「偲ぶ会」で話すに及ばなかった私の話 子安美知子-その生と記憶

著者: 子安宣邦 こやすのぶくに : 大阪大学名誉教授
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[これは「子安美知子を偲ぶ会」のために私の用意した言葉である。30日の「偲ぶ会」は子安美知子の初志を甦らせ、それを記憶に留める会にしたいという私の思いを、十分に実現する形で進められていった。三瓶・多和田。堀内・鈴木さんの話は感動をもって参会者に受け取られていった。これで十分であった。私が用意した話をする必要はなかった。これは「偲ぶ会」で話すに及ばなかった私の話である。]

 ドイツの知人たちからの弔問のほとんどのお手紙に、「あなたの記憶は私の心の中にずっとあります」と書かれています。これは慣用句かもしれない。しかしこの慣用句は、われわれにおける「安らかにお眠り下さい」という慣用句よりも、人との死別にあたってはるかに意味ある、大事な言葉であるように私には思われます。「安らかにお眠り下さい」は「お別れの会」には相応しいかもしれません。では「あなたの記憶はずっと私の中にあります」という言葉が相応しいのは、どのような会でしょうか。それは故人を「語る会」かもしれません。私は岡村先生のご同意をえてこの会を「偲ぶ会」と呼ぶことにしました。
 長く身近にいたものとの死別の体験は私にとってこれが初めてであります。私は初めて肉体をもった存在から、肉体をもうもつことのない、現世的な、時空的関係づけを私との間にもつことのない存在への転移の体験を身近なものの死として初めてもちました。
 その体験は、呼吸することを終えた彼女の上に、彼女の初志というべきものを甦えらせました。エンデの『モモ』的譬喩をもっていえば、彼女の死は子安美知子がもって生まれた時間という花を見事に咲かせた人生だという思いを私に強くさせたのです。彼女の死に際して、私が「見事な人生であった」といった感慨をもつなどということは彼女が生きているときには予想もしないことでした。これも『モモ』的にいえば、肉体をもって生きる彼女とは絶えず時間をせめぎ合う仲であったからです。
 私は7月2日の彼女の死の数日後からエンデの『モモ』の読み直しを始めました。この30年ぶりの『モモ』再読は私にとって大きな教えであり、救いでもありました。私は彼女の死後の対応に周章狼狽しておりました。お別れ会の会場として幸いに早稲田大学のこの国際会議場をお借りすることができても、450名定員のこの会議場の席をどう埋めたらよいのか、途方に暮れるような思いでおりました。その時『モモ』を読んで、大事なことはそんなことではない、たとえ少ない人数の参会者であれ、ここで意味ある時間を共にすることだということを私は教えられました。それから気持ちが楽になりました。『モモ』の再読が私にもたらしたものはそれだけではありません。彼女の初志をもってその生涯 を見直すことを私は教わりました。その初志とは、『モモ』に見る人間観をもっていうことのできるものです。人はそれぞれにもって生まれた芽生えを花としてそれぞれに咲かせる生(時間)をこの地上に与えられているという人間観です。
 1971年から73年にかけて私たちはミュンヘンに滞在する機会を得ました。それは私たちそれぞれにとって重要な、意味ある滞在でした。私にとってこの滞在は、日本を外から見ることを可能にしました。私たち家族にとってこの滞在は、シュタイナー学校というものに根底的に揺さぶられるような思想体験をした時期でありました。その体験の記述は『ミュンヘンの小学生』に尽くされておりますが、私たちの驚きはその入学の一日目から始まるものでした。一日目に娘は一本の線をクレヨンで引いた画用紙だけをもって帰ってきました。それが縁取られて太くなるような日が何日か続きました。その一本の垂直の線を引くことが、「私(Ich)」ということの文字表象による自覚化的な学習を意味することを知ったのは大分たってからのことです。  
 このミュンヘンのシュタイナー学校での二年の体験は私たちにとって衝撃的な体験でした。それはわれわれが日本で受けてきた学校教育を根底的に問い直させるものでした。人はそれぞれにもって生まれた花を豊かに咲かせるための時を与えられてこの地上にあるのだし、それぞれにおける開花を助けるのがまさしく教育なのだといった教育観、人間観を彼女はミュンヘンで「初志」としてもったのです。
 『ミュンヘンの小学生』を書いたとき、晩年にいたるまでの現実の苦闘がそこから始まることなどまったく予想しませんでした。1980年代の後半から日本のシュタイナー教育運動は紹介的啓蒙の段階から、日本的土壌に学校として実現する過程に入ります。それからの関係者たちの苦闘の過程を私は確実に知るものではないし、また語る資格をもつものではありません。それらのことは彼女が残していった編著『日本のシュタイナー学校が始まった日』に譲って、その時期家族の内側から見た彼女についてのみ語ってみたいと思います。私たちはある時期から家庭内で線引きをしておりました。すなわちそれぞれが社会的に関与していることから生じる問題を、家庭内には持ち込まないという線引きです 。この線引きぱら家内に向けてなされたものです。
 この線引きにもかかわらず、日本のシュタイナー運動をめぐる葛藤と軋轢といった問題をどれほど聞かされたことか。そして事柄が一層深刻にしていったのは、彼女がこの軋轢における一方の因をなしているかもしれないということです。それはベストセラー『ミュンヘンの小学生』を背負った彼女のシュタイナー運動がもった宿命かも知れません。すぐれた理念が制度や組織を通じて現実化していく過程は、すでに力や支配を背景にした政治の過程でもあります。彼女はこの過程をその初志を信じて突き進み、傷つき、苦しみ、最終的には挫折したように私は思います。
 「あしたの国」の挫折と2012年のミュンヘンにおける命拾いの入院体験とがほとんど継続するように彼女に生じたように思います。それからこの7月2日の彼女の死に至るまでの4,5年は、彼女の人生でもっとも精神的に安定していた日々であったように思われます。私が奇跡といっているようなこの安定した年月は、最後の肉体的苦痛の三週間を迎えることになります。だがそれは彼女の初志を思い起こしながら、それを貫き得たことの満足を見出すための最後の試練の時であったように思われます。
 彼女はその人生に満足感をもって、感謝の言葉を口にしながら死にました。そしてこの私も。三週間の苦しい時をともに過ごした私も、その死とともに彼女の上に見出したのは、初志を貫き通した生のあり方でした。私は「見事な人生であった」と思い、それを口にしました。それは彼女と時間をせめぎ合っていた時期には、思いもしなかった言葉です。私はこれを彼女の死がもたらした一時の感傷だとは思っていません。私はこれを常に新たに思い起こすべき彼女の初志の記憶だと思っています。私がお別れの会ではないこの会を開いて頂いたのは、この初志の記憶を皆さまと共にすることを願ってです。(2017年7月30日)

初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2017.08.01より許可を得て転載

http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/72016575.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/

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