並大抵ではない「性の商品化」批判
私は前回、「次は『性の商品化』に焦点を当て、お二人の意見を追って行こう」と書いてしまったが、その後、密かに後悔している。
なぜなら、「性の商品化」とは具体的に何を、どこまでの現象を意味するのか、ということを規定すること自体が難しいからである。また、たとえ枠づけし規定し得たとしても、それを普遍的かつ適切に「批判」することはかなり難しいだろうからである。
かつてのように、貧しい農家の娘たちが、親の手によって廓に売られ、自分の意志に関わりなく客の性的な相手を強いられていた「人身売買と売春行為」(戦前の日本では、売春婦の登録と性病チェックという形で公の管理下に置かれた=公娼制度)は、明らかな「人権侵害」として糾弾することは可能である。
しかし、1948(昭和23)年制定の「風俗営業取締法」によって、いわゆる「性交以外の性的サービス(いわゆるホンバンでない行為)」を提供する「風俗店」という名の「性関連」業種がともかくも法定されたのである。「性交=要するに膣に射精?!」と「性交以外の性的サービス(「相互の性的な行為」ではなく「サービス」という一方的行為を表わす言葉に着目!)に分離する発想や、常に「違法とされる」「ホンバン」が「必ず」法の網目を潜って用意されているという「ザル法」でもある。
さらに、1956(昭和31)年には「売春防止法」(名称も「売春禁止法」ではない)が制定されるが、法律自体の曖昧さや、先の「風俗業・風俗店」などによって、女性の(当初は、後ろめたさを抱えつつの、いまはかなり開き直っているか、「利用主義的」か)「稼ぎの場」として、またその結果としての、男性の買春行為自体は野放しとなっている。
事実、この通称「風営法」は、1984(昭和59)年改正によって、法律名が「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」に代わる。また、1998(平成10)年の内容の大幅改正によって、出張マッサージ、デリバリーヘルスの解禁、無店舗型の営業、インターネットでのアダルトビデオ等々へと広がり、ひとときの「援助交際」や現在の「パパ活」もこれらに含まれるだろう。
多様な性的欲求に基づく「需要」と、それに応じる「供給」、それぞれが「自己選択」「自己決定」で成り立っている現実に、傍から「それはオカシイ!」「魂に悪い!」と叫ぶことはできても、おそらく「余計なお世話!」「引っ込んでろ、ババア!」と鼻で笑われるか無視されるのがオチだろう。
それでも、私は、改めて「風俗営業法」および現在も生き続けている「売春防止法」の丁寧な跡づけと批判は必要だと思っている。天皇制や「家族・結婚」をめぐる「戦後民主主義」の宙づり状態と同様、「性をめぐる民主主義!」もまた、真面目な議論すら素通りされてきているからである。
さらに、当人たちは「また登場できて嬉しいです!」などと、嬉々として応じている『少年チャンピオン』などでの、AKB48やけやき坂46などの少女たちのビキニ姿のグラビアなど、それは明らかに「男性の性的視線」に応じたポーズを取らされている、と私は感じるし、「見るに堪ええない」。佐藤優氏もまた、それらに対して、「児童ポルノという認定にならないとしても、児童への性的搾取になると思う」と述べているが(佐藤優・北原みのり『性と国家』河出書房新社、2016)、ただ、それらの問題提起や批判に対しても、軽く「好みの相違」と片づけられ、なかなか「批判」として届かせるのは難しいだろう。
資本主義と「性の商品化」
上野千鶴子は、資本主義とさまざまなものの「商品化」について、本書で次のように述べている。
― 性が経済的対価を伴って市場で交換されること・・・市場というのはそんなものだろう?ありとあらゆるものを商品として飲み尽くしていくのが資本主義だろう?というニヒリズムにわたしは与しません。資本主義は「自由な労働者(労働力を売る以外に生きる手段のない賃労働者)」から成る労働市場を生み出しましたが、その「自由」は制約されていました。労働者は資本家と「自由」な契約を結びますが、債務奴隷になる「自由」は禁止されています。・・・つまり資本主義の交換可能なものには限界があり、あらゆるものが商品になるわけではないのです(p.137)。
確かに、資本主義は「生身」の人間を抽象的な「労働力」として売買の対象にしたが、それは、かつてのような「際限のない」奴隷状態に置くことではない。労働者には、当然つねに「闘い」が留保された形での「団結権」や「交渉権」が認められている。その限りでは、上記の上野千鶴子の指摘は間違いではない。しかし、「性の商品化」という現実に対しては、やはりかなり楽観的ではないのだろうか?
