「令和」の時代が始まった。が、安倍首相が主導して鳴り物入りで決まった新「元号」に違和感を覚えるとの声は少なくない。まず、「令」と聴けば真っ先に「命令」と受け止めるのが大方だろう。逆に「令」を見て、「よい」と講釈するのは国文学者くらいではないか。
漢和辞典の「字解」を見よう。そこで解き明かされる「令」の字の成り立ちは生々しい。人々が集まり、列を成すさまから、「令」の原義は「君命を受けた臣が号令を発して人を集め使う」意で、転じて「命令」の意として使う――とある。
では、「命令」がなぜ、「よい」という意味に転じるのか。さまざまな解説を読むと、号令で集まった臣民がきれいに並んで命令を聴く、そういう情景が美しいからだ――という。
筆者は、それらの字義や解説から、取材で出会ったいくつかの「風景」が呼び起こされて、背筋が寒くなった。いずれも、「平成」時代にもついに清算されなかった植民地支配下の朝鮮人に起きたことである。
筆者にとって、生身の「天皇」に出会う契機は在韓被爆者問題だった。
それは釜山の被爆者の家族を訪問した時だ。姉の被爆者が血相を変えて出てきて私をにらみつけ、「私ら一番憎いのは天皇だよ」と吐き出すようにいった。一家を戦争に駆り立て、被爆でどん底に突き落とした汚れた手の主を、決して忘れないというのだ。
戦後民主教育で「天皇は象徴」と教えられた身にとって、その瞬間、植民地支配と加害の指導者としての天皇の実体に初めて気づかされ、頭を殴られた気がした。
学徒兵出陣の駅頭で
1945年の日本敗戦・朝鮮解放の少し前から、朝鮮では「問うなかれ甲子生」という言葉が流行りだした。それを筆者に教えてくれたのは広島の被爆者、郭貴勲(クァク・クィフン)さんだ。甲子(カプチャ)の1924年生まれだから、いま95歳。長く韓国原爆被害者協会の会長を務め、「被爆者はどこにいても被爆者」だと、日本人と同等の被爆者援護法の適用を訴えて大阪高裁で勝訴。韓国人被爆者の援護獲得運動を引っ張ってきた。
なぜ甲子生まれを「問うな」というのか。甲子園球場ができたその年に生まれた朝鮮青年には太平洋戦争の末期、20歳で戦場にかり出される朝鮮人徴兵令が施行された。「自分の民族のためでなく、異民族の傭兵として犬死した例は歴史上でもまれだ。だから、甲子生まれほど運の悪い者はいない」と同情を集めたと、郭さんはいう。
真っ先に入営することになった同級生を全州駅に送ったときのことだ。駅前に集まった学生はふつう整然と並び、軍歌で鼓舞し万歳三唱をするのだが、その日、出征する学生が挨拶に立ったとき、同級生たちが一斉に彼のそばに駆け寄り、怒ったように「万歳、万歳」と叫んだ。警官が飛んできたが、学生の数が多いため手がつけられない状況になった。それ以後、朝鮮全土で出征学生の見送りは行われなくなったという。
徴兵「令」におとなしくは従わない朝鮮人学徒たち。しかし、郭さんが在学した全州師範学校の同窓会名簿を見ても、一番から十番までの学生のうち、郭さんら2人以外はみな死亡したという。
被爆徴用工 青春の歌は軍歌
筆者が在韓被爆者問題の取材を始めて間もない1970年ごろ、ソウルで被爆者の方々と昼食をとっていた。だれかが「歓迎に日本の歌を」といって立ち上がり、歌い始めた。懐メロかなと思っていた筆者は愕然とした。それは軍歌だったから。
筆者のこわばった顔を見て、取材の便宜を図ってくれた韓国原爆被害者協会幹部の辛泳洙(シン・ヨンス)さんがいった。「彼らにとって軍歌は青春の歌のすべてなんですよ」。
その日歌ってくれた一人、朴海君(パク・へグン)さんは1944年9月、ソウルの裁判所に勤めていたが、徴用で広島の三菱造船所に送られた。同造船所の朝鮮人徴用工は約2800~3000人で、2週間ほどの訓練のあと護国神社に強制参拝させられた。
朴さんはいう。「冬も早朝4時半起き。5時に食事をすませて、全員整列して軍歌をうたいながら月明かりを頼りに工場に急ぎました」。その行進で歌ったのは、誉の印として渡された胸の記章を称える「万朶の桜か襟の色、花は吉野に嵐吹く・・・」。
