「性の商品化」の行方・そのⅠ 『限界から始まるー鈴木涼美・上野千鶴子、往復書簡』から

書名『限界から始まる』とは?
 鈴木涼美氏とは、本書の著者紹介から概略を掲げておこう。
― 1983年生まれ。作家。慶応大学、東京大学大学院修士課程修了。大学在学中にキャバクラのホステス、AV女優などを経験。その後日経新聞社に記者として勤務。のち自主退職。現在は作家。デビュー作は『「AV女優」の社会学』。
 一般的には、AV女優やセックス産業に従事している女性と、慶応大・東大大学院という学歴とは結び付かない。しかも、セックス絡みの仕事をしていること、あるいはしていたことは、普通は大っぴらにはしないことだ。ところが、彼女は東大院生の時の論文テーマが、自分の経験を題材にしての「「AV女優」の社会学」であった。
 一方の上野千鶴子氏の説明は不用だろうから省くことにする。この二人の「往復書簡」と言われれば、何はともあれ興味はくすぐられる。どういう「性をめぐる議論」が展開されているのかと。
 それにしては、『限界から始まる』という書名は、何とも地味である。(ついでに言えば、表紙も装丁も地味だが。)幻冬舎という書店の「ゆとり」なのだろうか。
 実際は、鈴木氏が明かしているのだが、この題名になった経緯は次のようなことだった。
 まず、最近、鈴木氏の方から上野氏に自著を送ったそうだ。『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』(講談社、2020)。その時の上野氏のコメントが、「こういうタイトルが使えるのは、もう限界ですね」だったとか。
 30代とはいえ、「アラフォー」世代でもある鈴木氏に対して、「これまで」と「これから」を意識的に問うことを、上野氏は暗に迫ったのかもしれない。
 もちろん、これ以外にもタイトル案がいくつも挙げられたそうだ。
 「男たちよ!」
 「男たちは信頼できるのか?」―(帯):「セックスワークと引き換えに失った男への信頼。それでも対等な関係を求めて、闘いをあきらめない女たちへ、そして男たちへ」
 「もう被害者にも加害者にもならない」— 構造と主体の隘路を駆け抜ける女たちへ
 
 ともあれ、この「限界から始まる」という地味なタイトルの下、鈴木氏の正直な疑問や質問が提示され、それに対して、上野氏も真っ正直に、自分の体験も披露しつつ意見を返している。「男と女」「愛と性」「資本主義と性の商品化」・・・等々、テーマは普遍的であり、かつ深い。

鈴木氏の「男と性」への蔑視
 鈴木氏と上野氏、両者に共通するのは、社会的・経済的に恵まれた家庭で育ったこと、いま一つは、娘として、「知的な母親」あるいは「愛情深い母親」との緊張関係や「母親を困らせる」欲望を持っていた、ということもあるようだ。育った家庭や、父親・母親との関係は、それこそ人さまざま・・・、だが、この点では両者は珍しく共通している。
 鈴木氏が、どのような経緯で「ブルセラショップ(ブルマ・パンツやセーラー服の売買)」に近づいたのかは分からないが、ともかく高校生の時の次のような経験が、良くも悪くも彼女の原点になっている。
― 初めて男性とセックスを経験するよりも前、・・・私は渋谷のブルセラショップで下着を売る高校生でした。/男性は見られていないと思って安心し、そこでマスターベーションを始めます。私がさっきまで穿いていたパンツを被って、ルーズソックスを首に巻き、ブラジャーの匂いを嗅ぎながら自慰行為をしている存在、それが私にとって性的な存在としての男性のイメージの根元にあります。・・・この関係の理解から、私はおそらく根本的なところでいまだに抜け出せていません(p.62-63)。
 このような、男の「奇態な」性欲情の現実を見ながら、鈴木氏は、自分の女の「若く・美しい」身体を「利用しない」手はないぞ、と思うようになっていく。
― セックスそのものを楽しもうという気は全くなく、それによって何かを得たい、得られなければ勿体ないという気持ちでいました。上司と寝て条件の良い仕事をもらうとか、有名人と寝てハクをつけるとか、かっこいい先輩と寝て彼女の座につくとか、お金持ちと寝て優雅な生活を送るとかいう欲望はあっても、セックスそのものの快楽を求めたことも、よく言われる愛の行為だという感覚もありませんでした(p.115-116)。
― 私にとっては、慶応生や東大院生をしながらAV女優であるということで、取り急ぎ「可愛がられるし尊敬もされる」を文字通り体現していることが重要でした(p.150)。
 
