「日本国家主義」の克服を 尖閣諸島問題再論

  1.尖閣諸島領有を1885年に断念した経緯

 尖閣諸島問題をめぐって、国会でもマスコミでも、中国敵視の「日本国家主義」が依然として燃え盛っている。おそらくこういう異様な光景は、1972年の日中国交正常化以来初めてのことであろう。

 こうした異様な光景が収まらないのは、「尖閣諸島は日本固有の領土」という菅直人内閣の主張を、問い返し、見直す歴史的事実や考え方が、一旦「日本国家主義」に火が点くと、自己規制を含めて抑えられるからだ。その意味で、政府とマスコミの責任は大きい。

 それだけに私は、前稿(『マスコミ市民』11月号)に続いて今一度尖閣諸島を日本政府が「日本固有の領土」と主張するに至った経緯をここに整理しておく。

 第1点は、1885年 9月に福岡県出身の事業家・古賀辰四郎が魚釣島の貸与を那覇の沖縄県庁に申請したことに始まる。県庁は魚釣島の貸与の可否を東京の内務省に問い合わせ、内務省は沖縄県に魚釣島の現況調査と沖縄県令(知事)の意見を求め、県令は次のような意見書を東京に送った。

 「抑モ久米赤島、久場島及び魚釣島は、古来本県に於て称する所の名にして、しかも本県所轄の久米、宮古、八重山等の群島に接近したる無人の島嶼に付、沖縄県下に属せらるるも、敢て故障これ有る間敷と存ぜられ候へども、過日御届け及び候大東島(本県と小笠原島の間にあり)とは地勢相違し、中山傳信録に記載せる魚釣台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一なるものにこれ無きやの疑いなき能はず。果して同一なるときは、既に清国も旧中山王を冊封する使船の詳悉せるのみならず、それぞれ名称をも付し、琉球航海の目標と為せしこと明らかなり。依って今回の大東島同様、踏査直ちに国標取建て候も如何と懸念仕候。以下略」

  明治十八年九月二十二日 沖縄県令 西村捨三

  内務卿伯爵  山県有朋殿          

 この意見書を分かりやすく分解すると、(1) 尖閣諸島の久米赤島、久場島及び魚釣島は、本県所属の久米、宮古、八重山等の群島に接近した無人島なので、沖縄県に所属するとしても問題がないように思われますが、(2) しかし、先日沖縄県への併合を届けた大東島とは地勢が違い、また「中山傳信録」(1719年に琉球国の尚敬王の冊封副使として琉球王国を訪ねた徐葆光が著した詳細な琉球報告書)にも魚釣台、黄尾嶼、赤尾嶼と記載されている島々と同じ島々だとすれば、既に清国の冊封使の船が琉球航海の目標として詳しく知り尽くしていることは明瞭なので、大東島のように調査してすぐに日本国の標識を建てることはいかがなものか、と心配しております、となる。

 この報告を受けた内務卿・山県有朋は、さらに井上外務卿の意見も聞いて、次のような

意見書を受け取った。

 「(前略)右島嶼への儀は清国福国境にも接近致候。さきに踏査を遂げ候大東島に比すれば、周囲も小さき趣に相見へ、殊に清国には其島名を附しこれ有り候に就ては、近時、清国新聞紙等にも、我政府に於て台湾近傍清国処置の島嶼を占拠せし等の風説を掲載し、我国に対してさいぎ抱き、しきりに清政府の注意を促がし候ものこれ有る際に付、此際にわかに公然国標を建設する等の処置これ有り候ては清国の疑惑を招き候間、さしむき実地を踏査せしめ、港湾の形状並びに土地物産開拓見込みの有無を詳細報告せしむるのみに止め、国標を建て開拓等に着手するは、他日の機会に譲り候方然るべしと存じ候」 西村捨三沖縄県令の報告書は、中国(民・清)と琉球との歴史的な関わりの深さを指摘して、大東島のように調査してすぐに日本国の標識を建てることはいかがなものか、と危惧を示したものだったが、井上外務卿の意見書は、そうした歴史的背景に加えて、「近時、清国新聞紙等」が日本政府に対して、台湾の近くの清国の島嶼を占拠したという噂を掲載し、我国に対して清政府に注意を喚起している際でもあり、という「現状」を指摘して、今急に日本国の標識を建設すれば、清国の疑惑を招くので、さし当たり実地を踏査し、港湾の形状並びに土地物産開拓の見込みの有無を報告させるだけに止めて、国標を建て開拓等に着手するのは、他日の機会に譲るように、と勧告したものだった。

