「公的自由を経験することなしにはだれも自由であるとはいえず、公的権力に参加しそれを共有することなしには、だれも幸福であり自由であるということはできない。」 ハンナ・アーレント『革命について』
ハンナ・アーレントの『革命について』が刊行されたのは一九六三年である。その六三年にアメリカのケネディー大統領が暗殺された。ケネディーによって回避された〈キューバ危機〉の構成者であったソ連のフルシチョフが解任されたのは翌六四年である。そして六五年にアメリカはベトナムに〈北爆〉を開始した。安保改定後の沖縄の基地からベトナムに向けてB52爆撃機が飛び立っていったのである。そして中国の文化大革命が発動されるのは六六年である。中国各地で紅衛兵の闘争が開始されたのはその年の一二月であった。ちなみに日本のベ平連の運動が全国的に広がったのも同じ六六年である。われわれは中国における文革の進行を深刻に見つめながら、ベ平連の運動の列に加わっていった。六〇年代後半の日本はベトナムにB52爆撃機を飛び立たせながら、一方文革的動乱下の中国をも見つめながら、高度経済成長期を迎えようとしていた。やがて六八年のパリの五月革命に始まる世界的な学生の反乱がこの日本をも襲うことになる。この六〇年代の世界をどう見たらよいのか。第二次世界大戦の「戦後」的世界が、「近代」という時代とともに、地響きを立て、地煙を上げながら、その終焉から再編へと進んだ一〇年というべきだろうか。〈開発〉と〈革新〉とが、戦争と反乱をともないながら世界を蔽っていった一〇年であった。
アーレントが近代の「革命」とその精神の二〇世紀世界における歴史的末路というべき喪失過程を記していったのは、その六〇年代の始めの時期であった。六三年に出版された『革命について(On Revolution)』が志水速雄氏によって合同出版社から翻訳出版されたのは一九六八年であった。それは後に改訂されて中央公論社から七五年に再版された。その時期に私はこの書を読もうともしなかった。かりに読んだとしても、アーレントによる近代「革命」とその精神の末路というべき喪失過程の記述に共感することもなく、その深甚な意味を理解することもなかったであろう。だが二一世紀のいまに及んで、すなわち「その独裁制、寡頭制的構造、内部的な民主主義と自由の欠如、全体主義的になる傾向、無謬性の主張」(第6章「革命的伝統とその失われた宝」)といった近代政党政治の末路の特徴を内外の現前する政治世界にあらためて見るにいたって、アーレントのこの書は私に深い共感をもって読みうる書となった。
アーレントは序章「戦争と革命」の最後で重い問いかけの言葉を記している。「革命の現象に、はじまりの問題がどのような意味をもつかは明白である。このようにはじまりが暴力と密接に結びついているにちがいないということは、聖書と古典が明らかにしているように、人間の歴史の伝説的なはじまりによって裏づけられているように思われる。すなわちアベルはカインを殺し、ロムルスはレムスを殺した。暴力ははじまりであった。暴力を犯さないでは、はじまりはありえなかった。」この言葉は重い予言のようにこの書を読む私を規定した。永久革命とはこの暴力のはじまりのたえざる再生をいうのだろうか。革命党の政権的保持とはこの暴力的はじまりの体制的護持をいうのだろうか。私はこの予言的言葉に導かれるように『革命について』を読んでいった。
アーレントの『革命について』はフランス革命の痛恨の失敗を記述する。それはフランス革命史として革命の否定的評価を記述することを意味するものではない。「戦争と革命」の世紀といわれる二〇世紀の政治世界にフランス革命の失敗、すなわち「自由」創設の失敗の痛恨の刻印を読み取り、記述することを意味している。それはこのようにである。
「十九世紀と二十世紀の一連の大激動を中心に考えてみると、われわれに残されている二者択一は、その目的ー自由の創設ーを達成しない終わりなき永続革命を選ぶか、それとも革命的激動ののちに市民的自由を十分に保障し、君主政であれ共和政であれ、とにかくただ制限された統治の名にあたいするにすぎないような或る新しい「立憲的」統治の樹立を選択するか、そのどちらかであるように思われる。第一の選択は明らかにロシアと中国の革命にあてはまる。このばあい、権力を握った人びとは、革命的政府を無制限に保持してきたということを認めているだけでなく、それを誇っている。第二の選択は、第一次大戦後、ほとんどすべてのヨーロッパ諸国を襲った革命的激動や、第二次大戦後ヨーロッパから独立した多くの植民地国にあてはまる。」