 以上のように、鈴木氏は、男性の「性欲情」の現実に呆れ軽蔑しながらも、自分からは「主体的に」、それらを「利用」して生きる術を獲得している。だから、自分が「汚れている」とか「被害者」だとかの意識は絶無だ(だった)という。
 しかし、年齢を増すことによって、「性の商品」として価値は自ずと目減りしていくことに気づく上に、少なくも「社会学」に携わっている以上、「自分の自信」は「男性への蔑視」に裏打ちされていることに気づかされていく。つまり、「男性への蔑視」を前提にしての「自分の自信」とは・・・が自問されてくるのだろう。
 そこで、上野氏にしつこく尋ねることになる。「上野さんは、なぜ、男性に失望しないのですか?」と。

「なぜ、男性に失望しないのか?」
 上野氏は、次のような意見を返している。
― 男にも(女にも)高潔なひとも卑劣なひともいます。同じ人格のうちにも、高潔なところも卑劣なところもあるでしょう。・・・
 「しょせん男なんて」という気は、わたしにはありません。「男なんて」「女なんて」というのは、「人間なんて」と言うのと同じくらい、冒涜的だからです。・・・/尊敬できる男女には書物のなかで出会うことができます(p.260)。
― ひとを信じることができると思えるのは、信じるに足ると思えるひとたちと出会うからです。そしてそういうひととの関係は、わたしのなかのもっとも無垢なもの、もっともよきものを引き出してくれます。ひとの善し悪しは関係によります。悪意は悪意を引き出しますし、善良さは善良さで報われます。権力は忖度と阿諛(あゆ)を生むでしょうし、無力は傲慢と横柄を呼び込むかもしれません(p.261)。 
 
 う~ん、ようやく鈴木氏への質問に答えた上野氏。だが、「本を、もっとよく読むことです」「もっと多様な(豊かな)人との関わりをお持ちなさい!」とも読めるし、あまりに一般的な、素っ気ない返答に見えなくもない。
 しかし、鈴木氏は真面目に受け止めている。それは、かつて読んだ河合隼雄の文章の中の「(性の売買に関わることは)魂に悪い」という一言が、胸にひっかかっていたからだという。と同時に、「「男なんて」というのは、「人間なんて」と言うのと同じくらい、冒涜的だからです」という上野氏の言葉が、真っすぐに鈴木氏に突き刺さったようだ。
 「滑稽」というか「低次元」というか、そういう男性の戯画化された性欲の一面を見ることによって抱いてしまった「男性蔑視」。しかし、そういう「男性」や「性文化」を利用しながら、同じ次元で付き合っている自分・・・おそらく、鈴木氏は、自分の中の「自己蔑視」に早くから気づいていたのであろう。「私も、同じ穴のムジナ?」
 と同時に、それは、すべての他者に対する「リスペクト」が捩じれてしまうことでもあり、「絶対的な孤独」を生きなければならない、とも?・・・。
 こうして、鈴木氏は、上野氏の言葉で、「魂に悪い!」ということの意味を、改めて納得し、深めていく契機を得たようである。
 それでもなお、次のような言葉を付け加えている。
― 私がブルセラ少女だった時、大人たちはそれを禁止したり戒めたりこそすれ、禁じられるべき明確な理由を教えてはくれませんでした(p.278)。
 
 鈴木氏の、この身近な大人たちへの恨みは、おそらく真実だったのだろう。しかし、鈴木氏よりも丁度40歳年上の私からすれば・・・「もう高校生だったのでしょう?!」と嫌味を言いたくなる。それほどに、子どもたちが育つ環境が変わってしまった、ということなのかもしれない。
 敗戦が2歳。したがって、遊び回る子ども時代は戦後の10年間。まだまだ貧しくいろいろな物は乏しかった。しかし、周りに畑や田んぼ、川も池も近くにあった。いろいろな虫や生きものも、近くにうろうろしていた。私たちが子ども時代、「生きものの性や生殖」は、学校で教師に教わることなく、ともかく「奇妙だが神妙なもの」として受け止めていたようだ。生殖中(さかっている!)のトンボやカタツムリもよく見かけた。
 と同時に、自分の弟妹でなくとも、近所の赤ん坊の世話も頼まれたり、遊びの相手にもなった。懐いて来る子どもは可愛い。赤ん坊も懐くと、ダッコをせがんだり、くっついてきたり、なでなでしたり・・・要するに「スキンシップ」なのだが、人間の「可愛い」という感情が、お互いの身体接触を限りなく求めてしまう。犬や猫とも同じだ。
 感情や愛情と身体接触との近さと正比例、嫌なモノには近づかない・・・そんな素朴な「性」にも連なる原点としての生きものや人間との関わりが乏しい現代、男の子はいきなり「女の裸」と「オッパイ」を、雑誌や映像で見ながら育つ。
 この辺りは、「性」や「生殖(性行為)」に絡む幼少期、あるいは学童期の環境と「教育」の問題に発展し、今回の「往復書簡」の紹介とはかけ離れていくので、とりあえず中断する。
 次回は、大人世界での「性の商品化」に焦点を当てて、お二人の意見を辿って行こうと思う。
  ※『限界から始まるー鈴木京美・上野千鶴子、往復書簡』幻冬舎2021・7

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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