安倍政権は、他国(米国)を守るために自衛隊が海外で戦争できる日本に変質させることを目論んでいる。戦後日本の特質であった「平和国家」という表看板を外して、対外戦争をも躊躇しない「戦争国家」へ急旋回させつつあるのだ。
憲法9条は戦争放棄や戦力不保持を定めているが、自衛権までは否定していない。しかし自衛権行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきで、自国が攻撃されていないのに、他国への武力攻撃に反撃できる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない。このように従来の自民党中心の歴代内閣は集団的自衛権行使を認めず、これを戦後日本の「国のかたち」としてきた。にもかかわらず安倍政権は突如変質した。(2014年5月18日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
集団的自衛権について大手5紙の社説(5月16日付)はどう論じたか。その見出しと社説の趣旨を以下に紹介する。まず見出しは次の通り。
*朝日新聞=集団的自衛権 戦争に必要最小限はない
*毎日新聞=集団的自衛権 根拠なき憲法の破壊だ
*讀賣新聞=集団的自衛権 日本存立へ行使「限定容認」せよ グレーゾーン事態法制も重要だ
*日経新聞=憲法解釈の変更へ丁寧な説明を
*東京新聞=行使ありきの危うさ 「集団的自衛権」報告書
各紙社説でしばしば言及される「集団的自衛権」とは、東京新聞社説によれば、次のような含意である。
例えば、米国に対する攻撃を、日本が直接攻撃されていなくても反撃する権利である。政府は国際法上、権利を有しているが、その行使は憲法九条で許される実力行使の範囲を超える、との立場を堅持してきた。この権利は、1945年の国際連合憲章起草の際、中南米諸国の求めで盛りこまれた経緯がある。国連に報告された行使の事例をみると、米国などのベトナム戦争、旧ソ連のハンガリー動乱やプラハの春への介入など、大国による軍事介入を正当化するものがほとんどだ。
以下、各紙社説の骨子を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。
(1)朝日新聞社説
集団的自衛権の行使を認めるには、憲法改正の手段を取らざるを得ない。歴代内閣はこうした見解を示してきた。安倍氏が進めようとしているのは、憲法96条に定める改憲手続きによって国民に問うべき平和主義の大転換を、与党間協議と閣議決定によって済ませてしまおうというものだ。憲法に基づいて政治を行う立憲主義からの逸脱である。弊害は余りにも大きい。
まず、戦争の反省から出発した日本の平和主義が根本的に変質する。日本が攻撃されたわけではないのに、自衛隊の武力行使に道を開く。これはつまり、参戦するということである。集団的自衛権を行使するかしないかは、二つにひとつだ。首相や懇談会が強調する「必要最小限なら認められる」という量的概念は意味をなさない。日本が行使したとたん、相手にとって日本は敵国となる。また解釈変更は、内閣が憲法を支配するといういびつな統治構造を許すことにもなる。国民主権や基本的人権の尊重といった憲法の基本的原理ですら、時の政権の意向で左右されかねない。法治国家の看板を下ろさなければいけなくなる。
<安原のコメント>平和主義の根本的な変質
朝日社説には重要な視点が二つある。一つは日本の平和主義の根本的な変質である。日本が攻撃されたわけではないのに武力行使に道を開く。いいかえれば「戦争好き」がのさばるということだ。もう一つは「内閣が憲法を支配する」という逆立ち現象が広がることだ。具体的には「国民主権や基本的人権の尊重」という基本的原理が時の政権によって踏みにじられる。「政治は国民のためにある」という本来の姿からの転落である。そういう政治を容認するわけにはいかない。
(2)毎日新聞社説
憲法9条の解釈を変えて集団的自衛権の行使を可能にし、他国を守るために自衛隊が海外で武力行使できるようにする。安倍政権は日本をこんな国に作り替えようとしている。9条は戦争放棄や戦力不保持を定めているが、自衛権までは否定していない。しかし自衛権行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきだ。自国が攻撃されていないのに、他国への武力攻撃に反撃できる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない。つまり集団的自衛権行使を認めてこなかった。
「安全保障の法的基盤の再構築」に関する首相の私的懇談会(安保法制懇)報告書は、この解釈を180度変更し、必要最小限度の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈することによって行使を認めるよう求めた。これは従来の憲法解釈の否定であり、戦後の安全保障政策の大転換だ。それなのになぜ解釈を変えられるのか肝心の根拠は薄弱だ。報告書では憲法の平和主義が果たしてきた役割への言及は極端に少なく、まるで憲法を守って国を滅ぼしてはならないと脅しているようだ。
<安原のコメント>集団的自衛権は破滅への道
集団的自衛権とは、自国が攻撃されていないのに他国、例えば米国を守るために自衛隊が海外で武力行使できることを意味する。これは日本国平和憲法の本来の理念に反することは明らかである。これでは「戦争屋」集団ともいうべき乱暴な日本国に海外から尊敬どころか、猜疑心に満ちた眼を注がれることになるだろう。軍事力を背にした強がりは、国内はもちろん海外からも決して尊敬を集める姿勢とはいえず、むしろ破滅への道である。強面(こわもて)がまかり通る時代ではもはやない。
(3)讀賣新聞社説
