「正規化」も「日本型雇用への回帰」もまちがいだ! 日本の雇用問題・福祉問題の核心を提起

*書評 遠藤公嗣著『これからの賃金』旬報社(2014.11)

雇用と福祉への不安――この二大暗雲が日本を覆っている。とくに若者たちの頭上を。

新たに職を求める若者たちにとっては、非正規雇用が常態化し、「正社員」にうっかり飛びつけば「ブラック企業」の公算が大、といういやな時代になった。

終身雇用・年功賃金で企業が労働者とその家族の生涯の生活を保障してきた「日本型福祉制度」も1990年のバブル崩壊とともに、音を立てて崩れつつある。

では、どうすればよいのか。

労働組合の運動も「日本型福祉」という「既得権益の擁護」が中心で、非正規労働者の問題は「正規労働者の賃金・福祉の防衛」「非正規の正規化」によって自ずと解決される、という立場のように見受けられる。

企業の「非正規雇用」を制限し、「非正規の正規化」と「正規採用」を要求していくのはとうぜんではないか、正社員なら終身雇用であるし社会保険料も企業が負担してくれる、労働者を使い捨てにする「非正規」をなくすことが基本ではないか――という、私も漠然と考えていたこうした「常識的な考え」は、遠藤公嗣『これからの賃金』によって、根底から、打ち壊された。

 

遠藤公嗣の「これからの賃金」論は、つぎの二つの柱から成り立っている。

一つは、「日本型福祉制度への回帰」はもはや不可能である、という歴史認識である。「正規化」も「日本型福祉」の一部であれば、このことは「正規化も不可能」ということを含意する。

もう一つは、非正規雇用問題に対しては「非正規の正規化」ではなく、「同一価値労働同一賃金」の旗を高く掲げて非正規労働者の差別待遇を解消していくべきだ、という戦略論である。

 

「日本型福祉制度」は、すでに戦後日本の社会分析として定着している。終身雇用、年功賃金、男性稼ぎ主による家計、…。

遠藤はこの「戦後システム」は1960年代につくられたとみる。だから「1960年代型日本システム」と、遠藤は名付ける。

遠藤にいわせると、この日本型社会福祉システム(の崩壊)と今日の非正規急増の日本型雇用システム(の変化)は、密接に関連している。ところが福祉を論ずる財政福祉研究者は雇用問題を脇に置き、雇用問題を論ずる労働賃金研究者は福祉システムを脇に置いてきた。両者、つまり日本の戦後福祉システム[の動揺・崩壊]と雇用問題[における深刻な非正規化等]をあわせた「日本型社会システム」の動揺と再編と考えてはじめて、全体が見えてくる。

両者を結びつける1枚の図を遠藤は提起する(下図)。yazawa

左にあるピラミッドは「日本的雇用慣行」を示している。右側の「男性稼ぎ主型家族」は日本的な福祉制度を表している。

日本的雇用慣行が「終身雇用・年功賃金」であったから、女性は結婚退職しても、一家の生活は「男性稼ぎ主」の賃金で何とかやっていけた。福祉は企業が担い、政府の福祉は「日本型雇用慣行」から外れる周辺をカバーすればよかった。

女性の早期退職は、企業にとっても都合がよかった。というのは、①同期入社の社員のうちほとんどの女性が早期に退職するので、男性社員はほぼ全員が年齢とともに昇任できる(ピラミッドの中の「将棋の駒」型の5角形に注目)。②退職して家庭の主婦となった女性と学生が大量に企業の非正規労働者となり、こうした非正規労働者の増減によって、企業は、解雇することなく雇用調整ができ、解雇なき雇用調整が経済成長に寄与した。

こうして「日本型雇用慣行」と「男性稼ぎ主型家族」の二つは、互いに支え合っていた。こうした「支え合い」が「1960年代型日本システム」の成立要因であった。そしてこのおなじ「支え合い」が、いまや、崩壊要因に転じているのだ。

 

遠藤の「これからの賃金」論の第二の柱たる「同一価値労働同一賃金」とは何か。「仕事がちがっていても、労働の価値がおなじなら、おなじ賃金を支払うべきだ」という主張である。

自分の無知を告白すれば、私は「同一価値労働同一賃金」が欧米では賃金を論ずる際の基底になっているとは知らなかった。ILO(国際労働機関)が賃金理念として一貫して主張しているのは「同一価値労働同一賃金」だという。しかもこの理念は第一次世界大戦後のベルサイユ条約にさかのぼるという。

日本では「同一価値労働同一賃金」は「同一労働同一賃金」と混同されている。私も混同していた。だが「同一価値労働同一賃金」は「同一労働同一賃金」ではない。どうちがうのか。

