「方法論的転換」の意味―『江戸思想史講義』中国語版序

「方法論的転換」の意味

『江戸思想史講義』中国語版の読者のために

私が思想史における「方法論的転換」を遂げたのは1980年代である。日本思想史を専門領域としてもった日本の若い研究者・学生にとって、戦後長く彼らの研究目標、あるいはむしろ克服すべき目標としてあったのは丸山眞男の『日本政治思想史研究』であった。この書は戦後再出発した日本思想史学の最初の大きな成果であり、はっきりした方法論的な意識をもって書かれた最初の思想史的著作であった。丸山はこの書で前近代的=封建的江戸社会に「近代的思惟」がいかに萌芽的に成立してくるかを、荻生徂徠の政治思想の分析を通じて語り出した。徂徠思想の鮮やかな分析とともに、「近代的思惟様式」の成立過程の追求という理念史的思想史の見事な成功例としてこの書はわれわれを丸山の(とりこ)にした。50年代に思想史を志した学生たちはみな丸山のエピゴーネンであった。

『日本政治思想史研究』を構成する諸章は1940年から44年にかけて「国家学会雑誌」に掲載されたものである。これらの論文を執筆していた青年丸山が眼前にし、やがて彼自身も一兵士として動員されるにいたったのは天皇制的全体主義国家日本であった。そのことを思うとき、〈前近代的〉日本における「近代的思惟様式」の成立にかけた丸山の強い批判と抵抗の意識を十分に想像することができる。1952年にこの書が刊行されたとき、われわれはこれをただの近代主義的思想史として受け取ったわけではない。われわれは〈前近代的〉天皇制国家の全体主義思想批判としての「日本思想史」を、しかも鮮やかな方法論的構成をもった「日本思想史」をはじめて手にしたのである。われわれ当時の学生たちは丸山のこの書を、彼の天皇制国家原理についての政治学的批判とともに熱心に読んでいったのである。

1960年、日本の元A級戦犯である岸信介を首班とした政権は、戦後最大規模の市民・学生たちの反対運動を押し切って日米新安保条約を成立させた。日本はそれ以後、アメリカの極東における軍事拠点を米軍とともに構成しながら、しかし国際的軍事負担を免かれて、ひたすら経済的大国化への道を辿っていくのである。70年代にかけて日本は高度経済成長という経済的な大飛躍を遂げていった。
だが70年代にかけてのこの時期は、丸山の近代主義的政治思想が現実への批判思想としての意味を失っていった時期でもあった。そして私自身も丸山の近代主義的〈前近代〉日本批判とは異なる見方をもつようになったのもその時期であった。私は1945年の日本の敗北を、天皇制的全体主義国家として自己形成してきた〈近代日本〉そのものの敗北だと見るようになった。日本は〈近代国家〉としてそのように自己形成してきたのであって、決して〈前近代的国家〉を形成してきたわけではない。私の近代批判は〈近代日本〉のそのような近代的国家形成のあり方そのものに向けられねばならないのであって、〈前近代的思惟様式〉に向けられるものではない。私のこのような見方は丸山の西欧市民社会を理念型とした近代主義的批判の現実性が1960年代の日本で急速に失われていく過程を見ながら形成されていった。すでに日本は後期資本主義的現代世界における先進的大国の一つを形成しつつあった。

1968年のパリの5月革命に始まる世界的な学生たちの叛乱は、日本でも大学という現代的管理機構における学問・教育の矛盾的存立に向けての学生たちの解体的闘争を捲きおこした。東大の丸山研究室を学生たちは暴力的に解体した。だが学生たちによるこの暴力的な解体は、丸山の思想的解体を意味するものではない。むしろその困難を逆に物語るものであった。丸山についてある程度まとまった形で批判的論及がなされたのは『現代思想』(青土社、1994年1月)の「丸山眞男」特集号がはじめてであった。丸山が亡くなったのはその二年後、1996年8月15日である。私はこの特集に丸山批判の論文「近代主義の錯誤と陥穽」を書いた。ただ私自身は80年代に丸山思想史を方法論的に批判し、克服する道をすでに歩み始めていた。私はこの時期、丸山批判を通じて〈思想史〉という思想作業における「方法論的転換」を遂げていった。この「方法論的転換」を一冊の著作の形にして世に問うたのが『「事件」としての徂徠学』(青土社、1990)である。

