1 清沢との邂逅
清沢に私は出会うべくして出会ったわけではない。私はかなり早くから弟子の暁烏敏の方に関心をもっていた。暁烏が『歎異抄講話』の「例言」で、『精神界』に「歎異抄を読む」を書いていた時期、すなわち明治36年1月から43年12月にいたる時期、「この間、ほとんど毎年京都にまいります度ごとに、大谷の御本廟に参詣して本抄を拝読し、時には泣きくずおれて喜んだこともある」と書いている。私は『歎異抄』とは近代の青年をこのように感涙せしめるような書であるのか、近代日本にもなおこのように感涙する宗教青年がいるのかと驚きとともに暁烏敏という人物を見出したのである。清沢の名が私に登場してきたのは、このような暁烏との関係からであった。
その清沢が私の直面すべき対象になっていったのは、今村仁司の『清沢満之と哲学』(岩波書店、2004)について、2007年に亡くなった今村を追悼するシンポで報告する役を負わされたことに起因する。やむをえずその役を引き受けた私は清沢の『宗教哲学骸骨』や『精神主義』の諸章に大急ぎで目を通しながら、今村の著書を読んでいった。私はさまざまな意味で今村のこの著述のあり方に疑問をもたざるをえなかった。
今村は清沢の初期の著作『宗教哲学骸骨』を再発見したのであって、清沢満之を再発見したわけではなかった。われわれがこの書を読んで、「これは清沢なのか、今村なのか」と迷うのは、彼はこの書で清沢を借りて今村自身の社会哲学を語り出しているからである。私は今村のこの書に「信」を置くことはできない。「信」とは対他的関係において人を信じること、信頼、信用することである。人を信じることができるのは、その言行が実(ほんとう)であることによる。それが実であることによって、その人の言行を信じるのである。私はこの書に「信」を置くことはできなかった。
さらにいえば今村はこの書で清沢の「信」を問うことをしていない。宗教者清沢に問われる「信」とは、他者との関係における信頼の究極的な信頼、対他的関係を超え出た超越者への究極的な信頼という「信」である。中国では古く人が究極的に信頼し、依拠するものを「天」といってきた。孔子は最愛の弟子顔回が死んだとき、「天予れを喪ぼせり」(先進)といって嘆いた。孔子が究極的に依拠してきた天に見放されたといっているのである。孔子はまた「民、信無くんば立たず」(顔淵)というが、私はこの言葉を、「人は究極的に依拠すべきものへの「信」なくして立つことはできない」と敷衍して考えている。
清沢にあるのもこの「信」である。だから清沢も孔子とともに「天」をいうのである。今村が清沢の「信」を問うことをしないということは、清沢にこのような「信」の展開を見ることを彼はしないということである。清沢に「信」を問うことのない今村は、己れにおける「信」をも問うことはないのである。
2 私の回り道
私は清沢に、あるいは『歎異抄』に直面するまで回り道をしている。私にはまず暁烏がいた。『歎異抄』の近代における感動的受容者であり、同時に昭和ファシズム期の民衆的伝道者であった暁烏が、私の思想史的関心を刺激するものとしてまずあった。さらに私は今村の『清沢満之と哲学』を余儀なく読むという回り道をたどらざるをえなかった。この回り道を経てはじめて私は清沢の「信」を自分の課題として問うことになったのである。
だが私の回り道はそれだけではない。もし清沢の「信」に、己れの「信」をも重ねる問いが、私の行き着くべき目的としての問いであるとすれば、私は何と長い回り道をしてきたことか。日本の近世儒家である伊藤仁斎から、中国の朱子らを経て『論語』の孔子という儒家思想の原初にいたる遠い回り道を私はしてきたようである。だが清沢を読み始めて、この私のしてきた回り道は、清沢の「信」に己れの「信」を重ねて問うための不可避の道のりではなかったかと思うようになった。この回り道がなければ、清沢は私には読めなかったであろうし、私における清沢の再発見もなかったであろう。
私は日本思想史という自分の専門との関わりから『論語』を見ることはあっても、この全部を読み通そうとは思わなかったし、これを読めるとも思わなかった。私はただ仁斎の『論語古義』を読むことで『論語』を読んでいただけである。だが仁斎の『古義』を朱子ら諸家の解釈と照らし合わせながら読むうちに、『論語』のテキストは私にも読みうるものになることに気がついた。私における『論語』の再発見の次第については、『歎異抄の近代』の「序章」に私は書いている。「『論語』のテキストは仁斎や朱子の読みを辿る私のいわば参照系として彼らの解釈の向こうに見られる外部的テキストになる。この参照系としての『論語』テキストは、後世の諸解釈を相対化しながら、しかし己れの絶対的な正しい解釈を要求するような実体的なテキストであるのではない。むしろ新たな読みを常に可能にしていく開放的なテキストであるのだ。私は『論語』を私の読み直しを可能にするテキストとして再発見したのである」と。