 

スーパーマーケットの「店長」には正規の社員も非正規の社員もいる(実際にはほとんどが非正規社員)。「店長」という「おなじ労働[仕事、職務]」をしているのだから、非正規店長にも正規店長とおなじ賃金を支払うべきだ、というのはわかりやすい。

では、「店長」の労働と「調理場で魚をさばく」労働ではどうか。労働の内容(職務)は異なっても「労働の価値」は同じものさしで、つまり点数で比較できる、というのが「同一価値労働同一賃金」の考え方である。1時間当たりの「店長」の労働が100点で「調理場で魚をさばく」労働が80点とか。そして1点1時間当たり何円と賃金率を決めれば、点数に比例して賃金額が決まる。

病院の医師と看護師と検査技師の「労働の価値」を点数で評価したりできるのか?市役所の生活保護窓口と図書館職員とゴミ集配車の「労働の価値」を点数で評価できるのか?「異なる仕事を同じ物差しで点数評価する」など空想的で無理だ、というのがこれまでの日本の「常識」であろう。だが日本の「非常識」も欧米では「常識」だという。

遠藤はこの、日本ではほとんど前例のない「職務評価」作業のパイオニアでもある。自治労との共同研究で「自治労職務評価制度」をまとめた。それを基にして、A市(人口50万人)の職員について実際に職務評価した[遠藤公嗣編著『同一価値労働同一賃金をめざす職務評価 官製ワーキングプアの解消』2013.10旬報社]。

遠藤らが開発中の職務評価の方法は、イギリスのそれを参考にしたものである。

しかし、イギリスでも点数による職務評価が必ずしも広く行き渡っているわけではない。にもかかわらず欧米で「同一価値労働同一賃金」が賃金の理念として「常識」となっているのに対して、日本では「同一価値労働同一賃金」という言葉さえ普及していない[私のように「同一労働同一賃金」と混同していることも多い]。その差はどこにあるのか?

欧米では、特定の「職務」(の遂行者)を雇用するのに対して、日本では(職務を特定せずに)「人」を雇用する。

欧米では、「職務」に対して賃金を支払う。日本では、「人」に対して賃金を支払う。

つまり、欧米は「職務給」で、日本は「属人給」である。

松下幸之助の松下電器のように、従業員を家族とみる「家族主義」は日本的経営の普遍理念であった。「家族主義」なら、賃金は必然的に「属人」になる。賃金は、企業に(その家族も含めて、生涯)奉仕してくれる「人」に対する対価だからである。

これにたいして、欧米の「職務給」はちがう。人の生涯を保障するものではなく、家族(妻)の生活を保障するものでもない。生涯生活保障は政府の福祉の役割であり、妻も自ら就労して家計の一部を稼ぐ。

日本の企業理念も雇用慣行も、1990年のバブル崩壊から大きく変わりつつある。「属人給」から「職務給」への転換は、こうした企業の在り方・雇用慣行の変化の表れであるが、雇用慣行だけが中途半端に「欧米型」(職務給)に近づいたのに、福祉システムの方は、依然として企業福祉を前提としている。ところが、大企業でさえも「属人給的な企業福祉」が困難になっている。政府福祉は、大企業周辺の労働者だけでなく、大企業本体の労働者に対してもその生涯生活を保障するものへと、あらためるべき時期にきている。「これからの賃金」は「これからの福祉」の問題提起でもあるのだ。

 

最後に、『これからの賃金』のこれからに望むこと。

第一。「1960年代型日本システム」の崩壊の原因について。著者は、「1960年代型日本システム」の存続根拠を、「1955-1973-1990年の高度成長期・安定成長期における企業の成長」に求めている。これは正しい。では、こうした「存続の根拠」がなぜ失われたのか。本書では、「人口ボーナスから人口オーナスへ」、「ITの発達」、「韓国・中国等近隣国との競争激化」といった要因が挙げられている。大まかには、その通りだと思う。雇用・労働の専門家である著者には、マクロな分析だけでなく、企業経営に即した分析があるはずだ。企業経営の変化からの掘り下げた分析を知りたい。

第二。「同一価値労働同一賃金」という戦略論は、著者らの尽力で職務分析モデルの構築が進められているが、労働組合の実践にはまだほとんど結びついていないという。結びつくためには、職務分析と並行して、欧米の職務給とその根拠としての職務分析についての紹介がもっと必要ではないか。

*2015年2月14日世界資本主義フォーラムに遠藤公嗣さんを招いて『これからの賃金』について講演していただいた。この「書評」は、このときの講演を聞いての感想も加味してあります。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study634:150301]