5月11日の毎日新聞朝刊に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案要綱 全文」が掲載されている。伝えられているところでは、ほぼこのとおりに法案が作成され、19日に閣議決定されて国会に提出されるという。これを読みながら考えた。
「吾輩は猫である」は、一人称の話者が猫という動物の範疇に属する個体であることを意味している。「である」は断定を表しているが、必ずしもなくても意味が通じる。しかし、文豪が「である」を選んだのだ。「吾輩は猫だ」「吾輩は猫なり」「猫なるぞ」「猫なのだ」「猫よ」「猫なの」「猫なのよ」「猫なのだ」とは違った、「である」特有のニュアンスを読みとらねばならない。なくても意味が通じるとは言えども、重要な役割を担っている。
やや格式張った「である」が、滑稽味十分に活用されている。これが、「吾輩は猫であるのである」「吾輩は猫なのであるのである」と言えば、おふざけの文章になる。あるいは知性に欠けた一昔前の政治家の演説。いまどき、こんな言い回しはあるまいと思われようが、お目にかかった。「であるのである」調に。この要綱案にに出てくるのであるのである。おそらくは諧謔味を多分に盛りこんで、読者を退屈させない工夫なのであるのであろう。
「退位した天皇は、上皇とするものとすること。」
「上皇の敬称は、陛下とするものとすること。」
「上皇のきさきは、上皇后とするものとすること。」
「皇嗣職が置かれている間は、東宮職を置かないものとするものとすること。」
などなど…。まさか、このまま法律になるはずもないものとするものではあろうが、この特例法全体の文章には、まったくしまりがない。
第1条になる「趣旨」は以下のとおり。
「この法律は、天皇陛下が、昭和64年1月7日のご即位以来28年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地へのご訪問、被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的なご活動に精励してこられた中、83歳とご高齢になられ、今後これらのご活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、ご高齢に至るまでこれらのご活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、さらに皇嗣である皇太子殿下は57歳となられ、これまで国事行為の臨時代行等のご公務に長期にわたり精勤されておられることという現下の状況に鑑み、皇室典範第4条の規定の特例として天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定めるものとすること。」
文意をとりやすいように、段落をつけてみる。
「この法律は、
(1) 天皇陛下が、昭和64(1989)年1月7日の御即位以来28年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地への御訪問、被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、83歳と御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、
(2) これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、
(3) さらに、皇嗣である皇太子殿下は、57歳となられ、これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられること
という現下の状況に鑑み、
皇室典範第4条の規定の特例として、
天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、
天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定めるものとする。」
大意は、「特例として、天皇の退位及び皇嗣の即位を実現する」ということ。その特例を認める趣旨ないし理由が、もったいぶった「現下の状況」として、上記(1) (2) (3)に書きこまれている。
(1) は現天皇(明仁)の事情である。高齢のため、「国事行為」と「象徴としての公的な活動」の継続が困難になったことを「案じている」という。
(2) は国民の側の事情である。天皇を敬愛し、天皇の気持ちを理解し共感している、という。
(3) は皇太子(徳仁)の事情である。57歳になり、国事行為の臨時代行等の経験がある、という。
だから、「生前退位の特例を認めてもよかろう」という趣旨なのだが、問題山積といわねばならない。
(1) は、天皇(明仁)の強い意向を忖度して、わざわざ立法するということだ。天皇の意向を忖度し尊重するとは、いまどき天皇の威光を認めるということではないか。なんの権限も権能も持たず、持ってはならない天皇の意向の扱いとして、明らかに憲法の趣旨に反する。
高齢のため、「国事行為」に支障をきたせば摂政を置けばよい。「象徴としての公的な活動」はもともとが憲法違反なのだから、しないに越したことはない。この特例法が、天皇の「象徴としての公的な活動」を公的に認めることは、違憲の疑い濃厚な大問題である。
(2) は、越権甚だしい。天皇を敬愛し理解し共感する国民もいるだろう。しかし、敬も愛もせず、理解や共感とも無縁な国民も現実に存在する。けっして少なくはないこのような人々に、敬愛や理解・共感を押しつけてはならない。仮に天皇を敬愛しない者がたった一人であったとしても、このような価値観に関わる問題について、国民を一括りにしてはならない。国民一人ひとりに、思想・良心の自由があり、その表現の自由がある。全国民が天皇を敬愛しているなどとの表現は、厳に慎まなければならない。法律に書き込んではならないのだ。
(3) はさっぱり訳が分からない。忖度すれば、「皇太子も、もう歳も歳だし、これまでの経験もあるから、天皇の役割が務まるだろう」ということのようだ。こんなことを法律に書き込むのは、当人にはまことに失礼ではないか。もっとも、天皇とは憲法上決められた形式的な事項を行うだけの存在で、何ら資質や能力を要求されない。だから、わざわざ(3)を書く必要はまったくない。
天皇とは、憲法上の存在ではあるが、主要なアクターではない。その存在を可及的に小さくすることが、憲法本来の要請である。いささかも国民主権の障害物となってはならない。権威や威光を認めてはならない。生前退位を認めるために、法律に余計なことを仰々しく書き込むには及ばないのだ。
(2017年5月14日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.05.14より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=8553
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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