 そして内務卿・山県有朋は、この意見を受け入れ、「国標建設の儀は清国に交渉し彼是都合も有之候に付、目下見合せ候」と1885(明治18)年12月 5日に太政大臣・三条実美に報告して日本国の領有化は行わなかった。それからおよそ9年後の日清戦争が無ければ、日中両国ともに尖閣諸島の一方的領有はせず、話し合って利用したことであろう。

   2.日清戦争大勝利で即座に領有

 尖閣諸島の取扱に関する1885(明治18)年12月 5日の以上の明治政府の決定は極めて重要なのだが、去る9月7日に「尖閣諸島問題」が起きて以来、菅直人内閣もマスコミも、この事実に全く触れていない。

 それどころか、「尖閣諸島〈日中の火種〉」という記事を掲載した『東京新聞』(11月 8日7面)は、「尖閣諸島をめぐる経過」と題した年表を掲げ、その1885年の項に、「沖縄県庁の石沢兵吾が当時の県令に尖閣諸島が無人島であることを報告。この後、福岡県の実業家、古賀辰四郎がアホウドリ猟のため尖閣諸島の借地権契約を明治政府に請求。古賀による開拓が本格化し、かつお節工場や船着場が建設される」と書いてある。この記事は明瞭な史実の歪曲で、枝葉末節だけを書いて重要な事実がすべて抜けている。

 「福岡県の実業家、古賀辰四郎がアホウドリ猟のため尖閣諸島の借地権契約」を沖縄県庁に要求したことから明治政府の検討が始まり、私が今述べた経過で、古賀辰四郎の請求は退けられたのである。しかもその過程で極めて重要な西村捨三沖縄県令の明治政府への報告書や井上外務卿の意見書と、それらに基づく山県有朋・内務卿の「領有せず」の決定への言及が全くない。これでは「史実の歪曲」と言う他はない。

 これが今回の尖閣問題を報じるマスメディアの実態だが、これは一例に過ぎない。

 重要な第2点は、日清戦争の本質と経過だ。日清戦争は、双方が戦争の準備を整えて開始した戦争ではなかった。そもそも、1894年 6月 7日に清国軍1000人が韓国の牙山に上陸したのは、同年 4月に全羅北道で李朝体制の根本的改革を求めて武装決起した東学を信奉する農民軍が、朝鮮半島南部に拡大したばかりでなくソウルに迫り、恐怖した李朝政府が清国に救援軍の派遣を求めた結果だった。前年の天津条約に基づいて、清国から東学農民軍鎮圧依頼による朝鮮への派兵の通知を受けた日本政府は、直ちに大本営を設けて戦争準備を進め、李朝政府の同意なしに6月9日に戦闘部隊を朝鮮に送った。そして武力でソウルを制圧した日本軍は、引退していた高宗のの父・大院君を擁して王宮に入り、政権の座にあった高宗の妃の閔氏一族を追放し、清国軍の朝鮮からの退去を要求、7月には日本の連合艦隊が黄海に到着し、東学農民軍鎮圧に来ていた清国軍を海陸で一斉に襲い、戦争を予想していなかった清国軍を一方的に撃破した。明治天皇が東京で清国に宣戦布告をしたのは、その後のことだった。

 こうして戦争準備を整えてきた日本軍は、戦争を予想していなかった清国軍を攻め、ほぼ1ヵ月で清国軍を鴨緑江の北に追い出し、さらに西に向けて旅順、大連へと追跡・撃破し、遼東半島を占領して、陸上戦闘は年末までに終了した。

 こうした大勝利の後、1895(明治28)年1月12日に、野村靖内務大臣から伊藤博文内

閣総理大臣に宛てて、次の秘密文書が届けられた。

 沖縄県下八重山群の北西に位する久場島、魚釣島は、従来無人島なれども、近来に至り 該島へ向け漁業等を試むる者有之。之れか取締を要するを以て同県の所轄とし標杭建設 致度旨、同県知事より上申有之。右は同県の所轄と認むるに依り上申の通り標杭を建設せしめんとす。右閣議を請う。

