(2024年2月11日)
どの民族にも伝承されてきた神話がある。それぞれの神話は、個性豊かな古代社会の成り立ちや往時の人々の生活のあり方を映すものとして、耳を傾けるに値する。面白く興味は尽きない。が、近代に至って権力によって語り直された異形の「神話」は、権力の思惑を露骨に反映した薄汚さを払拭できない。当然のことながら、後世に作られた国家神話には警戒しなければならない。
王権神授説の根拠に利用された神話や伝説の類がなべてそのような薄汚いものであるが、維新政府がでっち上げた万世一系神話の醜悪さは際立っている。荒唐無稽な天皇の祖先神にまつわる神話が、ことさらに歴史と混同されて、近代天皇制を権威付ける根拠として再利用された。紀元節は、日本という国家の起源を、実在しない神話上の初代天皇の即位の日を恣意的に推測して決められた。何の根拠もない国家の起源は、国家の存立そのものの危うさ、はかなさをよく表している。
どの時代のどの出来事をもって、現国家の起源とするか。極めてイデオロギー色の濃い作業である。天皇の権威を最大限に活用しようと試みた維新政府が、天皇神話を活用して架空の神武即位の日をもって紀元節を定めたことは、異とするに足りない。政府は天皇を教祖ともし現人神ともする新興宗教としての国家神道(「天皇教」)を創設し、その信仰を国民に押し付けることによって新たな国民国家を形づくろうとした。当時、天皇くらいしか、手持ちの国民統合の方法を思い付かなかったのだろう。しかし、戦後は事情が異なる。初代天皇の即位日を国家の起源とする必然性はない。むしろ、そうしてはならないのだ。「建国記念の日」を制定して紀元節を復活させたのは、愚策としてこれに過ぐるものはない。
戦後に建国された「日本国」は、戦前の「大日本帝国」とは原理原則をまったく異にする別異の存在である。むしろ正反対の相容れぬ存在と言ってよい。主権原理も、国家が尊重すべき最大の価値観も、180度転換した。日本国憲法上、公務員の一人として天皇は残されたが、これは日本国憲法体系の中の不協和な夾雑物に過ぎない。日本国憲法における人権原理や民主主義原理、あるいは人間平等原理の不徹底の汚点である。その天皇を万世一系と持ち上げ、実在するはずもない初代天皇の架空の即位日をもって「建国記念の日」とするのは、烏滸の沙汰というほかはない。
日本の社会と自然、そして民族的なアイデンティティは、敗戦を挟んで戦前と戦後が連続していることは当然である。しかし、国家は断絶しているのだ。主権者は天皇ではなく国民になった。政治の手法は中央集権ではなく、民主主義と分権になった。国是は、富国強兵ではなく国際協調と非武装平和になった。何よりも、個人の尊厳が至高の憲法価値となり、国家が個人の思想を束縛することは許されなくなった。
にもかかわらず、「建国記念の日」を紀元節と同じ日に? いまのご時世に? 天皇と国家が一心一体だと? どこのどなたのご冗談?
初出:「澤藤統一郎の憲法日記 改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。」2024.2.11より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=21385
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion13548:240212〕