こうして私は『論語』を読み直していった。『思想史家が読む論語』(岩波書店、2010)はその最初の成果である。私はこの『論語』の読み直しを通じて、『論語』を孔子による最初の問い直しの記録として再発見した。彼は何を問い直したのか。孔子の問い直しの項目をもって私は自分の著書の章名とした。それは「学」であり、「仁」であり、「道」であり、「信」であり、「政」であり、「文」であり、などなどである。私は孔子のこの最初の問い直しをたどりながら、『論語』におけるこのラジカルな問い直しを私の思想体験として読んだ。私にとって最も重い思想体験は孔子における「天」と「信」とをめぐるものであった。この思想体験の重さを私はすでに今村批判の中でもいっている。私は孔子に彼が究極的に依拠するものとして「天」をもっていることを知った。そして「信」とは依拠しうるものとして人をもつことであることからすれば、孔子が究極的に依拠するものとして「天」をもつとは、孔子は究極的な「信」をもって「天」に対したことである。われわれはこの究極的な依拠=信を信仰といっている。私は孔子の「天」信仰を『論語』の思想体験として読んだのである。
「天」と「信」とをめぐる『論語』の思想体験は私にとって衝撃的であった。私はこの思想体験によって『歎異抄』と、そして親鸞を、さらに清沢を読むことができると思ったのである。これは事後的なこじつけではない。『歎異抄』とそして親鸞(清沢)とが、私の究極的な問いの向けられる対象としてもっていたからである。『論語』への私の回り道が、親鸞を、そして清沢を私に読むことができるものにしたのである。『論語』への道をたどらずして私は親鸞も、清沢も読むことはできなかったであろう。私は多くの人がたどらない道をたどった。ただそれは清沢がたどった道ではないかと、私は今ではそう考えている。
3 清沢の「儒家的なもの」
清沢の最後の信仰告白とも遺書ともいわれる『我が信念』の末尾の言葉は、われわれを深く考えさせる。「私は私の死生の大事を此如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり、富貴天にあり」と云うことがある。私の信ずる如来は、此天と命との根本本体である。」(『清沢満之集』岩波文庫)。なぜ清沢は如来への信をいうのに「天命」とともにいうのだろうか。しかも最後の文章のその最後を締めくくる言葉を「天」と「命」とをもってしていることは、それが仮借の修辞といったものではなく、清沢の「信」と本質不可分なものであることを意味している。にもかかわらず清沢の「信」を「天命」観との不可分な関係性をもって語るものはいない。
清沢の「信」が儒家的言語をもって表出されることを私は知っていたわけではない。今村の清沢論との関わりから清沢を読むようになった私は、『宗教哲学骸骨』『他力門哲学骸骨』などを読むことから清沢を考え始めた。だがそれらは清沢の「信」にいたる手掛かりを私に与えることはなかった。清沢の「精神主義」の諸章を読み、『臘扇記』の文章から『有限無限録』『転迷開悟録』へと読み進めることを通じて、彼の言葉による彼の「信」の開示を私は驚きをもって見ることになった。驚きとはその主要な文章が儒家的概念と言語とをもって綴られていることに対してである。ことに『有限無限録』の「仁義礼智信」の節を見て、なぜ明治32年(1899)の他力信仰の言説が「仁義礼智信」をいうのか、驚きと疑いとをもって考え込まざるをえなかった。だがこの清沢の儒家的概念・言語によった他力信仰的言説を読むうちに、これは仮借的修辞といったかりそめのものではない、必然性をもった清沢の内面的思惟の表出だと理解するようになった。私が『論語』を読むことによってしてきた孔子の思想体験は、清沢の儒家的言語による清沢の私における思想体験を可能にしたのである。
ところで清沢のテキストにおける儒家的なものについて、清沢の解説者たちはそれを積極的に読むことをほとんどしていない。それらは清沢の他力信仰的思惟とその言語的表出にともなわれる前時代の残留物か仮借的修辞とみなされている。『清沢満之全集』(第2巻)の解説者は『有限無限録』の「仁義礼智信」「智仁勇」といった儒教的徳目名を掲げた節について、「しかしその解釈はどこまでも清沢独自のものである」といい、それ以上、清沢が儒教的徳目を掲げた理由についてのべることをしていない。解説者は『有限無限録』における清沢の儒家的概念・言語をもってする記述のあり方を、思想的本質にかかわりない表面的修辞として無視したのである。清沢における儒家的なものの無視とは、この解説者だけではない、清沢の教団的研究者・解説者が共通にするところだろう。日本近代仏教史の吉田久一が清沢における儒教的倫理の残存をめぐっていっている。
