ポスト3.11―原発震災後の日本―を考える ②
この数日「この震災からどう復興をしていくか」という議論が始まりつつある。「復興院」だの、「復興構想会議」などという話が聞こえてくる。しかし、ちょっと待ってほしい。
「復興」なんていう前に、日本人は「ガラクタ」を片づけるべきではないか。こう言うと「いや、もう被災地の瓦礫は大分片付けられていますよ」と言われるかもしれない。しかしここで言っているのは、モノの話ではなく人間の話だ。
今回の震災がただの「天災」なら、こんなことは言わない。しかし「原発震災」は、明らかに「人災」だ。
そもそも「原発震災」は、相互に独立しているはずの「組織」―「官僚」、「政治家」(与党も野党も)、「学者」、「電力会社」、「マスコミ」など―が、一つだけでもマトモであれば、防げたはずのものだ。
しかし、権力の側にいるものたちは、これほど天地を穢したのに、いまだに何の反省もないようだ。彼らは、この国をここまで追い詰めても、まだ自分たちが「エリート」であることは揺るがない、と思っているのだろう。
そうでなければ、どうして、いまでもなお高い放射能の中で人々が立ち往生している、などということが起こるだろうか。どうして幼児や妊婦にまで、国際基準より数十倍も緩い基準さえ超えて汚染された水や食べ物が与えられるだろうか。
原発震災は「現在進行形の人災」であり、「社会のシステム」そのものがもたらした「社会的犯罪」だ。
こんな風にいうのは、アジテーションだろうか?そんなことはない。
「欧米、とくにフランスを筆頭とした国々は、日本のことを悲惨な震災に見舞われた被災国というよりも、原子力エネルギーを管理できない核犯罪国家とみなし始めている」。http://diamond.jp/articles/-/11689?page=5
じっさい3月30日付け「ル・モンド」の記事―Philippe Ponsによる―の標題は、「危機は国家と専門家達を失墜させた」というものだ。そしてこの記事は「現在のエリート達にはもう服従しないという意識変革なしでは、日本国民の未来はない」で結ばれているのだ。http://www.francemedianews.com/article-70549283.html
同じくル・モンドの「福島、この批難すべき沈黙」(3月26日)は、「この惨事の吐き気を催させるような背景が今浮かび上がってきたのである。「原子力ロビー」と呼ぶ権力が 」と言う。「省庁、監視機関、原発建設会社と事業社の間での大規模なこの共謀行為は、反対派の口を塞ぐだけでなく原子力に関するすべての疑問を撤去する。・・・怠慢と省略による欺瞞、あるいは純粋なる改竄によって撤去するのである」。
http://www.francemedianews.com/article-70295007.html
まさしく、「吐き気を催させるような原子力ロビー」が支配している日本は、「省庁・監視機関」と「原発建設会社・事業社」とが「大規模な共謀行為」を行う『犯罪国家』だ。
こうした『犯罪国家』はその国民にとって災厄であるだけではない。原発推進をめざす欧米の諸国にとっても、日本の「原子力ロビー」は、もはや迷惑な存在でしかない。
フランスもアメリカも「原発をあのサルたちの勝手にさせるべきではなかった」と愚痴をこぼしながら、日本へアドバイスをした。ところがなんと日本の『エリート』たちはこれを拒否したのだ。「いつまでも海水なんか注入し続けて居やがる。これは脅かすしかない」、これが3月下旬、彼らが下した結論だっただろう。
日本は、かつての戦争当時すでに西欧に匹敵する航空機や艦船を作っていたし、戦後も高速鉄道や自動車をはじめ大量の工業製品を作ってきた。こうした技術は本質的には西欧の模倣だろうが、たとえ模倣であっても、技術の分野では、日本は「西欧化」に成功したわけだ。今回の原発震災も「技術」が本当の問題ではないだろう。
しかし社会システムのほうはどうか?3.11の原発震災で、答えは誰の目にもあきらかになった。
