「憎悪」を放置してはいけない

東京や横浜の公立図書館で、アンネ・フランクに関わる本が破られたり切り裂かれたりする事件が昨年から相次いでいたことが明らかになった。被害を受けた図書館は40近く、損壊された本は300冊を上回るという。先ごろ、事件に関わったとされる若い男が逮捕されたが、犯行の動機や背景はいまのところ分らない。が、これがいわゆる「ヘイト・クライム(憎悪に基づく犯罪)」に類するものであることは間違いあるまい。

  半世紀以上前、世界中でベストセラーになった少女の日記とその著者にまつわる本を対象に、いまなぜこうした行為が行われたのか、合理的な説明は見つからない。ただ、多少の想像力を働かせれば、それが、最近目立ち始めた在日韓国・朝鮮人やその他の外国人に対する「ヘイト・スピーチ(憎悪表現)」と、それを許容してきた日本社会の空気と無関係でないことは感じ取れる。

 

侮辱、排外むき出しのデモ

 民族や人種、国籍、宗教などでくくられる人々を対象に誹謗、侮辱、排斥、差別するなどを表現する行為が一般的にヘイト・スピーチとされ、そうした感情に基づいて実際に人に危害を加えたり、器物を損壊したりするに至ればヘイト・クライムと考えられる。黒人差別やユダヤ人排斥の歴史を持ち、他地域からの多数の移民を抱える欧米諸国では非常に敏感な社会問題としてとらえられている。

  日本ではこれまでそれほど深刻に問題とされることはなかったが、ここ数年、ヘイト・スピーチの事例が各地で顕在化するようになり、特に昨年は一段と組織化された、規模の大きな行動が目立つようになった。

  もっとも顕著だったのは、在日韓国・朝鮮人らに対する侮辱的、排外的意図をむき出しにしたデモで、在日の人たちが多く生活の基盤を置く東京・新大久保や大阪・鶴橋などで繰り返された。デモの参加者たちは「韓国人を殺せ」「半島人は朝鮮へ帰れ」「害虫駆除」などといった侮辱的なプラカードを掲げ、文章にするのもおぞましいスローガンを叫んでいる。

  これらのデモを組織する中心的存在は「在特会(在日特権を許さない市民の会)」と呼ばれる団体で、2007年に設立されたあと、インターネットを通じて支持者、会員を増やし、14年3月現在、会員数1万4千人余、35支部と称している(会のウェブサイト)。在特会は当初、京都の朝鮮第1初級学校に押しかけ、拡声器を使って侮辱的スローガンをがなり立てるなどの街頭宣伝を中心に活動していた。

  この朝鮮学校に対する街宣活動について、京都地方裁判所は13年10月、これらの活動が単なる不法行為ではなく、人種差別に当たると認め、1220万円の損害賠償を命じるとともに、学校の半径200メートル以内での街宣活動を禁止する判決を言い渡した。この判決は、司法が「人種差別」を根拠にヘイト・スピーチの違法性を認めたものと評価され、ヘイト・スピーチへの抑止効果が期待された。しかし新大久保や鶴橋などでのデモはその後も続いている。

 

消極的な政府の取り組み

 日本国憲法は、あらゆる言論活動を含めて表現の自由を最大限保障している。しかし言論活動が他者の権利を著しく侵害することになれば、当然のことながら、その活動が制限されるのもやむを得ないだろう。

  「在特会」と行動を共にする人たちのデモや街宣活動は、普通の市民の感覚では、正常な言論活動の範囲をはるかに超えている。特定の民族に対する誹謗、中傷、聞くに堪えない罵詈雑言は、その対象とされた人たちから見ると、単に屈辱や怒りの感情を超えて恐怖と絶望さえも引き起こす。「殺せ」「叩き出せ」「死ね」といった呼びかけは明らかに暴力行為をそそのかし、あおる危険もはらんでいる。

  こうした言動を「表現の自由」の名のもとに正当化することはどんな理屈をつけてもできそうにない。しかし2014年の日本の現実は、そうした「自由」を事実上許容している。これは法治国家としてひどくおかしなことではないか。

「許容などしていない」との異論があるかもしれない。しかしデモは相変わらず続けられている。これまで同様、口汚い罵りや脅迫に等しい暴言が繰り返されても、これらの言動そのものが取り締まられる気配はない。取り締まるための条例や法律を整備する動きもない。何より政府がこれらの街頭活動を厳しく非難する姿勢も見せていない。政府の取り組みはどう見ても厳しさに欠ける。

ヘイト・クライムやヘイト・スピーチは人種差別撤廃条約や自由権規約などの国際条約で厳しい規制の対象になっている。日本は1979年に自由権規約を批准し、ヘイト・スピーチを禁止する法的措置を講じる義務を負っているが、30年以上、何の措置も講じていない。人種差別撤廃条約については1995年に加盟したが、いまだに批准していない。この問題に対する日本政府の取り組みのいい加減さを裏付けている。

 

腰の引けたメディア

メディアにもヘイト・クライムやヘイト・スピーチに対する毅然とした姿勢があまり見受けられない。新大久保や鶴橋で執拗に繰り返されるデモや街宣活動も、新聞やテレビでは取り上げられることが少なかった。他民族や少数派に対する差別的侮辱的言動を取り締まるための法整備を促す主張も、新聞の論説にはあまり聞かれない。「表現の自由」の呪縛の前に、腰が引けているように見える。

報道機関が「表現の自由」の制限につながる問題では慎重にならざるを得ないのはわかる。自民党が将来の憲法改正で「公益」や「公共の秩序」を理由に表現の自由を制限しようとしていることを考慮すれば、なおさら警戒心を高めねばならないことも確かだろう。

しかし他方で、常軌を逸したデモや街宣が続けられ、それによって屈辱や恐怖を味わって深く傷ついている人たちが間違いなくいるとすれば、現状を放置しておいていいわけはない。自分たちを被害者の側に置いてみれば、これらのヘイト・スピーチを黙って見過ごすことは、加害者と同列の共犯者と見なすこともできる。

メディアに雑誌や書籍の出版を含めて考えると、メディアの「共犯性」に疑いはさらに深まる。このところ週刊誌の見出しには毎週のように韓国や中国を批判する記事があふれている。これらの国々の「反日感情」を揶揄したり、それぞれの国の経済の先行きに悲観的な見通しを並べたり、否定的側面ばかりを強調する意図が露骨にのぞいている。

書店の本棚には、いわゆる「嫌韓」「嫌中」本が大きなスペースをとって並んでいる。「嫌」のほか、「憎」「呆「侮」などの文字がタイトルに踊り、隣国を嫌悪し侮蔑する感情を読者にあおっている。広告通り、この種の本が何万部、何十万部も売れているとすれば、「在特会」などの無法なデモや街宣活動に共鳴する層が日本社会の相当部分に浸透しているのかもしれない。

 

必要な法的措置を

 世間にそうした空気をかもしている要因の一つが、最近の韓国、中国との険悪な外交関係であることは言うまでもない。安倍晋三首相の歴史認識を隣国政府が批判する。首相を支持する人たちは反発し、いやがうえにも反韓、反中の声を張り上げる。メディアの報道にもそれが跳ね返る。

 近い隣国に対する国内のささくれ立った空気を取り除くには、政府間関係の改善を待たねばなるまい。が、それまでの間、繰り返される隣人への限度を超えた言葉の暴力を放置することは許されない。政府は国際条約の義務に従って必要な法的措置を取るべきだし、メディアはそれを促がす言論を展開すべきである。「憎悪」が「憎悪」の循環に発展しないように。

(「メディア談話室」2014年4月号 許可を得て掲載)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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