  明治二十八年一月十二日   内務大臣子爵 野村靖 

 1885年 9月には、魚釣島貸与の請願から検討が始まったが、1895(明治28)年1月には「漁業等を試むる者の取締を要する」という理由によるものだった。そして2日後の1月14日に、「標杭建設を閣議決定」として次の通知が内務大臣に出された。

 別紙内務大臣請議、沖縄県下八重山群の北西に位する久場島魚釣島と称する無人島へ向 け近来漁業等を試むる者有。之為め取締を要するに付ては同島の議は沖縄県の所轄と認 むるを以て、標杭建設の儀命県知事、上申の通許可すべしとの件は、別に差支無之に付  請議の通にて従るべし。

 こうして「漁業等を試むる者の取締」を理由に日本国の領土とした魚釣島に対して1885年9月に貸与の請願をした古賀辰四郎が、閣議決定の5ヵ月後の6月10日に「官有地拝借願」を内務省に提出、政府は古賀に尖閣諸島の4島を30年間無料で貸与して開発を行わせ、1909(明治42)年にその功によって藍綬褒章を与えている。

 一方、日清戦争は、1895(明治28)年3月20日から下関で講和会議が始まり、4月17日に次の6項目から成る講和条約が調印された。6項目は、(1) 朝鮮独立の確認(朝鮮半島から清国勢力一掃)(2) 遼東半島、台湾、澎袴島の割譲(遼東半島は「3国干渉」により清国に返還)(3) 賠償金約平銀2億両、(4) 通商に西欧列強と均等の権利授与、(5) 開港場と開市場における工業企業権の確立、(6) 条約履行の担保として威海衛の占領。

  清国にとって実に屈辱的な条約だった。しかも、この条約以前に、伊藤博文は釣魚島一帯を日本領土としていた。

 「帝国主義の時代」「武力が全ての時代」「狼どもの談合の時代」には、こうしたことが「当然のこと」として通用したが、それを現在の「東アジア平和共同体」の形成時代にも「当然のこと」としてよいのだろうか? 菅内閣と日本の政党は全て帝国主義時代の立場のようだが、現在の政治的道義の問題として、本当にそれでよいのだろうか?

  中国が「日本領」の承認を厳しく拒否する理由の一つがそこにあるのではないか?

  3.日清戦争以後の日本と中国

 日清戦争以後の尖閣「日本領有」に対する中国の最初の反応は、1971年12月30日の「中華人民共和国政府外交部声明」だった。日本の政党、メディアは、中国政府がこの時期に日本の尖閣諸島領有に異議を唱えて「中国の領土」を主張したのは、1969年に公刊された国連アジア極東経済委員会の報告書で、尖閣諸島周辺の海底に石油、天然ガスが大量に埋蔵されている可能性が指摘されたからだ、と見ている。しかし1971年12月30日の声明が問題にしたのは、1971年12月22日に日本の国会が承認した「沖縄返還協定」だった。

  中国政府「声明」は、「このほど、米日両国の国会は沖縄『返還』協定を採決した。この協定のなかで、米日両政府は公然と釣魚島などの島嶼をその『返還区域』に組み入れている。これは中国の領土と主権にたいするおおっぴらな侵犯である」と述べている。次いで「声明」は、「日本への沖縄『返還』というペテンは、米日の軍事結託を強め、日本軍国主義復活に拍車をかけるための新しい重大な段取りである」と述べている。

 ここで「声明」が、「日本への沖縄『返還』」と「返還」をカッコで囲んで、それを「ペテン」という厳しい言葉で呼んだのは、「沖縄返還」は当然非武装でなければならないと考えていたことを示している。ところが「沖縄返還」は沖縄の非武装化どころか、核兵器を含む重武装の米軍基地の居座りで、しかも尖閣諸島は米軍の射爆場だった。このような状況を前にして、米日からの軍事的脅威に対抗するために、かつて明・清時代に琉球への冊封船が灯台代わりにしてきた尖閣諸島を防衛線とすることを考えたとしても不思議ではない。

