「根拠薄弱」から「追悼文を読ませてください」へ

 澤藤統一郎氏の『朝鮮人虐殺を反省しない、こんな都知事でよいのか。』を読んでその通りだと思う。澤藤氏に賛成する方も多いと思う。
 しかし小生は,都知事や首長・首相に多くを期待してはいけないと思う。安倍首相が広島で使った追悼文と同じ内容の文を長崎で使ったという話もあった。沖縄の人々の心を全く理解しない首相の挨拶もある。われわれは首相に多くを期待すべきなのであろうか。
 「追悼文をお願いしたい」は,川のそばまで連れて行って馬に水を飲ませようといくら努力しても無駄なのと同じ面がある。同じことは「南京虐殺はなかった」という狂信者にも当てはまると思う。
 朝鮮人虐殺者数が「根拠薄弱」であるから「追悼文を送るな」という意見に対して都知事がこれに一度屈した以上以後,追悼文を送るはずがない。数字にはいろいろあるが虐殺が数千人単位で行われたことは明らかという事実を否定できない。よって追悼文を送ってきた右翼・自民党系知事もいたのである。事は南京虐殺者数についても同じ。
 混乱した状況で正確な人数など分かるはずがない。しかしまた「行政区」が異なるという理由だけで被爆者として認定されない長崎県・隣県の事例もある。被曝しているのに被曝していないとはこれいかに。
 他方で,朝鮮人虐殺の他に中国人も殺されたという説もある。これについては論じないが,不思議に思うのは,なぜ,首長の挨拶や追悼文がないと式典や儀式が行われないのか,ということである。
 集まった仲間,同志で式をやればいいのではないだろうか。もちろん進行役やその組織の「長」は必要であろう。ほかに客人があれば紹介してもいいだろう。しかしなぜ知事の追悼文が必要なのであろうか。都知事なんて知らない,という「式」も必要なのではないだろうか。
 虐殺は朝鮮人虐殺をはじめ,パレスティナ人虐殺,イエメン人虐殺,ユダヤ人虐殺,ツチ・フツ族虐殺そして南京虐殺など地球上のあらゆる所で起きている。彼らの追悼のために世界政府≒国連の事務総長からの追悼文が毎年必要なのかどうか。
 ところで,原水協と原水禁の両組織の統一に向けて尽力された故・中野好夫東大教授(英文学)の話を思い出す。氏の長男が土井晩翠家の婿養子になられた。晩翠死亡の時予定になかったが旧文部省からの役人が「突然」割り込んできて弔辞を読み上げた。これに対して中野氏はこの割込みに立腹されたという(中野好夫著作集,筑摩書房)。
 この故事には意味が複数あるだろうが,都知事や各省庁から弔辞や追悼文が寄せられても断る勇気がある家,組織,そして個人でありたい。