警察に監視される寮生活。極端に少ない食事。負傷者続出の日々。加えて賃金や天引き貯金、強制預金など多額の未払金が戦後も放置された。
戦後半世紀経った1995年、元徴用工被爆者46人が日本政府と三菱重工業を相手に損害賠償と慰謝料を求めて広島地裁に提訴。2007年に最高裁は精神的損害に対する慰謝料の支払いを言い渡した。が、強制動員に対する損害賠償は退けられたため、5人は韓国で提訴し、ようやく2018年11月、大法院(最高裁)が原告1人当たり8千万ウォン(約800万円)の賠償支払いを命じた。しかし、長い裁判の過程で原告はみな亡くなっていた。
ここに名前を記した3人のうち、辛さんと朴さんはすでに亡く、郭さんも毎夏欠かさなかった広島、長崎の平和祈念式出席は難しくなっている。
被爆者だけでない。「徴用工」や「慰安婦」、BC級戦犯など「帝国日本」による「植民地犯罪」のおびただしい被害者への補償・賠償問題の解決はいまだに道遠しである。
彼らにとって「令和」とは、「命令に唱和せよ」としか聞こえないだろう。
「帝国」を取り戻したいのか?
「令和」から聴こえてくる冷たい声は70余年前の日本でも轟いていた。
1943年10月21日、雨の明治神宮外苑。アジア太平洋戦線の拡大による兵力不足を補うため文科系(と理科系の一部)の学生の徴兵延期が廃止され、7万人の出陣学徒の第1回壮行会が開かれた。東条英機首相の訓示、軍歌「海ゆかば」の斉唱などがNHKラジオで全国に中継された。
激戦地に送られ、あるいは特攻隊として非業の死を遂げた多くの学徒の手記「きけわだつみのこえ」は、戦後の平和を希求する日本人のバイブル的な書ともなった。
筆者は東京の公立中学3年だったある日、何かの式典で校庭に日の丸が掲揚されるや、くるりとそれに背を向けたニキビ面の英語教師を鮮烈に憶えている。彼は「わだつみのこえ」を全身で受け止めていた世代だったろう。その姿は「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡辺白泉)時代を繰り返すまいという若い教育者の決意だったのではないか、といまにして思う。
「昭和」が服喪の渦に消え、「平成」が退くなか、日本は憲法で世界に約束した不戦の誓いを守り通せるのか。答えは黄信号だ。それも赤に近い――。
いうまでもない。安全保障環境の変化を理由に、安倍政権が推し進めてきた秘密保護法(2013年公布)、集団的自衛権容認の閣議決定(2014年)、安保法制(2015年成立)は、日本を「戦争をする国」につくり替えたからだ。加えて、9条をそのままにして「自衛隊を明記」する9条改憲案は、米国と一体化して海外派兵するための条件づくりだ。自衛隊員が足りない現状から、その先には「徴兵制」も見え隠れする。
「戦争放棄、戦力不保持」の平和憲法を壊してめざす「日本」とは? それは米国に隷従して「自衛隊」を差し出し、武器爆買いに我々の税金を貢ぎ、内においてはやがて徴兵・徴用の「命令に唱和せよ」と押し付ける国の姿だ。
大日本帝国はアジアで2000万人、国内で310万人もの犠牲者を生んだ。血で贖った平和憲法を捨て、ふたたび「帝国」の威令を取り戻そうとするのか。そこには「主権が国民に存」し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文)進もうという姿勢は見えない。そんな日本を、あなたは許せますか?
<小田川 興氏の略歴>
おだがわ こう。元朝日新聞ソウル支局長、在韓被爆者問題市民会議代表、早稲田大学日韓未来構築フォーラム主宰
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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