2018年3月に、前年の小中学校に続いて高等学校の新学習指導要領が改定「告示」された。教育基本法改悪以後、2度目の学習指導要領改定で、大改悪である。
今度の改定の特徴を一言で言い表せば、2006年の改悪教育基本法のねらいが全面展開したことである。
問題点は大きく次の3点である。第1に、「道徳教育」を柱に据えたこと、その観点から新科目「公共」が設置された。第2に、「愛国心」がいよいよ教科目の「目標」と「内容」に入ったこと、とくに「地歴」と「公民」。教科書検定や採択では猛威を奮うことが危惧される。第3に、学習指導要領は現行では教育の「目標」と「内容」の大綱を示すものだが、さらに一歩踏み込んで、教育の「方法」つまり授業や評価に関してまで示すものとなった。これが新学習指導要領の「売り」である「主体的・対話的で深い学び」の意味であり本質である。これは戦後1947年、「試案」として始まり、1958年から「告示」となったが、一環して維持されてきた、“教育課程の編成基準としての学習指導要領”という性格の根本的な改変であり、これ自体重大な問題である。
以下の文章は2018年の3月の「高等学校学習指導要領(案)」に対する意見公募(パブリックコメント)のために書いた文章をもとにしたものである。公にすることによってまずは問題提起としたい。
暴走する学習指導要領(「前文」について)
(1)法律でもなく、単なる行政文書にすぎないものにわざわざ「前文」が付され、この中に改定教育基本法2条の「教育の目標」がそっくりそのまま書かれています。そして、「我が国と郷土を愛する…態度を養う」の文言が前文に置かれ、これが学習指導要領全体を縛る、という構成をとっています。今改定では、その文言が「教科・科目」(とくに「地歴科」と「公民科」)の「目標」として記されています。愛国心条項が教科の内容を規制するものとして全面的に入り込んでいます。しかも次の2で述べるように「方法」についても規定しています。これは、授業の「方法」を通じて愛国心の生徒の内心にまでしっかりと植え付けようとする目的によって置かれたものと見て間違いありません。
(2)「前文」では「一人一人の資質・能力を伸ばす」ための「方法」を求めています。これを受けて「総則」では「方法」について規定しています。本来、学習指導要領は法律と行政規則(学校教育法52条・学校教育法施行規則84条)による委任を受けて、学校で学習する内容(教育課程)の基準を示すもので、どのような方法で行うかは「教育の内的事項」であり、教育行政による規制の埒外にあるものです。学校現場の「創意・工夫」によって行うものです。しかし、今回の改定で、国が個々の教師の実践の方法にまで立ち入ってきました。「主体的・対話的で深い学び」は大切なことには違いありません。しかし、学習指導要領は法的拘束力を持つという解釈を行っている行政機関が行政文書で規定することではありません。美辞麗句にごまかされてはなりません。
教育課程に関する事項の中には教科等の「目標」と「内容」が含まれているのみで、「方法」は含まれてはいません。そもそも含みようのない事柄なのです。
(3)教育基本法では、教育の目的として「人格の完成」及び「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成を教育の目的として掲げてきました。2006年の改定によってもその文言は変更されず、1条に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の形成を期して行われなければならない」とある通りですが、この中で「必要な資質」という語句のみを独立させ、これに4条の「能力」を合体させ、「資質・能力」というキーワードをつくり、これを事実上の教育の目的としています。「人格の完成」及び「平和で民主的な国家及び社会の形成者」を空文化するということを今回の改定では意図的に行っています。それは詐術にも等しい暴挙であると言わなければなりません。
「前文」では「資質・能力」の育成を強く謳っていますが、それらは「人格の完成」及び「平和で民主的な国家及び社会の形成者」としての「資質・能力」の育成でなければならないはずですが、そのことについて全く言及されていません。
学習指導要領の性格の改変(「総則」について)
(1)学習指導要領は本「総則」冒頭にもあるように、各学校で編成する教育課程の基準です。それは教科等の「目標」と「内容」の大綱を示すものであって、教育「方法」の大綱を示すものではありません。このことは1976年の最高裁判決も示すところです。
しかるに、本学習指導要領案においては、第1款の2にあるように「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善を通して…目指すものとする。」としています。これは学校現場における教育の「方法」についてまで教育行政の監督の下に置こうとするものであり、学習指導要領の本来の趣旨を逸脱するものです。学習指導要領を戦前の「教則」に近づけようとするものであると言わなければなりません。このように現場の教師の教育の方法にまで監督の強化を可能とするような表現になっているのは大きな問題です。
