「朝まで生テレビ的ピケティ格差論の段階について」
そこで語られたものは、「格差はあっても良いが貧困が問題である」(田原総一朗)であったのだが、その前に、同日金曜日夜、報道ステーションにての古賀茂明氏から暴露された問題もあり、小沢一郎氏の陸山会事件、山本太郎氏バッシングとテレビ締め出し問題、植草一秀氏締め出し問題、更に、今回の古賀茂明氏問題は、深刻な言論統制の流れであり、告発していかざるをえない段階に来ているのではないのだろうか?
ちきゅう座においてもいち早く、情報を入れてくださった方もいます。
【古賀茂明生放送で暴露】古館伊知郎と激論動画(報道ステーション)緊張感MAXで本年最高のニュース番組
https://chikyuza.net/archives/51993
更に、植草一秀ブログ
『報ステ』古賀茂明氏告発に対する公正中立な評価
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-4801.html
『報道ステーション』で古賀茂明が「官邸の圧力で降板」の内情暴露! 古舘が大慌て
http://lite-ra.com/2015/03/post-980.html
続報! 古賀茂明『報ステ』爆弾発言は菅官房長官の圧力が動機だった! 古賀批判は的外れ
http://lite-ra.com/2015/03/post-981.html
さらに続報! 古賀茂明が『報ステ』放送中・放送後のスタッフとのやりとりをすべて明かした!
http://lite-ra.com/2015/03/post-983.html
古賀茂明氏問題は、まさに、官僚支配と原発問題にも絡んでくる問題であり、(一愛読者の立場からしても)最大限にちきゅう座総力で問いたださなくてはならない問題なのではないでしょうか?
根底にあるのは、政治的圧力であり、大企業が支配するメディアコマーシャリズム文化問題であり、政官業としての支配としてのメディア操作として理解できるからです。言論は、巨大メディアに頼らずともインターネットでも出来るとするかも知れません。
しかし、ちきゅう座読者層の厚みとテレビ支配では誰から見ても比較にならないものである事がわかります。
メディア界から具体的に締め出されて来た人物が、山本太郎氏であり、植草一秀氏であり、そして、今回の古賀氏と言う事が大きな問題であり、それが、公然と行われていても何もできないでいるのが知識階級、大衆、庶民の持つ「貧困の実相」であると断言できるのではないでしょうか?
国家権力と沖縄県政である辺野古のパワーゲームも同じ様に握りつぶされつつある状況です。
本日、日曜日「サンデーモーニング」にて、姜尚中氏が、「法の問題ではなく、政治の不在が問題である」と発言されていました。
政治とは、話し合いの場としての場であるわけですが、国政については、既に、絶対的富裕層支配により、政党政治としての《利害対立》性たる「格差」論不在により、一党独裁体制が、樹立されているのであり、わずか、沖縄だけがそれに、最後の民衆の砦としての抵抗をしていると言う図式を理解しなくてはならない。
その危機感こそが、日本における「貧困」であり、ピケティ格差論の核心たる事を、共同研究の俎上に載せていかねばならないと言う事を広く、理解をしていかねばならないのではないかと考えます。
原発行政問題、企業支配問題、メディア問題、全てが、「貧困と格差」としての帝国主義的支配によって、「政治不在」と言う姜尚中氏の指摘の中にある事について、真摯に、あらゆる段階での学習会、そして、インターネット広報から中央メディア支配への切り崩しとして、まずは、民主主義と政党政治としての「貧困と格差」支配を早急に、打開していかなくてはならないそれこそが、民主主義とピケティ旋風格差論の核心ではないのかと感じています。
朝まで生テレビ
激論!ピケティ旋風と日本の格差
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/contents/theme/0057/
古賀発言問題にて萎縮したのか、言論統制下の中での「朝まで生テレビ」は、まったく、見劣りするばかりの内容となっていた。
田原総一朗氏もテレビの中で、生き残るために必死な様にも思える。爆弾発言は決してしない。
「日本は、表層的にうまくいっている」「格差は、あっても良いが貧困の救済だけが問題だ」とすりかえるばかりとなる。
最貧困から救済されたる人民は、その社会の奴隷でしかない。
奴隷を作りたいとする論に終始するのには、驚きだ。
第25条 すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
この憲法条文違反であり、不健康被爆的訴えを政治的に出来る基盤、文化的で健全な政党政治そのもの不在とメディア独占により、奴隷化されている状況こそが、貧困であり、格差問題と考える。
政治的自立としての民主主義の防衛としての「貧困」については、一切、語らないスタンスと変わっていた。
恐るべき日本のメディア支配としての言論統制時代の「貧困・格差」問題が、番組そのもの方にあるのである。
ホリエモンの与太話はまさに、羞恥すべき酔っぱらいの戯言に様に虚しく記録されていただけであったのではないだろうか。
さらに、
この続報を突き詰めて書き出していきたい予定である。
続く。