現実は、これまでの「常識」をはるかに超えて進展しているのだ。誰が一体、「若い女の子の使用済みパンティ」にそこそこ値が付き、またそれを「チャンス」とばかりに「売る」女性(中高生)たちが出て来ると想定しえただろうか。
鈴木涼美の男性不信とセックス蔑視
前回、鈴木涼美の根強い「男性不信・軽侮」の発端が、高校生の時の渋谷のブルセラショップであったことはすでに紹介した。
その時、客の男性に「この娘!」と指定され選ばれることの優越感と、自分の先ほどまで穿いていたパンツを被り、ルーズソックスを首に巻いて自慰行為をする男性の姿をマジックミラーを通して見てしまった「衝撃」?!・・・この時の経験を、彼女は「私は16歳で、下着と尊厳を『どぶに捨て』ました」と書いている(p.62)。
それでいながら、彼女は他の場面では、「結婚で交換されるものが自分の日常に浸食する度合いを考えれば、単品としてのセックスは日常から切り離して刹那的に売り物になる便利なものです」、「セックスを大切に保管している女性に対して、それを粗末に扱える自分は優越感を持っていられます」(p.117)、さらにまた、「私にとっては、慶応生や東大院生をしながらAV女優であるということで、取り急ぎ『可愛がられるし尊敬もされる』を文字通り体現していることが重要でした」と述べている(p.150)。
前半の「自分の尊厳をどぶに捨てました」という自嘲気味な文脈と、後半の自信や優越感に満ちた記述は、果たして彼女の中でどのように共存しているのだろう。
家庭的、経済的、また知的にも身体的にも何らの不足も感じられない鈴木氏が、「高校生にもなって」なぜ、自分の穿いていた下着を売る気になったのか・・・上野千鶴子はそれについては疑問を向けてはいないが、私はやはり、前回指摘した通り、どうしても納得がいかない。お金が行き来し、お金で売り買いするのが当たり前の社会に生きているとはいえ、私たちは、「買ってはいけないもの」「売ってはいけないもの」の区別と感覚は、あえて他人から指摘されなくとも、自ずから身に付けていくものではないのだろうか。
高校生にまでなって、飢え寸前、という状態ではありえない時、「自分の穿いていたパンツ」をお金に換える?・・・そのような行為を思い浮かべるだけで、自分への「おぞましさ」がなぜ襲ってこないのだろうか?
また、それが男性の自慰行為に使われることくらい、当たり前に生きていれば、想像がついて当たり前ではないのだろうか。しかも、自慰行為というプライベートな世界、その姿を見れるように仕組んだ装置・・・それらの仕組みを考えた人、その利用者ともども、みな共犯であろう。
しかし、鈴木涼美は、自らの「浅ましさ・おぞましさ」を棚に上げて、なぜ男性の「滑稽さ・不様さ」だけを強烈に胸に抱いたのであろうか。
ともあれ、難しい勉強を経なくとも、当たり前に生活し成長する過程で、なぜ、「お金に換えてはならないこと」「お金を貰えば恥ずかしいこと」が共有されていないのだろう。そのような、ある意味「無感覚」な若者が育っている時代や社会こそ、私にとっては空恐ろしく、衝撃的である。
鈴木涼美氏の「自己課題」とは?
しかし、鈴木涼美にとって、この往復書簡はとても意味あるものだった、と次のように述べている。
― 上野さんとの対話を通じて、多くの男性に対して、どこか侮蔑的な気持ちを持っていたこと、男の根底にある欲望が変わらないことを絶望視して、態度を改めようとしている男性たちに冒涜的な態度をとってきたことを反省しました。多くの男性は、女子高生の私がマジックミラー越しに見ていた姿よりはずっと理性的で健気だったのだろうと思います。/それに気づかされたことによって、私が個人的に自分に課している、売春や自分の性の商品化を否定するとしたらどんな言葉が紡げるか、という問題にも光が少し見えました(p.310)。
これはこれで、鈴木涼美のこの往復書簡の成果だろう。
だが、いきなり「売春や自分の性の商品化を否定」と、一足飛びに行かないでほしい。その前に、鈴木涼美氏自身の「来し方」のいま少し丁寧な振り返りを重ねながら、現代社会に蔓延している買・売春の実態、「性の商品化」の実情、そこに群がる少なくない男女、年配から若者までのあり様など、いま少し丁寧に追いながら、「性の商品化」とは何か、いかにすればそれらを減らすことができるのか・・・を、ともに、じっくり考えて行けるといいと思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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