(2)「第3款 教育課程の実施と学習評価」においては、教育の「方法」についてまで詳しく述べています。これまでの学習指導要領にはなかったことです。しかし、それらは学校現場において教師を中心にして創意工夫にもとづいた実践としてこれまでに行われてきたし、日々行われつつあります。問題は、学習指導要領という行政文書の中で、具体的な「授業改善」の方策として提起していることです。文科省を含め、教育行政側は、これまでのところ学習指導要領に「法規」としての性格を認めています。とするならば具体的な授業改善を「法規」により行わせようとしていることになります。これは教育の本旨から大きく外れるものであるし、1976年の最高裁判決にも反するものです。それとも、学習指導要領についての従来の解釈を変更して、1947年版の「試案」(手引き書)としての位置付けにし直したのでしょうか。
そもそも、教育の「方法」を「教育課程編成の基準」である学習指導要領の中で規定することは不適切であるばかりでなく、このような二重基準を文科省が行政文書の中で採用することは学校現場に無用な混乱を生じさせるばかりです。
(3)第3款の2において、「学習評価」について述べていますが、「学習評価」は学校教育法37条に規定する、「教諭」等の職務権限に属することです。教育学的なフレーズを用いれば授業等と同様に「教育の内的事項」であす。行政当局において「法規」としての性格を有すると「解釈」されている行政文書である学習指導要領で扱うべきことではそもそもありません。
(4)第7款では「道徳教育に関する配慮事項」が書かれています。小中学校と同様に高等学校でも「道徳推進教師」を中心に、校長の方針の下に全教師が協力して全体計画のもとに道徳教育を実施することが記されています。その際に公民科の「公共」と「倫理」を中核として行うように書かれています。しかし、公民科の各科目は独自の学問領域に基づいて構成されているものであり、学問的・科学的知見をもとにその内容が組み立てられているものです。道徳や倫理を扱う際にも批判的かつ科学的な取扱いが要求される領域です。価値観にかかわる「道徳」とは領域を異にするものです。「公共」と「倫理」を中核、ということは何ら学問的・科学的知見に基づくものではありません。教科としての専門領域に対する侵害以外の何物でもありません。誰が、どのようなことを根拠にこのようなことを決めたのでしょうか。この部分については撤回されるべきです。
教科の専門領域の侵害、教科の存立の危機(地歴・公民)
(1)各教科の「目標」の中に「伝統と文化を尊重し…、我が国と郷土を愛する…態度を養う」の文言が何らかの形で入りました。とくにそれが著しいのは、旧社会科つまり地歴科と公民科です。「教科・科目」は「目標・内容・内容の取扱い」の3部構成になっています。中心となるのが「内容」であり、「内容の取扱い」はあくまでもその補足的注釈です。しかし、今回の改定では、「目標」の分量が大きくなり、「内容の取扱い」も分量が大きくなった上、「内容」の領域にも深く及んでいます。つまり、「目標」と「内容の取扱い」によって、異論の余地を残さず、「内容」の取り上げ方がほぼ決まってしまうことになってしまいます。教科の「内容」の統制がさらにいっそう進行し、事実上の国定教科書化にさらに一歩近づいたと言えます。
地歴科の「第1款目標」に「③…多面的・多角的な考察や深い理解を通じて涵養される日本国民としての自覚、我が国の国土や歴史に対する愛情、他国や他国の文化を尊重しすることの大切さについての自覚などを深める。」と書かれ、これが各科目(地理総合・地理探究・歴史総合・日本史探究・世界史探究)の「目標」でも繰り返されます。
公民科(公共・倫理・政治経済)でも同様です。教科・科目の「目標」に入るということは、今後行われる教科書の検定・採択において、その基準とされることを意味します。さらに、各学校における教育課程の編成、実施及び今後行われるであろうその点検に際に大きな力を発揮することが予想されます。
(2)公民科に問題の科目「公共」が置かれます。この科目では、従来の「現代社会」の「目標」に書かれていた「人間尊重と科学的探究の精神」が抜け落ち、「公共的な空間」としての「社会」への「主体的な参画」が強調されます。現代社会の諸課題についてともに考える授業ではなく、「主体的」に「参加」したかどうかが評価の基準になるような授業になります。これはもう、学問領域の何の裏付けもない、勤労動員導入の準備科目と言っても過言ではありません。しかも「自由・権利と責任・義務」という語はあっても「基本的人権」の語が一言もありません。また、「憲法」はあっても「日本国憲法」の語がありません。「国家主権」の語はあっても「国民主権」の語はありません。しかも、これを全員必修にして現行のような「倫理」「政治経済」でも必修代替ということにはなりません。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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