日本の安全保障政策を大幅に強化し、様々な緊急事態に備えるうえで、歴史的な提言である。首相は記者会見し、「もはや一国のみで平和を守れないのが世界の共通認識だ」と強調した。在外邦人を輸送する米輸送艦に対する自衛隊の警護などを例示し、集団的自衛権の行使を可能にするため、政府の憲法解釈の変更に取り組む考えも表明した。その方向性を改めて支持したい。報告書は、北朝鮮の核実験や中国の影響力の増大など、日本周辺の脅威の変化や軍事技術の進歩を踏まえ、個別的自衛権だけの対応には限界があり、むしろ危険な孤立を招く、と指摘した。
さらに周辺有事における米軍艦船の防護や強制的な船舶検査、海上交通路での機雷除去の事例を挙げ、集団的自衛権を行使できるようにする必要性を強調している。こうした重大な事態にきちんと対処できないようでは、日米同盟や国際協調は成り立たない。偽装漁民による離島占拠など、武力攻撃に至らない「グレーゾーン事態」について報告書は平時から「切れ目のない対応」を可能にするよう法制度を充実すべきだと主張している。
<安原のコメント>讀賣は集団的自衛権を支持
考え方の是非を考慮外に置けば、意見、主張の多様性はむしろ歓迎できる。個人それぞれの生き方に視野を限定すれば、多様性はむしろそれぞれの個性の発露であり、批判すべきことではない。しかし一国の針路、望ましい姿となれば、「私の勝手でしょ」というわけにはゆかない。300万人を超える日本人犠牲者を出したあの大東亜戦争(=太平洋戦争)は悲劇そのものであり、これを繰り返すことは許されない。集団的自衛権を安易に持ち上げるのは厳に慎みたい。それがメディアの歴史的、社会的責任とはいえないか。
(4)日経新聞社説
安倍首相が憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にする方向で「政府としての検討を進める」と正式表明した。日本の安保政策の分岐点となり得る重大な方向転換だ。幅広い国民の理解を得られるように丁寧な説明、粘り強い対話を求めたい。報告書は「わが国を取り巻く安保環境はわずか数年の間に大きく変化した」と指摘した。東シナ海や南シナ海での中国の振る舞い、北朝鮮の挑発的な言動などを例示するまでもなく、うなずく国民は多いだろう。
さらに報告書は「一方的に米国の庇護(ひご)を期待する」という冷戦期の対応は次代遅れだと強調し、新たに必要な法整備を進めるべきだと訴えている。財政難の米国に単独で世界の警察を努める国力はもはやない。内向きになりがちな米国の目をアジアに向けさせるには、日本も汗を流してアジアひいては世界の安定に貢献し、日米同盟の絆を強める努力がいる。日本が直面しそうな危機に対処するにはどんな手があるのか、それは公明党が主張する個別的自衛権の拡大解釈などで説明できるのか、集団的自衛権にもやや踏み込むのか。こうした議論を重ねれば合意に至る道筋は必ずみつかるはずだ。
<安原のコメント>腰の定まらない日経社説
日経社説は集団的自衛権については悩んでいるらしい。末尾の「日本が直面しそうな危機に対処するにはどんな手があるのか、それは公明党が主張する個別的自衛権の拡大解釈などで説明できるのか、集団的自衛権にもやや踏み込むのか」と両説を並べるにとどめて、独自の判断、主張を避けている。「物言(ものい)えば唇(くちびる)寒し」を決め込んでいるのか。腰の定まらない日経社説という印象をぬぐえない。これでは解説記事ではあっても、主張する社説とは言いにくいのではないか。
(5)東京新聞社説
戦争放棄と戦力不保持の憲法九条は第二次世界大戦での三百十万人に上る尊い犠牲の上に成り立っていることを忘れてはなるまい。その九条に基づいて集団的自衛権の行使を認めないのは、戦後日本の「国のかたち」でもある。一九八一年に確立したこの憲法解釈を堅持してきたのは、ほとんどの期間政権に就いていた自民党中心の歴代内閣にほかならない。国会での長年の議論を経て「風雪に耐えた」解釈でもある。それを一内閣の判断で変えてしまっていいはずがない。
もし集団的自衛権を行使しなければ、国民の命と暮らしを守れない状況が現実に迫りつつあるのであれば、衆参両院での三分の二以上の賛成による改正案発議と国民投票での過半数の賛成という手続きに従い、憲法を改正するのが筋である。そうした正規の手続きを経ない「解釈改憲」が許されるのなら、憲法は法的安定性を失い、憲法が権力を縛るという立憲主義は形骸化する。それでは法の支配という民主主義国家共通の価値観を共有しているとは言えない。安保法制懇のメンバー十四人は外務、防衛両省の元事務次官ら外交・安全保障の専門家がほとんどだ。憲法という国の最高法規への畏敬の念と見識を欠いていたのではないか。
<安原のコメント>解釈改憲は「正気の沙汰」なのか
同じ自民党政権でありながら、なぜこれほど異質なのか。従来の自民党中心の歴代内閣は集団的自衛権行使を認めず、これを戦後日本の「国のかたち」としてきた。にもかかわらず安倍政権は突如変質した。果たして「正気の沙汰」なのか。安倍首相は幼いころ、祖父の岸信介が首相だったころ、首相官邸で三輪車に乗りながら「アンポ・ハンタイ」と叫んでいたというエピソードがある。官邸前でデモ隊が「アンポ反対」を叫ぶのを真似しておもしろがっていたのだ。その孫を岸が「アンポ賛成」と言いなさいと叱ったというが、それから半世紀を経た今、日本の政治は安倍政権の下で急速に悪化しつつある。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(14年5月18日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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