二〇世紀近代の政治世界をだれがこのようにえがいただろうか。ここでは社会主義か民主主義かといった体制イデオロギーの別がいわれたりしない。社会主義的体制であるか、民主主義的体制であるかを問わず、現代の政治世界が「自由の創設」に失敗したフランス革命の再生としてある悲惨な歴史的結末がいわれているのである。一九六〇年のアーレントのこの記述はあまりに早すぎた歴史的告発であった。ソ連の崩壊を民主主義の体制的勝利として「歴史の終わり」がいわれたのは三〇年後である。アーレントが「第二の選択」をいう政治的激動として敗戦後日本の激動をみれば、戦後日本の選択としての立憲主義的政治体制における失敗、すなわち「自由の創設」の失敗という痛恨の結末をわれわれはいま二〇一五年の日本の安倍政権の寡頭制的政治支配に見出すことになるのである。そして革命政権を一党独裁体制として持続させている中国共産党政権は一二〇人にのぼる人権派弁護士らを拘束しながら(一五年七月一四日現在)、抗日戦勝利七〇周年の軍事パレードを天安門広場に展開させている(九月三日)。アーレントのあの文章の意味が痛切にもう一度理解し直されるのは二一世紀のいまなのである。
アーレントが「自由の創設」という「自由」とは「公的自由」を意味している。この「自由」の政治的構成としてアメリカの共和政をアーレントは高く評価する。その共和政の制度的基盤の創設を志向したジェファーソンの考えをアーレントは次のような言葉としていっている。
「公的幸福を共有することなしにはだれも幸福であるとはいえず、公的自由を経験することなしには誰も自由であるとはいえず、公的権力に参加しそれを共有することなしには、だれも幸福であり自由であるということはできない。」
フランス革命が革命精神として担いながら、その創設に失敗した「自由」とはこの「公的自由」である。それはやがて立憲的統治が人民に保障し、保障しながら制限する「市民的自由」ではない。この保障された自由をもつ市民は「公的自由」の行使者ではない。多数市民の政治的意見や要求はいま政党によって代表される。だが代議制的政党政治はいまますます寡頭制的な少数者による多数者の支配になっているとアーレントはいう。「今日われわれが民主主義と呼んでいるものは、少なくとも観念の上では多数者の利益のために少数者が支配する統治形態だからである。この統治は人民の福祉と私的幸福を主たる目的にしているという意味で民主主義である。しかし同時に、公的幸福と公的自由がふたたび少数者の特権となっているという意味で寡頭制なのである」と。
この言葉は議会制民主主義というわれわれの政治世界における市民的多数者の現状を衝撃的に照らし出す。市民的多数者の「政治的自由」は世論の形成と投票行為に限定され、市民はただ議会政党に代表されるだけの被治者に矮小化されている。かくて「公的自由」も「公的幸福」も市民的多数者から奪われて、少数者の手に帰している。市民的多数者における「公的自由」の喪失という議会制民主主義社会の現状からすれば、市民的多数者から「公的自由」を制度的に剥奪する一党独裁的社会主義社会の実状ははたして民主主義的社会の現状と決定的に違うといえるのか。アーレントはアメリカの二党制を区別した上で、一党独裁と多党制との差はそれほど決定的であるとは思われないとして、「十九世紀のあいだに、国民が「絶対君主の靴をはいた」のちに、二十世紀になって、国民の靴をはく順番は政党にまわってきたのである。したがって、その独裁的、寡頭制的な構造、内部的な民主主義と自由の欠如、「全体主義的になる」傾向、無謬性の主張」といった近代的政党の特徴が、二つの政治的体制間に共通していえるのではないかというのである。もちろんアーレントはこれをソ連のスターリン主義に対するヨーロッパにおけるナチズムやファッシズムの台頭という二〇世紀の歴史体験をふまえていっている。だがこの近代的政党政治の特徴を二〇世紀前期に限定すべきだとは思わない。アーレントは一九六〇年にこれをいうのだし、われわれはいまグローバル的資本主義時代がいわれる二一世紀的アジアで各国政権が、ナショナリズムを強めながらそれぞれに「全体主義的になる」傾向を呈していることを知っている。