 そしてその翌年、日中国交正常化が行われたことで緊張は緩和した。だから、1972年10月の日中国交正常化交渉の際に、田中首相が周恩来首相に尖閣諸島の取扱を尋ねた時に、周恩来首相は、何も言わないのがよい、と答えたという。その後1978年に、登 小平副首相が日中平和友好条約調印のために来日した際に、10月25日、帰国を前にした記者会見で、「尖閣列島(釣魚島)の帰属で日中双方の意見が違うが、タナ上げして将来の解決にゆだねるのが得策」と語った(朝日新聞、1978.10.26.1面)。

 登 小平副首相のこの発言について、民主党菅内閣は、自民党の河井衆議院議員の質問趣意書に対して、「約束は存在しない」と答えたと朝日新聞社の『アエラ』(10月25日号)は伝えている。しかし、登 小平副首相の記者会見には日本政府首脳が同席していた筈で、しかも日中双方に関わる内容の発言は、当然日本政府との了解の上で行われたはずだ。従って、日中双方でその「同意」或いは「合意」を解消したのでない限り、それを守るのが国際的な慣行であり、礼儀であろう。

  4.日中関係の改善のために

 国会ではこうした反中国的な意見が公然と述べられ、菅内閣は条理を尽くしてその暴論を抑えようとせずに、「戦略的互恵」の関係を再建したいと語るだけだ。菅内閣だけではない。朝日新聞の10月6日の社説も、「『戦略的互恵』の再起動を」という見出しを立て、「埋まらない溝は溝として、〔日中〕両首相が関係回復へのよりどころとしたのは、自民党政権時代の安倍晋三首相が4年前に訪中し、中国側と構築に合意した『戦略的互恵』だ」と書いている。しかし、「『戦略的互恵』の再起動」を期待するだけで、それ以上の具体的な提案は何もない。

 では、日中関係は今、何故これほど深刻な状態に陥ったのだろうか? 今、マスコミは中国側の内部の事情をあれこれと憶測しているが、同時に問われるべきは日本自身の変化だ。私はここで3つの問題点を指摘しておきたい。

 第1は、日本帝国時代の軍事侵略、戦争、植民地支配の未清算という問題だ。日清戦争の勝利後に日本帝国が領有を宣言した尖閣諸島問題も明らかにここに属する。そう思う私は、日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』10月10日号1面に掲載された「臨時国会/共産党の『尖閣』論戦に共感」という見出しのついた次の記事を読んで我が目を疑った。

 「7日。尖閣諸島の領有問題について日本共産党の志位委員長が、『歴代政府が本腰を入れて日本の領有の正当性を主張してきたとはいえない』と批判すると、民主党席から拍手が送られます。/今回の中国漁船衝突事件をめぐり民主党政権が、『領有の大義を理を尽くして主張する外交活動を行っていない』とのべると、今度は自民党席から拍手が起こったのです。/民主、自民を問わず議場が一番わいたのは次のくだりでした。

 『日本共産党は過去の日本による侵略戦争や植民地支配に最も厳しく反対してきた政党ですが、日本による尖閣諸島の領有は、日清戦争による侵略とはまったく性格が異なる正当な行為であり、(日清戦争で日本が不当に奪ったという)中国側の主張が成り立たないのは明瞭です』」

 私も、「日本共産党は過去の日本による侵略戦争や植民地支配に最も厳しく反対してきた政党」だと思っている。それだけに、「日本による尖閣諸島の領有は、日清戦争による侵略とはまったく性格が異なる正当な行為であり」という主張には首を傾けざるを得ない。ここでの第1の問題は、「日清戦争による侵略」を「尖閣諸島の領有」との関係でどのように考えるか、という問題だ。もしこの言葉を、日清戦争の一環として日本軍が占領した地域」と考えれば、尖閣諸島は台湾や澎湖島のように日本軍が上陸して占領した地域ではない。第2の問題は、1885年9-12月に明治政府が魚釣諸島の領有化を調査・検討し、中国との関係を考慮して、領有化をしなかったのに、その9年後の1895年1月に、伊藤博文が内務省からの申請後わずか2日で躊躇うことなく領有を決定したのはなぜか、という問題だ。私は、これは明らかに、日清戦争で勝利したので、もう清国や台湾民衆の動向に配慮する必要が無くなったからだと思うが、日本共産党はその点をどう考えるのだろうか?

「日清戦争による侵略とはまったく性格が異なる正当な行為」ということは、日清戦争とは無関係のこと、という意味だろうか?