近代の日本の社会システムが最初に破綻したのは、太平洋戦争だったが、今回、日本は同じ過ちを繰り返しているようにみえる。しかもあの時代については、ファシズムの歴史的な必然性を考慮しなければならないだろうが、今回は違う。3.11「原発震災」は、近代日本の『組織の論理』のほとんど純粋な帰結といえる。
近代システムは、それ以前と比べて巨大な社会的な生産力や暴力を動員するが、こうした生産力や暴力の獲得は、技術を導入・獲得すれば可能となる。しかしこうした生産力や暴力の制御には、まったく別の次元の能力が必要だ。
生産力や暴力の制御には、専門性を超えた「知性」や「理性」あるいは「倫理」が、「国家レベル」で必要とされる。これは『精神主義的な話』ではない。問題にしているのは、近代システムが必要とする『装備』としての「知性」や「理性」あるいは「倫理」だ。
飯田哲也氏は「原子力村」という言葉を使っているが、これは「原子力における産官学の利益共同体」であり、「全体が利益共同体であり、かつその内部が意志決定中心のない」共同体だ(注)。そしてさらに、この「ムラ」は「理性」あるいは「倫理」などの『普遍的なもの』には基づいていないだけでなく、逆に『普遍的なもの』をたえず排除・解体することによってのみ成り立っている。
この「原子力ムラ」が日本の多くの「ムラ」の一例であることはいうまでもないが、さらに注意すべきは、この「ムラ」が日本の『近代化』によって創造されたものであるという点だ。
「原子力ムラ」の中核を構成するのは旧帝大出身の官僚や学者や民間人たちだ。旧帝大は「西欧技術・制度を導入する」システムの要だが、こうした『近代』システムそれ自体が、日本を「ムラの連合」として再構成し、それ自体が「ムラ」となったことは、誠に皮肉なことだ。『近代化』の進展こそが、日本がもっていた「普遍的なもの」、「ムラならざるもの」を解体してきたのだ。
その結果、いま日本列島を覆っているのは、官・学・財・政・労そしてマスコミ界をまたがる「ガラクタ」である。
もちろん、私たちも「復興を!」と言わねばならない。
しかしそれは、なにより「普遍的な人間の復興」の意味においてである。そしてそのためにもまず、「ガラクタ」を片づけなければならないのだ。
(注)飯田 哲也氏の「原子力村の解体と市民社会の再構築 ~『不毛な対立』から『希望の未来』へ」による。
http://trust.watsystems.net/ronza.html
以下長文となるが、さらに引用させていただく。
「多くの人が敗戦を自覚しているのに誰も言い出せないまま破局に至るという構造は、まさに太平洋戦争末期の状況に酷似していると言えよう。しかも単に状況が似ているというだけでなく、意志決定中心がないために大きな政策転換ができなかったムラ社会という社会構造は今も全く変わっていないのである。」
「原子力政策については、形式上は、科学技術庁長官を委員長とする原子力委員会の諮問を受けて、総理大臣が決定する構造になっている。しかし、明らかに総理大臣は建て前としての権限を持っているだけで、実質的な政策決定中心ではない。一方、原子力委員会も、その下に連なる数多くの専門部会やさらにその下の分科会から提出されてくる報告書を承認する機関にすぎず、五人の原子力委員の誰一人として実質的な政策決定権限を与えられている者はいない。原子力委員は、通産省の管理下にある総合エネルギー調査会原子力部会など周辺にある場の雰囲気を読みとりつつ、下から積み上げられてくる報告(これも実は場の意志を文章化したもの)の微調整を行う、いわば『場の管理者』ともいうべき役割を担っているにすぎない。そしてその『場の管理者』といえども、原子力村という場が生み出す空気に逆らういかなる権限も与えられていないのである。」
(本稿はhttps://chikyuza.net/archives/7901 の続きです。)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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