その記事を目にした時、私は55年前に引き戻された。その記事とは、3月12日から3日間にわたって河北新報朝刊の「文化・芸能欄」に連載された『「岩手の保健」編集者 再考 大牟羅良とその時代』である。筆者は盛岡総局の菊間深哉記者。今年で没後20年になる大牟羅良さんの「人となり」を紹介したものだが、併せて、このところ大牟羅さんの仕事を再評価する動きが出ていることを伝えていた。
私が全国紙の記者として岩手県盛岡市の盛岡支局に赴任したのは1958年4月。そこに勤務したのは2年3カ月だったが、その間、取材で多くの人を知った。その1人が大牟羅良さんだった。盛岡市の中心街にあった岩手県国民健康保険団体連合会(岩手県国保連)の職員で、国保連が発行する広報誌「岩手の保健」の編集者だった。
新米記者として仕事になれてきたころ、私は大牟羅さんを訪ねた。というのは、大牟羅さんの初の著作『ものいわぬ農民』が、私の盛岡赴任少し前の1958年2月に岩波書店から刊行され、全国的な脚光を浴びていたからである(同書はその後、日本エッセイストクラブ賞を受賞)。これを機に、その後何度も大牟羅さんを訪ねることになるのだが、そこで私が得た印象は、私がそれまで抱いていた有名人のイメージとはほど遠く、地味で寡黙だった。いつも黒い詰め襟の服を着て、度の強い眼鏡をかけていた。自ら語り出すことは少なく、こちらの質問に、ゆっくりと、言葉を選びながらぽつりぽつりと語った。
大牟羅さんは1909年、岩手県北部の大川目村(現久慈市)で12人きょうだいの6番目、5男として生まれた。父母は小学校の教師。高小卒業後、小学校の代用教員となる。が、無資格のため解雇され、東京物理学校予科(現東京理科大)を修了し、代用教員に戻る。1938年に満州に渡り、協和会中央本部に勤務するが、1944年臨時召集され、沖縄・宮古島へ送られ、そこで敗戦を迎えた。
復員後、盛岡近郊で開墾に従事した後、古着の行商人に。4年間、県内の山村を歩き回った後、1951年、「岩手の保健」編集者になった。
「岩手の保健」の編集は1971年まで続くが、その間、古着の行商と編集者生活を通じて見た農山村の現状をつづった『ものいわぬ農民』を著したほか、岩手県農村文化懇談会がまとめた『戦没農民兵士の手紙』(1961年、岩波新書)の編集にかかわり、さらに1964年には菊池敬一さんとの共編で、戦没農民兵士の妻たちの記録である『あの人は帰ってこなかった』(同)を、1971年には菊地武雄さんとの共編で『荒廃する農村と医療』(同)を刊行した。93年に死去。
私が最後に大牟羅さんに会ったのは1987年の暮れだった。「岩手の保健」がこの年で創刊40周年を迎えたので、大牟羅さんへのインタビューを思い立ち、盛岡まででかけたのだった。
河北新報の連載『「岩手の保健」編集者 再考 大牟羅良とその時代』によると、大牟羅さんが編集者であった時代を中心とした「岩手の保健」の復刻版14巻と別冊が、「大牟羅良生誕100周年記念」と銘打って2009年から順次、金沢市の出版社「金沢文圃閣」から出版された。さらに、連載によると、ここ数年、早稲田大教育・総合科学学術院の北河賢三教授(日本近現代史)らの研究によって、大牟羅さんの仕事に再び光が当たりつつあるという。
なぜ、没後20年もたって大牟羅さんの仕事が見直されるようになったのか。
大牟羅編集時代の「岩手の保健」の復刻版を出版した「金沢文圃閣」の田川浩之代表は連載の中で、こう語る。「戦後の民衆の生活や意識を考える上で、岩手に限定されない価値がある。現代史研究で10年、20年先まで参考にされる貴重な史料となった」。つまり、大牟羅編集時代の「岩手の保健」には、1950年代から60年代にかけての日本の農山村における農民の生活実態や意識が克明かつリアルに記録されており、この時代の歴史を研究する者にとってかけがえのない史料となっている、ということだろう。
