謝罪は難しい。財産的被害に対する償いであれば、金銭の賠償で済ませることもできよう。しかし、被害者の人間としての尊厳を踏みにじった加害者が、その誠実な謝罪によって被害者の赦しを得ることは、この上ない至難の業である。至難の業ではあっても、道義を重んじる立場を世界に宣言した日本は、その国家の名誉にかけ全力をあげてこの崇高な行為を達成しなければならない。
そのような視点から昨日(12月28日)の「従軍慰安婦」問題に関する日韓外相合意を眺めて、あれが被害者・被害国民への真の謝罪となりうるとは思えない。到底これで問題解決ともならない。その理由をいくつか挙げてみよう。
まずなによりも、韓国政府がこの問題での被害当事者を代理する権限を持っているのか甚だ疑わしい。元「慰安婦」とされた当事者の意向を確認せずに、「最終的かつ不可逆的に解決する」ことなどできようはずはない。これまでも、国家間の戦争責任に関する解決合意が個人を拘束する効力を持つか否かが激しく争われてきた。今回のようなどさくさ紛れの国家間の政治決着で、被害者個人の精神的損害が慰謝されるはずもなく、人間の尊厳が修復されたとして納得できるはずもない。
謝罪には、対象の特定が必要である。何をどのように悔いて謝罪しているのか、その表明における明確さが道徳的悔悟の誠実さのバロメータとなる。今回の合意における謝罪は、そのような誠実さを表明するものにはなっていない。
「最終的かつ不可逆的に解決する」との合意内容は、日韓両国の信じがたい不誠実さの象徴というほかはない。
「これから私はあなたに謝ることにしよう。但し、これ一回限りと心得てもらいたい。二度と謝罪を要求しないという条件がついているから謝罪するんだ。私はこれ以上二度とは謝らないし、あなたの方も蒸し返すなどしてくれるな。」
そう言っているのだ。いったい、こんな謝罪のしかたがあるだろうか。こんな上から目線の謝罪を受け入れる被害者がいるだろうか。国家間の政治決着だからこそ、こんな不条理がまかりとおるのだ。
試されているのは、加害者側の誠実さである。真の宥恕を得るためには、ひたすらに被害者の心に響く誠実さを示し続け、その誠意を受容してもらうよう努力を重ねるしか方法はない。
これまで村山談話や河野談話を否定しようと画策してきた前歴を持つ安倍晋三が、「責任を痛感」「心からのおわびと反省」と口にしても、謝罪の誠意は伝わらないだろう。日本国民が、安倍のような歴史修正主義者を首相としている限りは、真の宥恕を得ることは無理ともいうべきだろう。
戦争と植民地支配とのさなかで生じた、加害・被害の歴史的事件。これは、拭っても拭っても消しようがない事実なのだ。われわれは、その事実を偽ることなく認識し、記憶し、忘却することのないよう語り継がねばならない。それこそが、不誠実な政府しか持ち得ない日本の国民として、われわれが歴史と向き合う誠実な態度だと思う。
(2015年12月29日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2015.12.29より許可を得て転載
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