矢吹晋著『敗戦・沖縄・天皇』を読む-「受動的主権」天皇制という視点

書評 : 矢吹晋著『敗戦・沖縄・天皇 尖閣衝突の遠景』花伝社 2014.8

9月自民党総裁選挙が、対立候補のないまま、「安倍再選」で終わりそうだ。

内閣支持率が急低下し、「アベ政治を許さない」の声が日本列島の津々浦々に満ち、その勢いが日とともに強くなっている。このままでは、これからの参院選・地方選で与党の大敗は避けられまい。

にもかかわらず、何の抵抗もなく、安倍続投が与党・自民党内で通ってしまおうとしているのは、なぜか? 交替すべき「政権の受け皿」がないからだ。なぜないのか?2008-2012年民主党政権のぶざまな空中分解による。

 


ya民主党政権の「統治能力の欠如」を露呈した一つの出来事が、「尖閣問題」であった。

「日中の衝突は二〇一〇年秋の中国漁船長の逮捕に始まり、二〇一二年には見識を欠く老醜政客の陰謀に乗せられ、尖閣三島の国有化なる愚挙を行い、四〇年来積み上げてきた日中関係を一挙に破壞した。老獪な自民党が避けてきた難題を、野党から与党になったばかりの民主党が乗せられたことに気づかぬままに陰謀の片棒を担ぐ。そして政権を失い、安倍チルドレン政権に道を開くとは、まことに衆愚政治のドタバタ田舎芝居に嘔吐を感ずるのみである。」(矢吹晋、改めて朝鮮戦争の「開戦責任」を問う—戦後七〇年の反省、メールマガジン「オルタ」 )

 

矢吹はすでに「尖閣三部作」で、国交回復に際して、尖閣の領有権が日中両国首脳・外務当局のあいだで「棚上げ」されてきたことをあきらかにした。尖閣問題はこれで終わり、と思っていた矢吹が、あらためて尖閣問題を取り上げてこの本を書いたのは何故にか?

「尖閣衝突は沖縄返還に始まる」としたが、そうではなく「尖閣問題は沖縄の表象であり、それはサンフランシスコ講和条約に始まる」と考えるにいたったからだ。

日本の外務省は、①1895年1月 閣議決定により尖閣諸島を沖縄県に編入し(無主地の先取権)、②1951年のサンフランシスコ講和条約でも、そのまま日本領として認められた、ただし、米軍の沖縄占領継続にともなって、尖閣諸島は米軍の施政下に置かれた、③1971年沖縄返還によって、尖閣も日本領となった、とする。

これにたいして、矢吹は、つぎのように指摘する。①「無主地の先取権」などという論理は帝国主義の論理そのもので、1895年の尖閣日本領有は、認められない、②サ条約後に米軍が尖閣に対して行使したのは「施政権」であり、これは領有権とは異なる、③したがって、沖縄返還にともなって日本に返還されたのは、尖閣に対する「施政権」であって、「領有権」ではない。領有権については、米国は、日本・中国・台湾に対して、中立の立場を堅持している。

 

ここで、アメリカが「日本の施政権は認めるが、領有権については中立の立場」としているのは、どういうことか?サ条約の当時、アメリカが国家として認めていたのは、台湾の中華民国・蒋介石政権であり、本土の中華人民共和国・中国共産党政権ではない。だから、 台湾の意に逆らって、尖閣の日本領有権を認めることはできなかった。

それにしても「施政権は認めるが領有権は認めない」とは、わかりにくい。

矢吹は、ダレス文書を分析する中で、「残存主権」というキーワードに着目して、この問題に光を当てる。「残存主権」の細かな法的解釈については矢吹の本を読んでもらうことにして、大まかに言えば、戦後処理をめぐる米国務省の中の対立――リベラル派の「領土不拡大」論(=沖縄返還論)と対日強硬派(軍)の「(沖縄)併合論」の対立――の妥協の産物として「残存主権」なる言葉がダレスによって案出された。

ダレスはなぜこうした苦肉の策をとったのか?冷戦構造への移行に際して、日本を西側陣営に組み入れるためには、一方で沖縄を日本から切り離して米軍政下に置く必要があった。他方で、日本に「残存主権」を与えることによって日本の同意を取り付ける必要があった。

尖閣の帰属問題は、一つには、このように、米軍の沖縄統治・冷戦体制形成という歴史的過程の中で、「残存主権」つまり「領有権ではない施政権」というかたちで日本にみとめられた。

 

もう一つの大きな問題は、サ講和条約に中華人民共和国が招待されていなかったことだ。サ条約が中国、ソ連を除いた「片面講和」になったことが、今日の尖閣対立の淵源である。

では、なぜ、中国・ソ連が除外されたのか?冷戦体制への移行である。

さらにさかのぼって、なぜ第二次世界大戦後の「戦勝国」による占領体制が冷戦体制に移行したのか?

