「千葉・美術・散歩」を散歩する。

 千葉市立美術館の開館30年周年展「千葉・美術・散歩」(2025年11月1日~2026年1月8日)に出かけた。また、田中一村にも会いたいと思った。2010年、やはり、この美術館で開催された田中一村展に出かけている。もう、15年前のことになる。数年前にも千葉市立美術館での一村展、昨年は都美術館での大掛かりな一村展が開催されていたが行きそびれていた。
 今回の美術展の構成は以下の通りである。余りの作品の多さに、今回は、第六章・第七章は素通りに近かった。

プロローグ 
第一章 千葉中に学ぶ /第二章川崎銀行千葉支店、立つ
第三章 無縁寺心澄が描いた千葉/第四章 田中一村が描いた千葉
第五章 焦土より/第六章 戦後美術界の復興
第七章 変わりゆく千葉市、千葉市を拠点とする作家たち

第三章の無縁寺心澄(1905~45)

初めて聞く名前だった。精力的に千葉の街の建物や風景を水彩やテンペラで描き続け、県内の美術振興にも寄与した画家であったという。千葉市が空襲で焦土と化す前の街の風景を留める貴重な資料にもなっている。とくに目に留まったのが「千葉中時計台」「都川曲水」「噴水と図書館」などだったが、それらの風景画の流れと違う作品「同志」「労働者」という大作が気になった。無縁寺は、制作年が明確でないものが多いので、これらの二作も、その背景もわからず、残念だった。また、展示ケースには、1930年頃の雑誌『童話の先生』の表紙も描いていたことがわかる。また同じ頃、山本鼎らと一緒に、『少年少女自習画帖』を作成し、「大正自由教育運動」にもかかわっていたこともわかった。


「千葉中時計台」。校舎が新築されたのが1931年ということなので、その直後かと思われる。旧制千葉中学校は、1896年生まれの父が在学していた。もちろん旧校舎であったが、授業中に父親の訃報が知らされたという話は、よく聞いていた。1910年ごろのことか。その後、薬専に進んで、中退?ともかく薬剤師の資格を得て朝鮮にわたり、そこで兵役をすませたという。その後、放浪?ジョホールのゴム園に就職したそうだ。千葉中と聴く・・・。

また、思いがけないことに、藤田嗣治の千葉ゆかりの「夏の漁村(房州太海)」(1937)という小品の展示もあった。

第四章 田中一村が描いた千葉

  田中一村(1908~1977)は、いわゆる「画壇」からは離れて、1938年から千葉市千葉寺に移り住んで、20年、千葉寺近辺の農村風景や木々や草花、多くはオナガ、トラツグミ、ウグイス、キツツキなどの小鳥や軍鶏など描き続けた。1958年50歳にして、新天地を求めて奄美大島に居を移す。多くの支援者がいたとはいえ、画業に専念することはできず、生業のための仕事をしている。南国の植物や小動物を描き、大胆な装飾的な構図の作品をも生み出しながら、生前は、日の目を見ず、1977年逝去する。

  私は「千葉県人」というわけではないが、千葉の佐倉市に長く暮らしており、千葉寺には、別の思い入れもあるので、一村の千葉時代の作品に愛着を覚えている。千葉寺に隣接する千葉市ハーモニ―プラザという複合施設があり、そこの女性センターで始められた短歌教室に月一ながら20年間通った。歌の仲間たちと千葉寺の大イチョウを仰ぎ、かつて畜産試験場だった、近くの「青葉の森」には、桜、紅葉、梅の見ごろだと言っては、教室を飛び出して吟行に出たのだった。


右がチケットで、中央の額に収まっているのが「仁戸名蒼天」(1960年頃)である。現在の仁戸名は、千葉駅からバスで20分ほどだが、大きな病院が立ち並ぶ街でもある。左が「黄昏野梅」(1947年春頃)の絵はがきだが、右上方のサインは米邨で、まだ「一村」ではないことがわかる。


前の「一村展」で見た「千葉寺 春」。今回、この作品は見当たらなかった。「黄昏野梅」と同じモチーフで描かれているようだ。こちらの近景には、馬と共に畑で農作業する人が描かれている。一村の描く、千葉寺周辺の田園風景には、そこで暮らし、働く人々や動物たちへ畏敬の念が溢れているで、心が和むのであった。二作品の杉林もすばらしい。

一村と小笠原登との出会い

 今回、このブログを書くにあたって、ネットで調べていると、知らなかった!一村は、奄美大島にわたって、人を介し、国立療養所奄美大島和光園に就任したばかりの医師小笠原登と出会う。和光園はハンセン病者の療養所であるが、一村は小笠原に和光園内に住まいを提供されながら、親しい交流が始まっていたのである。小笠原は、戦前からハンセン病は感染病ではなく、隔離の必要がないという医学的な根拠にもとづき主張したが、光田健輔などを中核とする学会からは追放された医師だった。戦前から、すでに治療薬のプロミンが開発されていたにもかかわらず、不治の病とされ続けていたのだ。しかし、隔離を基本としたらい予防法が廃止されたのは、なんと1996年だった。小笠原は、1970年に亡くなっている。一村も生前は、画壇からは遠く評価されることなく1977年に亡くなっている。今のような「一村ブーム」を目の当たりにしたら何と思うだろう。奄美大島での一村と小笠原は短い間ではあったが、一体何を語り合ったのだのだろうか。

初出:「内野光子のブログ」2025.12.10より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/12/post-898ad9.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion14562:251211〕