知られているように、その後、ユダは破門追放されている。

それでは、破門追放されたユダはどうなったのであろうか?これにもいくつかの説が伝わっているようだ。諸国を放浪したという話、また、イエスを売って得たいくばくかの銀貨で、土地を買い、平穏な生活を送ったという、あまりロマンを感じさせないが、彼のしたたかさを物語る話等々。

しかし、ルナンが採用していると思える説では、さすがにイエスの捕縛、磔刑を招いた罪の重さに耐えかねて、ユダは自殺したというものである。

このような緩やかな、人間的なグループにあって、それではなぜ、ユダはイエスを売ろうと決意したのであろうか?「自死」するということは、彼にも良心はあり、「性悪な人間」と言って片づけられる筋のものではない。

実はユダは、この小グループの会計係を担当している。ここに重要なヒントがある。ルナンは、例えば次のように記述している。

「イエスは、例の通り、ライ病人シモンの家に泊まった。ここでは多くの人々が共に食事をした。この人々がやってきたのは、新しい予言者を見ようとしてであった。また数日前から大変噂されていたラザロを見ようとしてであったという。食卓についていたライ病人シモンは、おそらくすでに、多くの人々の眼には、、いわゆるよみがえった男に見え、注意をひいていた。マルタはいつものように手伝った。彼女は敬意を二倍も見せて、人々の冷ややかさに打ち勝ち、迎えたこの客人の高い品位を際立たせようと努めたように思われる。マリアは、饗宴に、一層盛んな歓待の色を付けるため香油の壷をもって、食事半ばに入ってきて、香油をイエスの足にそそいだ。次いで彼女は、優れたる異国人をもてなすために使った器物を壊すという古い習慣に倣い、油壷を壊した。最後に、彼女は、その崇敬のしるしを、それまで知られていなかった過度の行為にまで推し進め、跪いて、長い髪の毛で、師の足をぬぐうた。家は香油のよい香りに満ち、皆たいそう喜んだ、が、貪欲なイスカリオテのユダはそうでなかった。この信徒団の倹約な習慣からすると、これはまことに浪費であった。貪欲な会計係は、この油がどれだけに売れ、貧しき者の懐にいくら利益となるかをすぎに見積もった。この愛に乏しい感情がイエスは不満であった。何かが自分より上に置かれるように思った」。

もう一つ、少々長いが興味深い個所を引用紹介したい。

「祭司の役人らは、…弟子たちの心を探ってみた。彼らはその求るものを、イスカリオテのユダのうちに見つけた。この不幸な男は、説明しがたい動機から、自分の師を裏切り、必要な一切の指示を与え、(次のような過度の非道はほとんど信じられないけれど)、逮捕を行うべき一隊の案内をさえ引き受けた。この男の愚かさ、あるいは邪悪さは、キリスト教の伝承中に嫌悪すべき追想を残しているので、ここでも話が大変大げさになったものに違いない。ユダはそれまで、他の弟子たちと別に変ったところのない一人の弟子であり、使途の名をさえ持っていたし、奇跡をおこない、悪鬼を払った。際立つ色彩のみを好む伝説は、信徒中に11人の聖者と1人の悪人とをしか認めることを許さなかった。現実にそれほど絶対的種別のあるわけはない。共観福音書は、問題の罪の動機を貪欲に置いているが、これは罪の説明に十分ではない。会計を与かっており、主人が亡くなればどれだけ損となるかを承知している男が、その役得と、実にわずかの金額とを交換したなどということは妙なことである。ユダはベタニアの食事の時叱られて自尊心を傷つけられたと言おうか。これもまた十分ではない。第四福音書は、ユダをはじめから盗人、疑い深い人間にしようとしているが、これはどうも本当らしくない。われわれはむしろ、何か嫉妬の感情、内輪もめのようなものを信じたい。ヨハネが記したという福音書中で、ユダは特に嫌われており、この仮定を裏書きしている。他のものに比べて清くない心を持ったユダは、知らず知らず、その役目について狭い考えを抱いていったのであろう。活動的職務にごく普通な一つの悪習慣のために、彼は、会計の利害を、他でもないその会計の目指す事業よりも、大切なこととするに至ったのであろう。管理者が使徒を殺したのであろう。ベタニアで漏らしたユダの不平をみると、ユダは主人を、その精神的家族にとってあまり金のかかりすぎる人だ、とたびたび感じたように、想像せられる。かかるケチな節約は、この小集団内で、他にもまずいことをいろいろ引き起こしてきたものに違いない。だから我々はイスカリオテのユダが師の逮捕に力を添えたことは否定しないけれど、ユダのかけられている呪いには、何か不当なものがあると思う。おそらく彼の行為は邪悪であったというよりむしろ拙劣であった。人間の道徳的意識というものは、活発で正しい、けれども不安定で、矛盾するものだ。この意識は刹那の誘惑に抵抗することができない。…銀貨幾枚かに対する愚かな欲望が、哀れなユダの頭を狂わせたとしても、ユダが全然、道徳観を失ったとは思われない。なぜならユダは自分の過ちの結果を見て後悔し、自殺したといわれている」。

上にみられるように、ルナンは、結局のところ会計担当のユダの「経理面における葛藤」の中にその根拠を見ているようである。しかし同時にこうも書いている点を見逃すべきではない。「われわれはむしろ、何か嫉妬の感情、内輪もめのようなものを信じたい。」

私自身の見解はこの点にある。これは後で述べるつもりではあるが、イエス自身およびその教え、あるいは団体組織の変貌と、それに対するユダの反発(批判)とが密接に関係しているのではないかと考えている。ユダは、他の弟子たちに比べて、はるかに頭脳明晰で状況を見ていたのではなかったろうか、というのが私の見方である。ユダの悲劇は、イエスに代わるだけの力が備わっていなかった点にあったように思う。   (つづく)

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