東京都教育委員会の「10・23通達」とこれに基づく職務命令が、全都の教職員に対して国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立斉唱を強制している。しかも、これが毎年繰り返されている。
これを違憲と主張する教員らの多数の訴訟において、最高裁は、違憲の主張を斥けてきた。学校行事において教員に国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制をしても、強制された教師の思想・良心の自由を直接に侵害するものではないというのだ。
その論理の骨格は、「国旗としての日の丸の掲揚及び国歌としての君が代の斉唱が広く行われていたことは周知の事実」という、明らかに誤った事実認識の前提から出発して、以下のように論じている。
「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである」。
だから、起立斉唱を行わせることが「上告人(教員)らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものとはいえない」という。
大要、「儀式的行事における儀礼的所作」の強制は、「歴史観ないし世界観(すなわち、思想・良心)を否定することと不可分に結びつくものではない」という論旨である。
この最高裁判決の説示は、近時の下級審判決が挙って模倣ないし追従するところとなっている。教員たちの憲法19条違反の主張を否定する論拠としているだけでなく、東京「君が代」裁判・第4次訴訟判決では、憲法20条違反を否定する論拠としても明示されている。
同判決は次のように判示する。
「卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為の性質については,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであって,それを超えて宗教的意味合いを持つものではなく,他宗教の信仰の強制などと評価することはできない。
原告らの中には、信仰ゆえに起立できないとする者がいるが、原告らは都立学校の教職員であって,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性等に鑑み,学習指導要領の国旗・国歌条項を含む法令及び校長の職務命令に従うべき立場にあることを踏まえると,同原告らの信仰の自由の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものである。
したがって,卒業式等における起立斉唱行為が,原告らの信仰との関係で著しい精神的苦痛をもたらすものであることなどを理由として,本件職務命令等が憲法20条に違反することをいう原告らの主張を採用することはできない。」
しかし、この説示は、決定的に間違っていると指摘せざるをえない。
ある個人が自発的には行えないとする身体的な行為を権力的に強制することは、原則としてその人の精神の自由を直接に侵害すると考えざるを得ない。当該の個人が「自らの歴史観ないし世界観(すなわち、思想・良心)を否定することになるから従えない」と表明する局面においての強制であれば、その強制は当該の思想・良心を否定することになる。「自らの信仰に抵触するから従えない」と表明する局面においての強制であれば、その強制は当該の信仰を侵害することになる。極めて常識的な論理の帰結である。
これを「儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」の強制であれば、「思想・良心の否定と不可分に結びつくものではない」と切断する「論理」の根拠は示されておらず、強弁というほかはない。
当該の最高裁判決は、「儀式的行事における儀礼的所作」を、「宗教性のない、もっぱら世俗的な性格に徹したもの」の意味で使っているごとくであるが、本当に世俗的なものに過ぎないのか。そして、宗教性を欠いた世俗的なものであれば「思想・良心の否定と不可分に結びつくものではないのか」が問われなければなない。
実のところ、儀式的行事への参加や儀礼的所作の強制は、最高裁判決の説示にかかわらず、むしろ信教の自由や、思想及び良心の自由を侵害する典型的な類型といわねばならない。また、「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性を持たないものであるにせよ、「儀式的行事における儀礼的所作の強制」は、それ自体が集団への同化強制の圧力となるもので、特定の思想に関連する儀式的行事における、特定の思想に関連する儀礼的所作の強制は、宗教の強制に準じて、これを受け容れがたいとする個人に対して、その思想・良心の自由の侵害をもたらすものとなる。
弁護団は、著名な宗教学者の教示を得て、以下のとおり、控訴理由の主張を準備している。
儀式・儀礼は宗教の不可欠な要素の一つであって、固有の儀式・儀礼をもたない宗教を見出すことは困難である。したがって、「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性と無縁であるとの認識は根本的な誤謬である。「宗教的な儀式や宗教的な行事における宗教儀礼や宗教的的所作」は、至るところに存在する。
しかも、宗教性をまったく捨象した「儀式的行事における儀礼的所作」である場合にも、思想・良心の自由侵害と無縁であることにはならない。儀式・儀礼が政治的機能をもつときに抑圧的機能を果たすことは、宗教学・政治学・社会学で共有されている通説的認識である。特定宗教の枠を超えた世俗国家の儀式・儀礼においても同様である。
とりわけ日本の場合、世俗国家の儀式・儀礼と国家神道由来の儀式・儀礼との境界は分明でなく、この点がしばしば法的争点となる。儀式・儀礼が宗教的あるいは全体主義的な過去を背負っており、そのことが基本的人権を脅かす基礎をなしている。現に日本国憲法を否定し、天皇崇敬や神権的国体論の復活を目指す政治勢力も存在しており、政府や国会で一定の影響力を保持している。
国家が儀式・儀礼を通じて神聖化され、生活の諸方面に及ぶ規制力を発揮することがある。儒教や神道の影響が濃い文化では、このことが起こりやすい。世俗的な儀式・儀礼と、宗教的な儀式・儀礼とが連続的であるのは、儒教の影響を受けた地域には広く見られることである。日本の国家神道、とくにその近代的形態は儒教的な思想の影響を大きく受けている。このような文化的環境と歴史的背景の下で、細かな規定によって身体の画一的統御が課されるとき、精神の自由が著しく脅かされると感じることには相当の理由がある。
以上のとおり、儀式・儀礼は宗教の本質的な要素なのであって、儀式における儀礼的所作だから、その性格がもっぱら世俗的になって宗教性がないなどとというのは明らかな誤りである。しかも、「儀式・儀礼は強い政治的機能をもちうる」のである。儀式・儀礼が宗教の本質的な要素とされるのは、信仰を同じくする者の集団による共通の身体的動作が、相互に信仰と信仰に基づく連帯感の確認行為となるからである。
このことは、世俗的な集団における世俗的な行事においても本質的に変わらない。「起立」「礼」「注目」「斉唱」「唱和」などの身体的行為を集団が同時に画一的に行うことは、その集団の価値観や目的を再確認して、何らかの理念の共有を深化させる機能をもつものである。従って、その集団の価値観に同調しない者にとっては、明らかに思想・良心の侵害とならざるを得ない。
このような、学校行事における宗教的所作の強制は戦前にしばしば起こったことである。憲法第20条の信教の自由の規定は、こうした戦前戦中の経験を踏まえたものであり、『特定の宗教的行為を強制されない自由』だけでなく、『宗教に準ずる信条と関連する行為を強制されない自由』も含まれていると理解しなくてはならない。憲法第19条の『思想・良心の自由』から見れば、特定の信念体系に基づく行為を強制されない自由も含まれるということである。
以上のとおり、「儀式的行事における儀礼的所作」は、典型的な宗教行為そのものであることもあり、宗教的色彩を帯びる宗教に準ずる行為であることもある。「儀式的行事における儀礼的所作」だから、宗教性は払拭されているわけではない。
のみならず、「儀式的行事における儀礼的所作」が純粋に世俗的なものであったとしても、これを強制する場合には、その集団に特有の思想や価値観を個人に押しつけるものとして、「思想・良心の否定と不可分に結びつく」ものとならざるを得ない。
したがって、「10・23通達」関連の最高裁判決の論理は、「憲法が宗教に準ずる一定の思想に基づく儀式等への参加強制を禁じている」ことを看過したものであって、これに無批判に追随した下級審判決も、憲法19条および20条についての憲法の解釈を誤ったものである。
(2017年12月10日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.12.10より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=9580
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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