私はこの書で近代から荻生徂徠へという意味づけ的な思想史的視線の方向を逆転させようとした。近代から徂徠を見るのではなく、むしろ徂徠から近代を見ようとした。近代から徂徠を見るというのは、近代から意味づけられた思想的実体として徂徠を見ることである。それに対して徂徠から近代を見るとは、近世江戸の言説空間で徂徠によって何が新たに言い出されたのか、その言説に、言説的表出のあり方に徂徠を見るのである。徂徠の意味とはこの言説を離れてあるのではない。徂徠は18世紀初頭の江戸の言説的思想空間に「先王の道は天下を安んずるの道なり」「礼楽刑政を別にして道なる者あるに非ざるなり」(『弁道』)という「先王の道」の言説とともに出現したのである。この徂徠という新たな言説的出現を私は〈事件〉というのである。ある思想的言説の〈事件性〉とは、その言説の出現が予想もできない〈意味〉を生み、あるいは〈意味的実体〉を後世に作り出すことにある。徂徠の「先王の道」の言説はやがて19世紀の後期水戸学を介して、近代日本における天皇制的国家の理念的形成をもたらしていくのである。徂徠から近代を見るとは、このように日本の特異的な近代国家形成のあり方を暴き出すようにして見ることである。『「事件」としての徂徠学』における思想史の「方法論的転換」は丸山の近代主義的な恣意的構成からなる徂徠像を解体しただけではない、日本という近代国家の理念的構成の秘密をも露わにしてしまうのである。近代国家日本の私による解構的(deconstructive)批判作業はこの「方法論的転換」から始まるのだ。

私は丸山批判とともになされた「方法論的転換」を、『「事件」としての徂徠学』以後、思想史の方法として、また現代の批判的思想の方法として錬磨していった。それは一方では〈方法としての江戸〉という思想史の新たな方法論的視座の設定とともに、日本近世思想史(江戸思想史)の読み直し作業としてなされていった。もう一方では現代における思想方法論の転換(言語論的転換)によってなされた大きな成果をエドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978)に見ながら、私の思想史における「方法論的転換(言説論的転換)」を現代の批判的思想作業にもたえうる思想方法論として錬磨していった。前者の思想史的作業をまとめたものが、いままさに中国語版として刊行されようとしている『江戸思想史講義』(1998)であり、後者の批判的思想作業からなるのは『近代知のアルケオロジー』(1996、後に『日本近代思想批判』と改題して再刊、2003)、『アジアはどうか語られてきたか』(2003)、『国家と祭祀』(2004、中国語版:2006)であり、いま同時にその中国語版が刊行されようとしている『「近代の超克」とは何か』(2008)などである。後者の系列の批判的思想作業は2015年の現在もなお続いている。(上記『日本近代思想批判』と『アジアはどう語られてきたか』の主要論文は、趙京華氏によって『東亜論・日本現代思想批判』として訳されている。)

『江戸思想史講義』は転換された思想史の方法をもって日本の近世すなわち江戸時代の諸思想の全面的な読み直しを試みた作業の成果をまとめたものである。この作業の結果は論文として『思想』(岩波書店)誌上に1991年から97年にかけて発表されていった。これは私における「方法論的転換」を江戸の諸思想に即してさまざまな思想史的視角と記述をもって実現していった作品である。それは私にとって思い入れの大きい、そして二度と書くことのない記念碑的作品である。この『江戸思想史講義』が今回中国語訳され、刊行されることになった。だがこの書の中国語訳の困難は、著者自身がよく知っている。著者自身が知るこの困難を乗り越えて、『江戸思想史講義』の中国語訳を完成させた訳者の払われた大きな努力とその成果に対して深甚の敬意と感謝を捧げずにはいられない。

中国語版『江戸思想史講義』の読者諸兄がこの書で試みた「方法論的転換」に基づく私の思想史的作業を、いわば「他山の石」として受け取ってくださることを切に願っている。

初出:「子安宣邦思想史の仕事場からのメッセージ-」2015.10.23より許可を得て転載より許可を得て転載

http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/46079308.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study667:151025〕