「新聞を読むことの効用」──周回遅れの読書報告(その60)

 ある程度文字を読めるようになってから、身辺にはずっと新聞があった。純農村というべき田舎で生まれ育ちだったが、どういうわけか、自宅に届けられていたのは地元紙(ローカル・ペーパー)ではなくて、中央の経済紙だった。その手薄な運動欄だけを読み、新聞とは実につまらないものだと思った。それでも半ば惰性で新聞を読んだ。長じて、自分で新聞を買うようになってからは、ほぼ「惰性」だけで、朝日新聞を読み続けた。もうそろそろ半世紀になる。一時期、全ての中央紙をジックリと読める環境にあった。その時、様々な新聞を読み比べた。例外がないわけではないが、どれも似たり寄ったりである。それ故に、読みやすい(すなわち、読みなれた)新聞一紙を読んでおけば十分だという結論に至った。それ故、未だに朝日新聞である。
 私がこうだから、新聞というものはどこの家庭も(惰性で)読んでいるものだと思い込んでいた。ある時、息子の嫁さんが「新聞紙を何部か頂けませんか」と言ってきた。息子の家も新聞を宅配で購読していたはずだ。そう思って理由を尋ねると、学校の授業で新聞紙が必要になったのだが、新聞を購読していない家庭があり、そういう家庭の母親から「新聞紙を貰えないか」と頼まれたという。古新聞を数部渡したが「新聞を購読していない家庭がある」というのには驚いた。
 そうしたら、現代の日本では、約三割の家庭でしか日刊新聞を定期購読していないという記事に接した。新聞なしに毎日どうやって過ごすのか、理解に苦しんだ。選挙の投票率に関する調査によれば新聞を定期購読している家庭の投票率は七割を超えているという(これも新聞で知った)。新聞を定期購読していない家庭が投票率を下げていることになる。低投票率が問題になっている背景には新聞を読まない家庭が増えていることがあるともいえる。だからこそ、新聞を読む効用を声を大にして言う必要がある。
 奥村宏は『判断力』(岩波書店)で新聞を読むことを薦めている。しかしその理由は、上の紹介したものとは全く違う。「周回遅れの読書報告」(その30)で簡単に触れたが、やや詳細に繰り返せば、奥村の薦める新聞の読み方(色鉛筆を持ちながら新聞の隅から隅まで読むという方法)は、もともとは羽仁五郎を含むマルクス経済学者たちがドイツ留学時代の経験を日本に持ち込んだものである。しかし、その後の日本のマルクス経済学者はその方法を実践しようとはしなかった。一体なぜであろうか。色鉛筆をもって、新聞の第一面の隅から、最終面の隅まで傍線を引きながら全部読むというこの方法はたしかに時間と労力のかかる作業である。一紙でも骨が折れる。ましてや複数の新聞をそんな風に読むのは苦行に近い。しかし、そうやってはじめて、社会の今の現実の問題が体得されるのである。その後の日本のマルクス経済学者は、それをしなかったことで現実感覚を希薄にして行ったのではないか。
 新聞を読むことの重要性はケインズによっても主張されている。経済学専攻の若い学徒に対するケインズの助言は、「マーシャルを徹底的に読むこと、そして日刊紙『タイムズ』を毎日注意深く読むこと、それ以外に書物の形をとった経済学文献は読む必要はない」ということであったという。
奥村、ケインズの主張は分かるが、問題は、経済学者の「判断力」のはるか以前にある。現実の問題は、「判断力」の醸成とは無関係に、新聞からしか分からない。そう思うのだが、新聞の購読率が半分に満たない状態が続いているのである。なぜ、七割もの家庭で新聞が読まれていないのか。まず、それを問う必要がある。
                      奥村宏『判断力』(岩波新書、1971)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

〔opinion7739:180617〕