《『羅生門』の作者による渋沢栄一批判》
渋沢栄一らの天譴(てんけん)説に「反発した若い文学者連」の一人に芥川龍之介がいた。『羅生門』では人心の荒廃を描いた作家は「大震に際せる感想」にいう。
▼この大震を天譴と思へとは澁澤子爵の云ふところなり。誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。脚に疵あるは天譴を蒙る所以、或は天譴を蒙れり思い得る所以なるべし。されど我は妻子を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若かざるべし。否、天の蒼生に、─当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからす。
自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジョアとプロレタリアとを分たず。猛火は仁人と溌皮を分たず。自然の眼には人間も蚤も選ぶところなしと云へるトゥルゲネフの散文詩は真実なり。/同胞よ。面皮を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿れ。僕のこの言を做す所以は、澁澤子爵の一言より、滔滔と何でもしやべり得る僕の才力を示さんが為なり。されどかならずしもその為のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ。▲
芥川は別のエッセイ「大震災記」に次のように書いている。
作家が丸の内の焼け跡を二度目に通ったときのことである。前回には馬場先の濠に何人かが泳いでいた。今日も三、四人が裸で泳いでいた。
▼僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思いもよらぬ歌の声が起つた。歌は「懐しのケンタッキイ」である。歌っているのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に聲を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つているのであろう。けれども歌は一瞬の間にいつか僕を捉へていた否定の精神を打ち破ったのである。
芸術は生活の余剰だそうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の余剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らねばならぬ。更に又巧みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめとは生活を豊富にすることである。僕は丸の内の焼け跡を通った。けれども僕の目に触れたのは猛火も亦焼き難い何ものかだった。▲
最初の文章には「冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ」と言って渋沢の天譴論に敢然と反発している。二つ目の文章では少年の歌声によって作家の精神が救済される一瞬が描かれている。いずれも、理知的でシニカルだと見られていた作家がヒューマンな心情を吐露している文章である。
昭和2年の「遺稿」の一つに次の詩がある。たしかに見事な芸術へのオマージュである。この4年後に作家は「ぼんやりとした不安」を感じて自裁した。宮本顕治が「敗北の文学」と批判した芥川文学論はまた別の話である。
▼立ち見 芥川龍之介
薄暗い興奮に満ちた三階の上から
無数の目が舞臺へ注がれてゐる、
ずつと下にある、金色(こんじき)の舞臺へ
金色の舞臺は封建時代を
長方形の窓に覗かせている、
或は一度も存在しなかつた時代を。
薄暗い興奮に満ちた三階の上から
彼の目も亦舞臺に注がれてゐる、
一日の労働に疲れきった十七歳の人夫の
目さへ。
ああ、わが若いプロレタリアの一人も
やはり歌舞伎座の立ち見をしてゐる!▲
《被服廠に遁げ込んだ常民への視線》
民俗学者柳田国男(1875~1962)は、一高・東大法科卒の高級官僚として1900(明治33)年に世に出た。農商務省勤務、貴族院書記官長などを経て、1923年には国際連盟の委任統治委員としてスイスに勤務していた。1925年9月5日に沖縄での講演の冒頭で次のように発言している。(『青年と学問』、1928年)
▼大地震の当時は私はロンドンにいた。/丁抹(デンマーク)で開かれた万国議員会議に列席した数名の代議士が、林大使の宅に集まつ悲しみと憂ひの会話を交へて居る中に、在る一人の年長議員は、最も沈痛なる口調を以てこういうことをいった。これはまったく神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れたからだといった。
私はこれを聴いて、こういう大きな愁傷の中ではあったが。なお強硬なる抗議を提出せざるを得なかったのである。本所・深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に遁げ込んで一命を助かろうとした者の大部分は、むしろ平生から放縦な生活をなし得なかった人々ではないか。彼等が他のろくでもない市民に代って、この惨酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこにあるのかと詰問した。
この議員がしたような断定は、もちろん一種の激語、もしくは愚痴とも名づくべきものであって、まじめにその論理の正しいか否かを討究するにも足らぬのは明らかだが、往々にしてこの方法をもってなんらかの教訓とあきらめを罹災民に与えようとするのが、ごく古代からの東洋風であるためか、帰朝して後に人から聞いてみると、東京においてもより多くの尊敬を受けている老人たちの中に、やはり熱烈に右の天譴説を唱えた人があったそうである。まことに苦々しいことだと思う。▲
民俗学への人々の認識は、人間の心情や生活習慣を研究する学問であり、ある種の非合理な意識の存在を前提としているように感ぜられる。しかし柳田の敢然とした反論をみれば彼の方法が合理的な精神に基盤をもっていたことがわかる。東京で「多くの尊敬を受けている老人」は渋沢栄一であろう。その天譴説を「まことに苦々しい」と批判しているのである。のちに「常民」として定着する柳田の庶民観を予告しているようだ。
天譴説は芥川や柳田の言説によって覆ったといえるであろうか。決してそうではなかった。我々は次回においてキリスト者によるラジカルな天譴説を知ることになるだろう。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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