別な言い方をするならば、大牟羅編集時代の「岩手の保健」の中身が、岩手という限定された一地域に関するものでありながら普遍性をもつ史料として注目され始めたということだろう。
大牟羅編集時代の「岩手の保健」に登場する岩手県北部の農山村はひどく貧しく、生活環境も劣悪だった。大牟羅さんは、こうしたへき地の過酷な生活を古着の行商をしながら身をもってつぶさに知った。大牟羅さん自身も父、次兄、三兄、妹を結核で亡くし、へき地を転々とした小学校教師で歌人の姉は35歳の若さで病死している。が、誌面ではこうした現実を農民自身に語らせた。
連載は書く。
「『岩手の保健』の特徴は、読者が同時に書き手でもあり、個人や集落の暮らしぶりを直接、伝えてくることにあった。農山村の庶民の生の声をすくい上げるメディアは当時、数少なかった」
「岩保には山麓の開拓地の人々の訴えがあった。『牛を飼う前はモーガルーと鳴くもんだが、飼ってみると、人の方がモウガラネェーって泣きたくなるもんだ』
過重な農作業に貧しい食生活がたたり、家族を次々に亡くした青年。自身も胸膜炎を患い、愛する土を離れざるを得なくなる。その嘆きもあった。『土を欲する故に、持たざるものの土への執着故に、妹が、母親が、そして父親が命を失っていった。私はそれを今泣いてわびている』
かつて北上山地に生きる農民は『もの言わぬ』人々と見なされていた。メディアに取材されることはあっても、自ら筆を執り、生活実態を訴えることはなかった。『わたしゃ外山(そとやま)の日陰のワラビ/誰も折らぬでほだとなる』盛岡市玉山区に伝わる外山節。このワラビのように山陰にうずもれ、黙って一生を終える存在ととらえられていた」
古着の行商を通じて、大牟羅さんは農民の別の面を知る。「柴木がぱちぱちと音立てたり赤く炎が燃え立ったりしているあのいろり端、そこでは生活の中にある悩みや喜びが自分たちの言葉、自分たちの表現で生き生きと語られている」
編集者となった大牟羅さんは、農民自身に「いろり端」の話を書き記してもらおうと考える。それが、「読者よ! これをどう思う?」というアンケートだった。「軍隊体験はどう語られている?」「生活と酒についてどう思う?」「男女間の言葉遣いの相違についてどう思う?」。大牟羅さんは読者に集落内での意見を聞き取って投稿するよう呼びかけた。
連載では、当時、常連投稿者だった瀬川富男さん(80歳)=花巻市・農業=が、こう話している。「俺たちが日常生活を地のままで文章にすれば、取り上げてくれた。解決策は示さないが、みんなで考え、問題意識を共有することが目的だった」
私は思う。大牟羅さんは、東北の山間へき地が貧しさと後進性から解放されることをひたすら願って「岩手の保健」の編集を続けていたのではないか。そのためには、上から「こうすべきだ」と押しつけたりせず、まず「もの言わぬ」農民自身が主体的に発言することが不可欠、と考えていたのではないかと。
菊間深哉記者は、連載の最後を、北上市在住の斎藤彰吾さん(80歳)の次のような言葉で締めくくっている。斎藤さんは大牟羅さんと親交があった詩人だ。「貧しさが生み出され、命が軽んじられる時代に再び、日本が向かいつつある。大牟羅の仕事は今こそ、読み直されるべきだ」
大牟羅さんの仕事が再び評価されるようになった時代的背景を的確に指摘している。私はそう思った。
岩手県国保連によると、「岩手の保健」は今なお年に3回発行されており、最新号は208号だそうだ。
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