1950年代6月の、金日成による南進・朝鮮戦争によってである。

 

「戦後七〇年に際して、痛恨の思いを禁じ得ないのは、『もし野心に幻惑された金日成の冒険を抑えることができていたならば』、という歴史の if である。そのような朝鮮戦争分析が共有認識として確立していさえすれば、ソ連解体の機をとらえて、南北朝鮮の対話から統一への道を探ることができたはずである。」(矢吹晋、改めて朝鮮戦争の「開戦責任」を問う——戦後七〇年の反省、メールマガジン「オルタ」 )

 

世界の冷戦体制への移行によって、日本は民主化の過程から逆転し、マッカーサーと吉田茂の時代が終わり、岸信介を筆頭とする戦前支配層の復活・「再軍備」の「逆コース」へと転換した。

世界の冷戦体制が終わった今日、日本は、冷戦体制から脱して民主化への歩みを再開することができるのか、それとも、安倍の扇動する国家主義への回帰に道を開くのか。

矢吹の本は、日本の直面するこうした課題を、大きな歴史的視野の中でとらえるべきことを、強く提起している。

 

【付記】以上の文章だけでは、じつは、矢吹の本書の中心部分には、何も触れていないことになる。

 この本は、『敗戦・沖縄・天皇』の三題噺になっている。この一見奇妙な「三題噺」の秘密を解く鍵は、この本の構成にある。「第Ⅰ部 講和条約と沖縄・天皇制」、「第Ⅱ部 朝河史学に学ぶ天皇制」となっている。日本の近代史ににおける天皇の役割を正当に評価することを通して、敗戦・沖縄・尖閣をもう一度考え直そう、という主旨である。

 では、なぜ「天皇」か?矢吹が傾倒する朝河貫一の「朝河史学」の中心に天皇制論がある。天皇制は、大化の改新で確立し、明治維新と明治憲法によって近代的な天皇制となった。日本の天皇制は、その権力の源泉を「万世一系」つまり古代からの「日本国民の国民性」に求める。朝河によれば戦後憲法の「象徴天皇」も、「国民・国民性」の別名にほかならず、その意味では、明治憲法下の天皇と同じである。同じだから悪い、というのではない。ぎゃくである。

日本の天皇は、一貫して「受動的主権」であった。つまり、国家の主権ではあるが、主権の行使は自ら行わず、官僚機関に任せる。「天皇機関説」である。

ところが、近年、昭和天皇の政治関与が、とくに沖縄米軍基地に関連して、論議されるようになった(豊下楢彦『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交』など)。

矢吹は豊下の資料処理の難点を具体的に示して、天皇は戦後も「受動的主権」で一貫しており、「天皇外交」などというものはなかった、と主張する。

書評子(矢沢)は、この矢吹説について、こう思う。制度的には明治憲法下の天皇は「受動的主権」であった、つまり「天皇機関説」は正しかった。しかし、いつの時点からか、軍部が天皇の名をかたって(「統帥権」)、軍事・外交・内政を専断するにいたった。天皇の「受動的主権」は、現実には、軍部の独走・暴走となった。

こうした軍部の独走・暴走に対して、昭和天皇がどのようなかたちで関与していたかは、書評子(矢沢)にはわからない。積極的に関与していたとすれば「受動的主権」とは言えず、なすすべがなかったとすれば、天皇には「受動的主権」さえすでになかった、ということになる。「夫兵馬の大権は、朕が統(す)ぶる所なれば、其司々をこそ臣下には任すなれ。」「死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ。」(軍人勅諭)と、天皇の名を騙って、軍部は国民を自らの妄想の犠牲に供してしまった。軍部・政治指導者の責任が問われるべきはいうまでもないが、名を騙られた昭和天皇が敗戦時に退位することさえなかったのは、いかなる事情によるのか。

 

「受動的天皇」の起源を大化の改新にまでさかのぼって、日本史における天皇の役割を見直すことに異論はないが、明治維新の国際環境を見れば、明治の「受動的主権」天皇制がそれ以前の「受動的主権」天皇制の延長であり続けることが不可能であった、とみるほかない。資本主義の急激な発展と国民国家の結合が世界的に進展しており、それに対抗する「富国強兵」は、国民経済と人的資源を戦争に総動員する「国民総動員」体制とならざるをえない(なる方向を日本の指導部は天皇の名を騙ってまで強引に選択した)。戦争のための国民総動員体制のために天皇制が(明白な偽りをともなって)利用された時点で、「受動的主権」天皇制は終わったのではないか。

戦後の昭和天皇に、占領行政や沖縄に関して、矢吹の分析の通り、「天皇外交」なるものはなかったとすれば、敗戦と軍部の消滅によって「受動的主権」天皇制が復活したということになるのか。私には、戦後の「象徴天皇」が「受動的主権」天皇制の延長ないし復活とは思われない。なぜなら、朝河貫一が「「象徴天皇」も、「国民・国民性」の別名にほかならず」というときの「国民・国民性」――「日本」という「くに」を成立させるアイデンティティとなる共通意識―― は、先の大戦によって粉々に打ち砕かれてしまったからだ。共通のアイデンティティが打ち砕かれたのは、戦争で甚大な損害を被ったからではない。自他の国民に対して、甚大な被害を与えた軍部・政治指導部が、あきれるほど浅はかな政策と国民を疎んずる精神によって無謀な戦争に突っ込んだことが、戦後つぎつぎに明らかになったからであり、また、彼らがその責任をとろうとしないばかりか、岸信介のような戦前戦時の中心的指導者の復活を容認する事態を、戦後の日本人が目の当たりにしてきたからである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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