「夜の闇の中に希望を持つこと」──周回遅れの読書報告(その65) 

今日もまた古い話である。講談社のPR誌『本』1999年9月号を読んでいたら、山城むつみという未知の人物が小熊秀雄のことを書いていた。小熊秀雄は私にとっては懐かしい名前である。私はほとんど詩心を持たないし、したがってまた詩を理解することもほとんど出来ない。そういう私が、かつて“暗誦”を試みたごく少数の詩の一つに、小熊秀雄の詩がある。

 山城氏は「親と子の夜」を引いて、詩人小熊の晩年の「希望」――「夜」(さまざまな意味を込めた「夜」である)を「踏み抜く」希望――を解説していた。私の記憶の中にある小熊の詩はこれとは全く別のものであった。しかし、その題名さえ忘れてしまっていた。書棚の一番奥のところを探して、岩波文庫版の『小熊秀雄詩集』を取り出した。バラバラとめくって、ようやく見つけだした。「夜の霊」という題名であった。

「夜の霊」
 粘り気の多い暗さの夜の中で
 酔ひは私の心と眼をはっきりさせる
(12行省略)
 信ぜよ、夜の暗さの中に
 眼をかがやかし冴えたる心をもって
 明日を待つ夜の霊のあることを

 末尾の3行が私はとくに好きだった。今気がついたが、この詩もまた、山城氏が紹介している「親と子の夜」と同様に、「夜」(さまざまな意味を込めた「夜」である)を「踏み抜く」希望を込めた詩であった(山城氏が引いた「親と子の夜」は、岩波版『小熊秀雄詩集』の掉尾に掲げてあった)。詩人小熊はある場合は、「子供達」に託し、ある場合は「夜の霊」に託し、「夜を踏み抜く」こと、「明日を待つ」ことの、「希望」をうたったのである。
 山城氏は、小熊が希望を託したのを実体としての子供に限定してはならないとする。そう読みとられかねない傾向を正すために、山城氏は、マルクスの次の言葉を引く。

 大人はふたたび子供になることはできず、もしできるとすれば子供じみるくらいがおちである。しかし、子供の無邪気さは大人を喜ばさないであろうか。そして自分の真実さをもう一度つくっていくために、もっと高い段階で自らもう一度努力してはならないであろうか。

 そして山城氏は、可能性が残されているのは、私たちの子供に限られているわけではないとし、「私たち自身も、『子供の無邪気さ』にも似た『自分の真実さ』を『もう一度つくっていくために、もっと高い段階で自らもう一度努力』することはできるのであり、そうしてならない理由はないのである」と語っている。
 
 忘れかけていた小熊の詩を思い出すと共に、「夜が明ける希望をもつこと」、そのために「自分の真実さをもう一度つくっていくために、もっと高い段階で自らもう一度努力すること」を教えてもらった。
          小熊秀雄『小熊秀雄詩集』岩波文庫、1992年

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