「彼の性格には儒教的倫理が色濃く内在していた。「言志録」や『論語』を喜び、「赤穂義士伝」も愛読書の一つであった。本願寺の改革運動も、君側の奸を除くという一面があったし、宗門に対する恩誼は一生持ち続けられている。仁義の解釈を、無限的自覚が対他的行為にあらわれたのが仁で、無限者が対自的にあらわれた場合が義であるという説明を下した時期もあった。内村鑑三はしばしば武士道とキリスト教的愛との結合をのべているが満之にもこのような儒教的なリゴリズムがあり、その自力修道的の倫理を克服しようとしたところに、興味ある課題を見出している。」(人物叢書『清沢満之』1961)
清沢における儒家的なものを前近代の儒教的倫理や士道的エートスの残存とするような吉田の見方は、これを無視することよりも質が悪いと私には思われる。彼らは儒家的言語による清沢の文章をまともに読むことさえしないからである。
だが儒家的教養とか士道的エートスを前近代的遺習とする見方から離れていえば、これらが明治転換期にその足跡を刻んでいった人びとの人格形成の上にもった深い意味を無視することはできない。幕末から明治初年の時期までに生まれた人びと、ことに士族出身者が身に着けている儒家的・漢学的教養と士道的エートスとは明治近代における彼らの自立的な人格的存立を底深く規定し、支えているのである。私はそれを吉田のように否定的にいうのではない。むしろ明治における自立的人格の形成をもたらした大事な要因として、私は積極的にいうのである。清沢は文久3年(1863)の生まれである。彼に近い時期に生まれたものを挙げれば、内村鑑三(文久1、1861)や森鴎外(文久2、1862)がいる。やや年齢が離れるが中江兆民(弘化4、1847)をも挙げておきたい。私は明治社会における彼らの特異な、そして自立的な人格的な存立は、彼らがその土壌のなかに成長してきた儒家的・漢学的教養と士道的エートスぬきにはないと考えている。清沢は終生『論語』や佐藤一斎の『言志録』を手放すことはなかった。そのことを明治人の遺習として笑うよりは、なぜ清沢がそれらを手放すことなく絶対他力宗の信仰者になり、教育者になったのかを考えてみるべきであろう。
脇本平也は『評伝 清沢満之』(法蔵館、1982)で清沢の『我が信念』を巻頭に引きながら、清沢のきわめて個性的な信仰形成の過程を語っている。
「ここに現れた他力信仰は、とりわけて満之らしい個性的な特徴をそなえている。真宗伝統の教義に、必ずしも型どおりに寸法を合わせたものではない。そうした出来上りの型に対して、満之生涯の苦闘の実験が、存分に裁断の鋏を加えた。その結果、満之その人の人間像にぴったり合った『我が信念』が、生活史のなかから形成され、獲得されてきた。」
私もまた清沢の他力信仰とは、彼生涯の苦闘の実験を通して形成された信仰的立場、清沢という個性的な特徴を備えた他力信仰の立場であると思う。そうであるならば清沢における儒教的なもの、儒教的思惟であり、理念であり、言語であるものは、拭い残された前代の遺習でもないし、無視してよい仮借の修辞でもない。それらはそれなくして清沢の他力的信仰思想そのものが形成されない不可避の思想的契機であるであろう。清沢に「天」の理念、また「天命」の概念なくして、「如来」への、そして「如来」からの他力信仰の道を自らに形成し、人にそれを語る言葉をも清沢は見出すことはなかったであろう。『我が信念』の末尾の言葉は、そのことをわれわれに教えている。
「私は私の死生の大事を此如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり、富貴天にあり」と云うことがある。私の信ずる如来は、此天と命との根本本体である。」
4「天」と「公」と
『我が信念』の上に引いた末尾の言葉に見るように、儒家的「天」と「天命」概念は清沢の他力信仰の究極相を言葉にする上で不可欠なものであるようだ。言葉にする上で不可欠であるだけではない、信仰を究極相にまで問い詰める上でそれらは不可欠だというべきだろう。清沢は「天命」概念によって他力信仰の究極的な、ぎりぎりの問題を提示するのである。『転迷開悟録』から青年会談信会における講演で「天命」をいう一節を引いておきたい。
「之を我が一身の行為に就きて云はば、彼の人事を尽くして天命に安んずるの事に過ぎずと雖も、我は寧ろ之を天命に安んじて人事を尽くすと云はまく欲す。その故は天命に安んずるは勿論人事を尽す迄が皆天与の恩賜なれば、先づ天命に安んずるにあらずば人事を尽すこと能はざるべし。」(「十月三日夜青年会談信会に於て」、表記を変えている)