 この第1の問題には、「北海道開拓」とアイヌ民族の併合も、琉球処分による琉球の併合も、韓国の軍事占領による併合も含まれる。

 以上は現在に残る過去の問題だが、第2に、現在進行中の問題とし、中国にもっと大きな影響を与えているのは、「日米同盟」の肥大化による日米軍事一体化の進行だと思う。そしてこの問題に最も深く関わっているのが、在日米軍基地・施設の74% が集中している沖縄の米軍基地だ。

 例えば、去る9月に発行された今年度の『防衛白書』は、「在日米軍の駐留の意義」という節を設けて、次のように述べている。「わが国の防衛に寄与すると同時に地域の平和と安全に寄与する抑止力として十分に機能する在日米軍のプレゼンスが確保されていることや、在日米軍が緊急事態に迅速かつ機動的に対応できる態勢が平時からわが国とその周辺でとられていることなどが必要である」

 また特に「沖縄の在日米軍」という1節を設けて次のように述べている。

「沖縄は、米本土やハワイ、グアムなどに比べて東アジアの各地域と近い位置にある。このため、この地域において部隊を緊急に展開する必要がある場合には、沖縄に駐留する米軍は迅速に対応することができる。また、わが国の周辺諸国との間に一定の距離があるという地理上の利点を有している。このような地理的特徴を有する沖縄に、高い機動力と即応性を有し、さまざまな緊急事態への一次的な対処を担当する米海兵隊をはじめとする米軍が駐留していることは、わが国の安全のみならずアジア太平洋地域の平和と安全に大きく寄与している」

 これらの説明で、在日米軍はもはや日本防衛のための「在日」ではなく、「アジア太平洋全域の平和と安全に大きく寄与している」、言い換えれば、アジア太平洋全域を支配していることを意味している。これは明らかに日米安保条約の範囲と質を遙かに越え、米日軍事一体化の「日米同盟」がかつての日独同盟のような帝国主義同盟になっていることを示している。これはアジア太平洋の諸国にとって脅威であり、当然中国にとっても脅威であろう。こうした「日米同盟」の大きな変質が、中国にとって、東シナ海上の小諸島と言えども疎かに出来ない変化をもたらしている、と考えるべきだろう。

 最後に、では尖閣諸島問題をどのように解決するか、という問題が来る。

 ここで一つのヒントになるのは、尖閣諸島の領有権を日中間で争うような愚かなことをせず、よい知恵が生まれるまで待とうと言っていた登 小平氏が日中平和友好条約の調印に来たことだ。今、日本の国会議員の中で日中平和友好条約を記憶して人が何人いることだろうか。しかし、日中平和友好条約はこれから真価を発揮する条約、否、これから真価を発揮させねばならない条約だ。なぜなら、日中平和友好条約は「覇権」に強く反対する「反覇権」条約だからだ。

 では「覇権」とは何か? 軍事同盟を組んで他国を脅すことだ。かつての日独同盟はまさにそうで、それに支えられて日本は中国大陸を侵略した。日本帝国が朝鮮半島を支配した時の日英同盟もそうだった。そして、現在の日米同盟もそうだ。しかも日本はその一方で中国と平和友好条約を結んでいるのだが、日米同盟は明らかに平和友好条約に違反する。従って、日本はどちらかを選ばねばならない。もし日本が、防衛白書の方向に行くのであれば、日中関係はますます厳しくなり、「戦略的互恵」の関係を築くことは難しくなる。

 一方、もし日本が日米安保条約を日米平和友好条約に切り替え、同時に米国が中国と平和友好条約を結べば、日米同盟は自然消滅し、日米中の関係は「戦略的互恵」を越えた友好関係に発展する。そしてそれが東アジア平和共同体への道だ。現に来年から東アジアサミットに米国とロシアが加わって18ヵ国会議になり、その中で日米だけが軍事同盟を継続すれば違和感が深まろう。

 EUの中では国境がなくなり、各国の主権の縮小、軍隊の削減、徴兵制の廃止などが自然に起きているが、東アジア共同対がEUの方向に行くか否かは日米軍事同盟の如何にかかっている。そうした中で日本は尖閣諸島を日本国家主義によって「あくまで領有」を主張するのか、それとも「国家」を越えて中国と尖閣諸島もその水域も海底も共有して共同研究、共同利用をするのかを選択すべき時が来つつあるのだ。

*初出「マスコミ市民」12月号

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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