ここでアーレントが留保したアメリカの二党制とその現状についての彼女の見方を記しておきたい。アーレントは政権政党の専制化を制度的に抑制し、憲政上の自由を市民に保障するアメリカの二党制を高く評価する。だが二党制のアメリカにおける現状について彼女はきびしい言葉を記している。「しかし、それが達成したのはせいぜい被支配者による支配者にたいするある程度のコントロールであって、市民が公的問題の「参加者」になることができなかったというのもまた事実である。」市民をただ「代表される」だけの市民的多数者にしていったのは、二党制は多党制的政治体制におけると同様であった。そこから「民主主義」的統治についてのアーレントによる前に挙げた厳しい批判的言及がなされるのである。「この統治は人民の福祉と私的幸福を主たる目的にしているという意味で民主主義である。しかし同時に、公的幸福と公的自由がふたたび少数者の特権となっているという意味で寡頭制なのである。」
アーレントはこの『革命について』の書を閉じるに当たってこう書いた、いや、こう書き残したというべきだろう。「この革命精神がそれにふさわしい制度を発見するのに失敗したとき、このようなもの、あるいは多分それ以上のものが失われた。この失敗を償うことのできるもの、あるいはこの失敗が最終的なものとなるのを阻止できるものは、記憶と回想を除いては、ほかにない。」ここでアーレントが「この失敗が最終的なものとなるのを阻止できるもの」といっているのは、「あの「自由」のために生きた革命精神の喪失という失敗だけが最後に残されるのを阻止するものは」ということであろう。それを阻止するのは、「記憶と回想を除いては、ほかにない」と彼女はいうのである。『革命について』という書は、まさしく「失敗が最終的なものとなるのを阻止する」ところの「記憶」であり、「回想」であるだろう。『革命について』は革命精神の喪失という「自由の創設」の失敗を記しながら、「公的自由」に生きること、すなわち人間的活動の喜びと幸福の「記憶」をわれわれにつなげようとしているのである。
私はアーレントの遺書ともいうべきこの書を二〇一五年の夏に、安倍内閣の推進する集団的安保体制に反対する市民たちの政権中枢に容易に届かぬ怒りの声を聞きながら、そして中国における人権派活動家に対する抑圧とともに進められる抗日戦勝利七〇周年の行事を見つめながら、この日本とアジアに向けての言葉を求めながら読んでいった。この書『革命について』は、二〇一五年という日本と世界の二一世紀的状況の中でもう一度理解し直され、この世界に向けての私の言葉を可能にした。
アーレントのこの書が私によって読まれ、もう一度理解し直されていったのは、二〇世紀的近代へのアーレントの痛恨の思いを私は二一世紀的現代アジアの中で再確認したからである。だが二一世紀的アジアにおける「公的自由」の喪失という「失敗」の再確認は、私に絶望の嘆きをつぶやき出させるものではなかった。私は「失敗」の再確認とともに、「回復」の、あるいは新たな「獲得」の希望をもそこに見出したのである。
日本国民を不完全にしか代表しない代議制民主主義の欠陥そのものが生み出したともいえる安倍政権によって、日本の軍事的再編成にかかわる〈集団的安保〉法案がいま成立しようとしている。この安倍政権による寡頭制的政治支配に反対する市民とは、市民的基盤から政治に参加しようとする活動者、まさしく「公的自由」の追求者としての自覚を強めた活動者である。政党的、組合的活動家とも、専従の〈革命〉家ともちがう、市民として参加することに生きる意味を見出した人びとがいま国会周辺を埋めようとしているのである。彼らは必ずや安倍とはちがう〈もう一つの日本〉を作り出すだろう。
[アーレントの『革命について』の読書論という形をとったこの文章は石井知章編『現代中国におけるリベラリズム』に寄せた跋文として書かれたものである。この論集は藤原書店から間もなく刊行される。この論集は「自由」を求めるアジアの活動者の連帯の証しである。お読み下さることを心から願っている。]
初出:「子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ‐」2015.09.07より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/2015-09-07.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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