ここでは現世における人の行為とその存立の究極的な意味を天命として知るものこそが君子なのだという孔子以来の「天命」観が、「他力回向」をより一般的に敷衍する思想言語として使われている。「命を知らざれば、以て君子たらざること無きなり」(堯曰)とは孔子が『論語』の最終章でいう言葉である。私はいま儒家的「天命」観が他力信仰的理念のより一般的な敷衍化のために使われているといった。そのことは儒家的「天命」観が清沢とともに広く同時代の人びとに受容されている観念だということだけをいっているのではない。清沢という絶対他力的信仰者は真宗的言語とは異質な言語で他力信仰の思想的本質を解いてきたのである。これが清沢を単なる教派的講説家以上のものにしている理由である。彼は生来の思想的言語というべき儒家的言語を意図的に使っているのだ。『有限無限録』が見せる異様さは、20世紀を迎えようとする明治32年(1899)の日本で清沢が儒家的言語をあえて使用していることにある。私はそれを儒家的言語の戦略的使用というのである。そして清沢における儒家的言語の使用の意味がもっとも問われるのは、儒家的「公」概念の使用にある。
「無限的行為は善なり(公の為にする行為なり)。」
「仁とは利他的行為なり(仁とは天の為に尽すの心なり)。」
「公は天なり。公に尽すの心は仁なり、道心なり。」
「公は彼を摂し我を摂し一切を摂す。故に公は大慈悲者なり。 公の為にするものは大慈悲心を分享するものなり。」
これだけではない。『有限無限録』には「公」によっていう文章が沢山ある。そこで用いられているのは中国の儒家思想で展開されてきた「公」概念である。その「公」について私は『歎異抄の近代』の清沢の章(第3章「清沢はなぜ儒家的〈公〉をいうのか」)でかなり詳しく説いている。ここでは儒家的〈公〉概念を規定している一節だけを引いておこう。「「公」とは「私」の反として、天下のすべてを覆う普遍性、天下の人すべての共同性、そして平等性にかかわる儒家の道徳的、政治的思惟の基幹的概念である。」ここでいう「公」とは、程子が「仁とは天下の公、善の本なり」(『近思録』)という「公」概念である。私はこのような「公」を己れの思想文脈の核をなす概念として使用しているような文章を、清沢のもの以外に見たことはない。それは江戸から現代までの文章を通していうことである。
だが問題は明治32年の清沢がこの儒家的「公」概念による言説をどうして展開したかである。あるいはこの「公」概念による清沢の言説展開の意味をどのように考えるかである。私はすでに前に引いた『歎異抄の近代』第3章で私なりの解答は出している。そこで示したのは、『教育勅語』という欽定の儒家的言語による国家・国民的な義務としての「公」、すなわち奉公的「公」の形成を見ることで、「明治32年の清沢が「無限」「公」「天」という超越的、普遍的概念を前提にして道徳論的テーゼを導いたことの例外的な意味」を理解しようとする道である。これは晩年の清沢が苦闘した「俗諦」論の中心にある問題である。私はこの問題への理解の道をいうだけで、まだ十分な理解に達したとは思っていない。
私は清沢の儒家的「公」概念の使用をめぐって、私の著書のもう一つの章で触れている。それは暁烏をめぐる第6章においてである。私はそこでこういっている。
「「公」とは仏心者の大慈悲行である。親鸞の信が「真信」であるのは、徹頭徹尾この「公」を志向するものだからである。そして「私」の異議のはびこる今、想起されなければならないのは、徹頭徹尾「公」を志向する親鸞の「真信」だと唯円はいうのである。」
清沢における「公」概念は、『歎異抄』の〈異議〉の問題が『歎異抄』の近代的受用そのものの中に再生していることをもわれわれに教えている。清沢の「公」概念をめぐる論はここから始められるべきなのであろう。ただ私の『歎異抄の近代』はその全体として、清沢が「公」概念によって提議した問題への私なりの解答だと考えている。
[これは10月30日に清沢満之研究会(親鸞仏教センター)でした私の問題提起の要旨である。]
初出:「子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ‐」2015.11.03より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/46901563.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study669:151103〕