吉田一穂という詩人の作品「白鳥」が好きである。学生時代にまだ休刊になっていなかった「日本読書新聞」で「磁極30度斜角の新しい座標系に、古代緑地の巨像が現れてくる」という「白鳥」の一節を読んで、こんな詩はとても書けないと思った。そしてそれ以来、この詩が一番好きな詩である。ただし私は、詩心はまったく持ち合わせていないから、この詩を論じることはできない。ここで問題にしようとするのは、正字で組むか、俗字(当用漢字)で組むか、という俗っぽいことこの上ない話である。
有名な詩であるから、いろいろな版がある。一番手軽なのは、思潮社版の『吉田一穂詩集』であろう。思潮社版の『吉田一穂詩集』の白鳥の「14」はこうなっている。
ユークリッド星座。
同心円をめぐる人・獣・神の、我れの垂直に、氷蝕輪廻が軋んでゆく。
終夜、漂石が崩れる。
私が最初に「白鳥」の全文を読んだのは、南柯書局版であるが、ここでは「氷蝕輪廻」は「冰蝕輪廻」となっている。南柯書局版の「白鳥」は「正字歴史的假名遣い」で組んであるからこうなる。詩人・一穂はやたらと古めかしい難解なコトバを使う。そしてそれ故にひどく読みづらい文字が使われる。この冰という字は最初にそれを見たときには読めなかった記憶がある。辞書を引いて漸く「氷」の正字だと知った。しかし、「氷による浸食」を、「氷蝕」ではなく、「冰蝕」とする理由がどこにあるかは、ついに判らなかった。南柯書局版の「白鳥」の「14」には、「同心圓」というコトバも出てくる。これも思潮社版では「円」という俗字が使われている。あえて「圓」という文字を使わなければならない理由などどこにも見あたらない。俗字を使っている思潮社版の「白鳥」でも詩人・一穂の詩情は十分に伝わってくる。
右翼めいた「物書き」「作家」の一部には「正字歴史的假名遣い」を主張して、「正字」を遣いたがる連中がいるが、そうすることで伝わってくるのはスノッビズムだけである。そして、そういう連中は、おそらく円を圓とすることはあっても、「氷」を「冰」と書くことはまずないはずである。その程度のことだから、スノッビズムが余計に匂うのである。
それがいけないというのではない。「冰」という字を知っている必要もそれを遣わなければならない理由もないと言いたいだけだ。「氷」を「冰」とする必要など全くないのだし、それに「こほり」と振り仮名をふる必要も、またない。無理に「正字歴史的假名遣い」に拘ることにこそ問題がある。
コトバは生き物だという。自分が生きてきた僅か半世紀余りの間でもこれは実感できる。文字もまたそうなのだろうと思う。生き物だと知った上で、そのありのままの姿に従う。つまり、多くの人々が普通に識別できるコトバと文字を遣う。そのどこが悪いのか。私には理解できない。もし悪いというのなら、「氷」ではなく「冰」を遣わなければならない理由と、そう主張する人間自身が日常的に「冰」という文字を遣っているかどうか、話してほしいと思う。
――結婚式に「月下氷人」を用意することは少なくなったが、「月下氷人」を「月下冰人」と書いたら、結婚式に出席している人間は一体どう感じるであろうか。「氷」を、難読の「冰」とわざわざ書く意識を疑われるのがオチであろう。「正字歴史的假名遣い」を主張する論者にこのことを尋ねてみたいものだ。
「白鳥──吉田一穂詩集」(南柯書局、1975年)
『吉田一穂詩集』(思潮社、1989年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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